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第7話 認知症の桜井さん

第7話 認知症の桜井さん


 九月になった。


 朝晩の風が少しだけ涼しくなり、施設の庭ではコスモスが咲き始めていた。


 食堂の窓から見える空は高く、夏の終わりを告げるような青さだった。


 朝食を終えた富子は、いつものように施設内を歩いていた。


 営業部長の巡回である。


「おはようございます」


「おはよう」


「今日は元気?」


「ぼちぼち」


 利用者たちに声をかけながら歩いていると、談話室の隅で一人の女性が座っているのが見えた。


 小柄な女性だった。


 白髪を綺麗にまとめている。


 花柄のカーディガンを羽織り、膝の上で手を握りしめていた。


 どこか不安そうな顔だった。


「こんにちは」


 富子は隣に座った。


 女性は顔を上げた。


「あら」


「私は富子」


「桜井です」


 小さな声だった。


「よろしくね」


「よろしくお願いします」


 丁寧な話し方をする人だった。


 その日はそれだけだった。


 しかし翌日も桜井は同じ場所に座っていた。


「おはよう」


「おはようございます」


 そして桜井は突然言った。


「私、娘を迎えに行かなきゃいけないんです」


 富子は瞬きをした。


「そうなの?」


「小学校が終わる頃なんです」


 桜井は真剣だった。


 娘は五十代だと聞いている。


 認知症の症状なのだろう。


 だが富子は否定しなかった。


「そうだったの」


「まだ小さいから心配で」


「それは心配だねえ」


 桜井は少し安心したように頷いた。


 その翌日。


「娘を迎えに行かなきゃ」


 また同じ話だった。


 さらに翌日も。


「娘が待ってるんです」


 同じだった。


 毎日。


 毎日。


 同じ話。


 周囲の利用者たちは少し困った顔をしていた。


「また始まった」


「さっきも聞いたよ」


「何回目だろうね」


 そんな声も聞こえる。


 職員たちも優しく対応していたが忙しい。


「桜井さん、大丈夫ですよ」


「娘さんはもう大人ですから」


 そう説明する。


 しかし数分後には忘れてしまう。


 そしてまた不安になる。


 その繰り返しだった。


 ある日の午後だった。


 秋の日差しが柔らかく窓から差し込んでいる。


 談話室には紅茶の香りが漂っていた。


 桜井がまた不安そうにしている。


「どうしたの?」


 富子が聞く。


「娘を迎えに行かなきゃ」


「そうだったの」


「帰り道が危ないから」


「心配だねえ」


 桜井の目に涙が浮かぶ。


「事故にあったらどうしよう」


「そうねえ」


「暗くなったらどうしよう」


「大変だったねえ」


 富子は頷いた。


 本当に大変だったのだろう。


 今ではなく。


 昔。


 まだ娘が小さかった頃。


 雨の日も。


 風の日も。


 迎えに行ったのだろう。


 母親だったのだから。


 桜井は少しずつ話し始めた。


「主人は仕事で遅くて」


「うん」


「私が迎えに行ってたの」


「そうだったの」


「熱があっても」


「うん」


「台風の日も」


「頑張ったんだねえ」


 桜井の表情が柔らかくなった。


 その時だった。


 美咲が通りかかった。


 少し驚いた顔をしている。


 桜井は笑っていた。


 いつもよりずっと自然な笑顔だった。


 夕食後。


 職員たちが話していた。


「不思議ですよね」


「何が?」


「桜井さん」


 美咲が言う。


「富子さんと話してる時だけ落ち着いてるんです」


「確かに」


 看護師も頷いた。


「何を話してるんだろう」


 翌日。


 美咲は実際に聞いてみた。


 桜井がまた言う。


「娘を迎えに行かなきゃ」


 すると富子が答える。


「そうだったの」


「小学校が終わるの」


「大変だったねえ」


「雨の日なんか大変で」


「そうでしょうねえ」


 美咲はしばらく聞いていた。


 そして気づいた。


 富子は一度も訂正していない。


 一度も否定していない。


 ただ聞いている。


 ただ受け止めている。


 その夜。


 美咲が聞いた。


「どうして否定しないんですか?」


「何を?」


「娘さんの話」


 富子は少し考えた。


 窓の外には月が出ている。


 虫の声が聞こえる。


「だって」


「うん」


「桜井さんにとっては本当なんでしょう」


 美咲は黙った。


「昔、本当にそうだったんだから」


 富子は続ける。


「娘さんを迎えに行って」


「うん」


「心配して」


「うん」


「一生懸命育てた」


 秋風がカーテンを揺らした。


「その気持ちは本物だもの」


 美咲は胸が熱くなった。


 桜井が忘れてしまっても。


 母親だった時間は消えない。


 愛した記憶は残る。


 富子はそれを知っているのだ。


 数日後。


 桜井はまた言った。


「娘を迎えに行かなきゃ」


 富子は笑った。


「そうだったの」


「急がなきゃ」


「じゃあ迎えに行く前にお茶飲もうか」


 桜井も笑った。


「そうしましょう」


 二人の前には湯気の立つほうじ茶。


 香ばしい香りが広がる。


 窓の外ではコスモスが風に揺れていた。


 施設の中では毎日同じことが繰り返される。


 朝が来て。


 昼が来て。


 夜が来る。


 桜井の話も繰り返される。


 だが富子は嫌ではなかった。


 何度でも聞く。


 何度でも頷く。


 何度でも言う。


「そうだったの」


「大変だったねえ」


 その言葉を聞くたびに桜井は安心したように笑う。


 まるで長い長い不安な道を歩いてきた人が、ようやく休める場所を見つけたみたいに。


 夕焼けが談話室を赤く染める。


 桜井は笑っていた。


 富子も笑っていた。


 そして遠くからその様子を見ていた美咲たち職員も、静かに微笑んでいた。



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