第11話 終の棲家
第11話 終の棲家
四月の朝だった。
窓を開けると春の風が部屋へ流れ込んできた。
柔らかい風だった。
少し湿り気を含んだ土の匂い。
花の香り。
どこか懐かしい春の匂いだった。
富子はゆっくりとカーテンを開けた。
そして思わず息をのんだ。
「きれい……」
窓の外では桜が満開だった。
薄桃色の花が枝いっぱいに咲いている。
朝日を浴びて輝いていた。
花びらが風に舞う。
まるで雪のようだった。
食堂へ行くと、皆が窓の外を見ていた。
「咲いたねえ」
「今年も綺麗だ」
「満開だね」
あちこちで声が上がる。
職員たちも笑顔だった。
朝食は桜を見ながら食べた。
鮭の塩焼き。
ほうれん草のおひたし。
味噌汁。
ご飯。
いつもと同じ献立なのに、なぜか少し豪華に感じた。
「営業部長」
美咲が声をかける。
「だから違うって」
「今日はお花見ですよ」
「知ってる」
「楽しみですか?」
富子は窓の外を見た。
「少しね」
本当はかなり楽しみだった。
昼前になると利用者たちが中庭へ集まり始めた。
車椅子の人。
杖をつく人。
寝たきりで普段は部屋から出られない人まで職員たちが連れてくる。
施設総出だった。
青い空。
暖かな日差し。
風に揺れる桜。
去年の春。
富子はまだここへ来ていなかった。
古いアパートで暮らしていた。
転び。
薬を忘れ。
それでも必死にしがみついていた。
今は違う。
特養の中庭で桜を見ている。
人生は不思議だった。
「富子さん」
振り返る。
幸子だった。
入居したばかりの頃は泣いてばかりいた女性だ。
「綺麗ですね」
「本当にね」
「去年は家で一人だったんです」
幸子が言った。
「そう」
「でも今年は誰かと見られる」
その言葉に富子は胸が温かくなった。
遠くでは職員たちがお茶を配っている。
桜餅も用意されていた。
甘い香りが漂う。
「美味しい」
「桜餅好き?」
「大好き」
利用者たちが笑う。
中庭は賑やかだった。
その時。
風が吹いた。
桜吹雪だった。
花びらが空いっぱいに舞う。
「わあ」
誰かが声を上げる。
車椅子の利用者が空を見上げる。
寝たきりの利用者も笑っている。
職員たちも見上げる。
皆が同じ空を見ていた。
富子はふと思った。
ここは自分が望んだ場所ではなかった。
最初は嫌だった。
帰りたかった。
自由がなくなったと思った。
人生が終わる場所だと思った。
でも。
本当にそうだっただろうか。
「おはよう」
朝になれば誰かが言う。
「おはよう」
自分も返す。
「元気?」
「まあまあ」
「ご飯食べた?」
「食べたよ」
そんな何気ない会話。
何でもない毎日。
けれど一人暮らしだった頃は、それがなかった日もある。
誰とも話さない日。
誰にも会わない日。
それを思い出した。
美咲が隣へ来る。
「どうしました?」
「考え事」
「また小説のネタですか」
「違うわよ」
「本当に?」
「本当」
二人は笑った。
富子は空を見上げた。
青い空だった。
桜が揺れている。
夫の顔を思い出した。
若い頃の自分を思い出した。
和俊が小さかった頃を思い出した。
楽しかったこと。
辛かったこと。
泣いたこと。
笑ったこと。
全部が人生だった。
良いことだけではない。
苦しいことも多かった。
病気もあった。
失敗もした。
後悔もある。
それでも。
全部ひっくるめて自分の人生だった。
風が吹く。
花びらが肩に落ちる。
富子はそっと摘まんだ。
柔らかい。
薄い。
少し触れただけで壊れそうだった。
「富子さん」
美咲が呼ぶ。
「なに?」
「来年も見ましょうね」
富子は笑った。
「そうね」
そして少し考える。
来年もいるだろうか。
再来年は。
五年後は。
分からない。
誰にも分からない。
桜井さんの席を思い出す。
空になったあの席。
死は近くにある。
それは変わらない。
怖くないと言えば嘘になる。
でも。
今は思う。
今日の桜を見られた。
今日誰かと笑えた。
それだけでも十分幸せなのかもしれない。
富子は桜を見上げた。
花びらが舞う。
空が光る。
春風が頬をなでる。
そして小さく呟いた。
「悪くない人生だったね」
誰に向けた言葉でもなかった。
けれど美咲が聞いていた。
「はい」
静かな返事だった。
桜吹雪の中。
利用者たちの笑い声が響く。
職員たちの声が重なる。
春風が優しく吹き抜ける。
終の棲家。
そこは決して理想の場所ではなかった。
けれど。
誰かがいて。
笑い声があって。
おはようと言い合える。
その温かさは確かにあった。
満開の桜の下で、富子は穏やかに微笑んだ。




