第12話 終の棲家の外へ
第12話 終の棲家の外へ
その知らせは、春の終わりにやって来た。
中庭の花壇ではパンジーがまだ元気に咲いていた。
チューリップは花を終え、代わりに初夏の花々が植えられ始めている。
富子はいつものようにラジオ体操を終えたばかりだった。
朝六時半。
食堂のテレビから流れる音楽に合わせて腕を伸ばす。
「いち、に、さん、し」
利用者たちも一緒だった。
最初は数人だった。
だが今では十人以上集まる。
「営業部長、今日も元気ですね」
美咲が笑う。
「誰が営業部長よ」
「皆言ってますよ」
「失礼しちゃう」
そう言いながら富子は笑っていた。
体が軽い。
以前よりずっと軽い。
膝は痛む。
腰も痛む。
それでも歩ける距離が増えた。
食後には部屋へ戻る。
パソコンを開く。
その後は動画サイトでストレッチを見る。
「肩甲骨を動かしましょう」
画面の中の先生が言う。
「はいはい」
富子も真似をする。
最初は三分で息切れしていた。
今では十五分続く。
看護師たちも驚いていた。
糖尿病の数値も改善した。
体重も少し減った。
血糖値も安定した。
主治医は笑顔だった。
「頑張りましたね」
「そう?」
「かなり良いですよ」
富子は少し誇らしかった。
努力は裏切らない。
そう思った。
その一週間後だった。
施設長から話があると言われた。
応接室だった。
施設長。
相談員。
ケアマネジャー。
皆がいる。
嫌な予感がした。
「富子さん」
施設長が口を開く。
「介護認定の結果が出ました」
「はい」
「要介護二になりました」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「え?」
「改善されたんです」
相談員が笑顔で言う。
「すごいことですよ」
富子は呆然とした。
要介護三から二。
回復した。
良いことのはずだった。
だが皆の顔が少し曇っている。
「それで」
施設長が続けた。
「大変言いにくいのですが」
胸が冷たくなる。
「特養の入所基準は原則として要介護三以上です」
富子は黙った。
「つまり」
言葉が出ない。
「退所を検討していただく必要があります」
部屋が静かになった。
時計の音だけが聞こえる。
カチ。
カチ。
カチ。
「退所?」
やっと声が出た。
「はい」
「私が?」
「そうです」
「どうして」
自分でも情けない声だった。
「元気になったからです」
相談員が答える。
元気になったから。
元気になったから。
元気になったから。
その言葉が何度も頭の中で響いた。
部屋へ戻った富子は窓際に座った。
外では花壇が揺れている。
去年、自分たちで植えた花だ。
風が吹く。
花が揺れる。
涙が出た。
「何よそれ」
思わず呟く。
「頑張ったのに」
毎日体操した。
歩いた。
ストレッチした。
食事も気を付けた。
だから元気になった。
なのに。
元気になったら出て行けと言われる。
意味が分からなかった。
夕方。
美咲が来た。
顔を見ただけで分かったらしい。
「聞きました」
「聞いた?」
「はい」
富子は俯いた。
「ここは終の棲家じゃなかったの?」
美咲は答えられなかった。
「そう思ってた」
声が震える。
「やっと慣れたのに」
「うん」
「友達もいる」
「うん」
「花壇もある」
「うん」
「帰りたいって泣かなくなったのに」
涙がこぼれる。
「なんでなの」
美咲も泣きそうな顔だった。
翌日。
食堂で皆が知った。
「本当なの?」
幸子が驚く。
「そうらしい」
「でも元気になったんでしょう?」
「そう」
「良かったじゃない」
そう言われても素直に喜べない。
元気になることと。
居場所を失うことが。
同時にやって来たのだ。
数日後。
和俊が面会に来た。
中庭のベンチに座る。
桜は終わり、新緑が眩しい。
「母さん」
「なに」
「俺、嬉しいよ」
和俊は言った。
「要介護二になったんだから」
「……」
「頑張った証拠だよ」
富子は黙っていた。
「でも」
和俊も続けた。
「寂しいな」
その一言だった。
富子は笑った。
「でしょう」
「うん」
「私も寂しい」
二人で花壇を見る。
風が吹く。
花が揺れる。
鳥が鳴く。
「終の棲家だと思ったんだけどね」
富子が言う。
和俊は少し考えた。
「違うかも」
「え?」
「建物じゃないのかも」
富子は息子を見る。
「ここで出会った人とか」
「……」
「笑った時間とか」
「……」
「そういうのじゃないかな」
風が吹いた。
花壇の花が一斉に揺れる。
富子はしばらく黙っていた。
終の棲家。
それは場所だと思っていた。
建物だと思っていた。
けれど違うのかもしれない。
どこへ行っても。
誰かと笑えて。
誰かを思い出せて。
おはようと言い合えるなら。
そこが居場所なのかもしれない。
富子はゆっくり立ち上がった。
膝が少し痛む。
でも歩ける。
前よりずっと歩ける。
空は青かった。
「困ったわね」
富子は笑った。
「元気になっちゃった」
和俊も笑った。
春の風が吹いていた。
少しだけ切なく。
そして少しだけ希望を運ぶように。




