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第6話 営業部長 富子

第6話 営業部長 富子


 八月に入った。


 朝から蝉の大合唱だった。


 特養の庭では百日紅の花が濃い桃色に咲き、強い陽射しを受けて揺れている。


 富子は朝食を終えると、いつものように席を立った。


「富子さん、どこ行くんですか?」


 美咲が笑う。


「見回り」


「またですか」


「異常なしを確認してくる」


 美咲は声を上げて笑った。


 最近、富子は施設の中を歩き回るのが日課になっていた。


 食堂。


 廊下。


 談話室。


 中庭。


 どこに誰がいるか自然と把握してしまう。


 じっとしていられない性分は相変わらずだった。


 ある日の午前中。


 玄関近くを歩いていると見慣れない女性がソファに座っていた。


 七十代後半くらいだろうか。


 小さなバッグを抱え、緊張した顔をしている。


 隣には娘らしい女性。


 新しい入居者だとすぐ分かった。


 富子は迷わず近づいた。


「こんにちは」


 女性はびくっとした。


「あ、はい」


「今日から?」


「ええ」


「そう」


 富子はにっこり笑った。


「大丈夫よ」


「え?」


「私も最初は帰りたかったもの」


 女性は少しだけ笑った。


「本当ですか」


「毎日帰ろうと思ってた」


「私もそう思ってます」


「でしょうね」


 二人は顔を見合わせた。


 娘さんがほっとした顔をしている。


「私は富子」


「中村幸子です」


「よろしくね」


 それだけだった。


 それだけなのに幸子の表情が少し和らいだ。


 昼食の時には幸子を食堂まで案内した。


「味噌汁おいしいわよ」


「そうなんですか」


「今日は肉じゃが」


「好きです」


「じゃあ当たりね」


 そんな調子だった。


 数日後。


 今度は男性の新入居者がやって来た。


 元教師らしい。


 しかめ面をしている。


 誰とも話さない。


 富子は構わず隣へ座った。


「こんにちは」


「……」


「こんにちは」


「なんですか」


「暇だから」


 男性は呆れた顔をした。


「私は暇じゃない」


「じゃあ何してるの」


「考え事です」


「面白い?」


 男性は初めて吹き出した。


「変な人ですね」


「よく言われる」


 その日から少しずつ会話が増えた。


 富子は誰にでも話しかける。


 相手が無口でも。


 怒りっぽくても。


 認知症でも。


 関係ない。


 気になったら声をかける。


 それだけだった。


 職員たちとも仲良くなった。


 厨房のおばちゃんとは献立の話。


 清掃スタッフとは天気の話。


 看護師とは薬の話。


 誰とでも話す。


 その結果。


 施設の情報が自然と集まるようになった。


「美咲ちゃん風邪ひいたの?」


「なんで知ってるんですか」


「看護師さんが心配してた」


「情報早いなあ」


「ふふふ」


 また別の日。


「今日は施設長来てるのね」


「なんで分かるんですか」


「玄関に靴があった」


「見てるなあ」


 職員たちは笑った。


 ある日。


 昼食後の休憩時間だった。


 職員たちが事務室で話している。


「また富子さんが新しい利用者さん案内してましたよ」


「職員より先に話しかけてる」


「営業力高すぎる」


「営業部長ですね」


 誰かが言った。


 皆が吹き出した。


 その日からだった。


「営業部長、おはようございます」


 朝。


 美咲がそう言った。


「誰が営業部長よ」


「富子さんです」


「嫌よ」


「施設一番の顔役じゃないですか」


 周囲の利用者まで笑う。


「営業部長」


「営業部長」


 気づけばあだ名が定着していた。


 富子は文句を言いながらも少し嬉しかった。


 ある夕方だった。


 談話室で幸子が泣いていた。


 娘が帰ったあとだった。


「帰りたい」


 ぽつりと呟く。


 富子は隣に座った。


「分かる」


「毎日そう思います」


「私も思った」


「今でも?」


「時々」


 幸子は驚いた顔をした。


「じゃあどうして平気なんですか」


 富子は窓の外を見た。


 夕焼けだった。


 百日紅が赤く染まっている。


「平気じゃないの」


「え?」


「寂しい時は寂しい」


 幸子は黙って聞いている。


「でもね」


「はい」


「ここにも人がいるでしょう」


 食堂から笑い声が聞こえる。


 職員の声もする。


 車椅子を押す音も聞こえる。


「私は一人でいるより好きかな」


 幸子の目が少し潤んだ。


「ありがとう」


「お礼言われることじゃない」


 富子は照れくさくなった。


 その夜。


 部屋へ戻る途中だった。


 廊下の窓から月が見える。


 丸く明るい月だった。


「営業部長」


 後ろから声がする。


 振り返ると美咲だった。


「なによ」


「今日もお疲れさまでした」


「仕事してないわよ」


「してますよ」


 美咲は笑った。


「富子さんが話しかけると皆さん元気になるんです」


 富子は返事ができなかった。


 昔から落ち着きがないと言われてきた。


 じっとしていろと言われてきた。


 余計なことをするなと言われてきた。


 それなのに。


 ここでは違った。


 歩き回ることも。


 話しかけることも。


 気になることも。


 全部が誰かの役に立っているらしい。


 窓の外では月が静かに輝いていた。


 富子は少し照れながら笑った。


「営業部長も悪くないわね」


 その声は、自分でも驚くほど楽しそうだった。



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