第5話 パソコンで小説を書いてもいいの?
第5話 パソコンで小説を書いてもいいの?
特養へ入居して一か月が過ぎていた。
七月の朝だった。
窓の外では蝉が鳴いている。
じりじりと照りつける陽射しが施設の庭を白く光らせていた。
富子は食堂の窓際に座り、麦茶を飲んでいた。
氷がからりと鳴る。
冷たい麦茶が喉を通るたびに少しだけ気持ちが落ち着く。
しかし最近、別のことで落ち着かなかった。
暇なのだ。
施設では規則正しい生活が続く。
朝食。
体操。
入浴。
昼食。
レクリエーション。
夕食。
消灯。
安心ではある。
だが富子の頭の中は相変わらず忙しかった。
あれを考え。
これを考え。
昔のことを思い出し。
知らない誰かの人生を想像する。
物語ばかり浮かぶ。
昔からそうだった。
文字を読むのは苦手だった。
でも物語を考えるのは好きだった。
最近ではパソコンで小説を書くようになっていた。
文字を大きくできる。
読み上げも使える。
紙よりずっと楽だった。
しかし今、そのパソコンは和俊の家に置いてある。
施設へ持ち込んでいいのか分からなかった。
「どうしたんですか?」
声をかけたのは美咲だった。
「そんな難しい顔して」
「別に」
「別にじゃない顔です」
富子は少し笑った。
この若い介護士は妙によく気づく。
「ねえ」
「はい」
「変なこと聞いていい?」
「どうぞ」
「パソコンで小説書いてもいいの?」
美咲は一瞬きょとんとした。
「小説?」
「そう」
「富子さん書くんですか?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけ?」
美咲は笑った。
「絶対ちょっとじゃないですよね」
図星だった。
富子は目をそらした。
「それで」
「うん」
「施設で書きたいんですか?」
「書きたい」
その返事だけは即答だった。
自分でも驚くほどだった。
美咲は嬉しそうに笑った。
「いいじゃないですか」
「いいの?」
「もちろんです」
「怒られない?」
「誰にですか」
「施設に」
「どうして怒るんですか」
富子は言葉に詰まった。
自分でも分からない。
なんとなく。
施設へ入るということは、好きなことを諦めることだと思っていた。
だからだろう。
「少し相談してみますね」
美咲が言った。
その日の午後だった。
相談員の男性が部屋へやって来た。
「富子さん」
「はい」
「小説を書かれるそうですね」
富子は急に恥ずかしくなった。
「大したものじゃないです」
「パソコンを持ち込みたいとか」
「駄目ですか?」
思わず聞いていた。
相談員は首を傾げた。
「どうして駄目だと思ったんですか?」
「だって老人ホームでしょう」
「はい」
「老人がパソコンなんて」
相談員は吹き出した。
「今は普通ですよ」
「そうなの?」
「動画を見る人もいます」
「へえ」
「ネット通販する人もいます」
「へえ」
「オンライン将棋する人もいます」
富子は目を丸くした。
時代は変わったらしい。
「電気代や管理のことはありますが」
「うん」
「使うこと自体は問題ありません」
富子の胸が少し熱くなった。
夕方。
和俊が面会に来た。
スイカを持ってきている。
冷蔵庫で冷やした赤い果肉から甘い香りが漂う。
「美味しい」
富子は一口食べた。
夏の味だった。
「母さん」
「なに?」
「パソコン持って来ようか」
富子は顔を上げた。
「聞いたの?」
「美咲さんから」
和俊が笑う。
「施設の許可出たって」
「そう」
「嬉しそうだね」
富子は返事をしなかった。
だが顔が勝手に笑っていた。
三日後。
パソコンがやって来た。
小さな机の上に置かれる。
見慣れたキーボード。
見慣れた画面。
まるで古い友人と再会したような気持ちだった。
「久しぶり」
思わず呟く。
電源を入れる。
画面が明るくなる。
読み上げソフトの声が流れる。
それだけで胸がいっぱいになった。
その日の夜。
窓の外では蝉が鳴いていた。
遠くで職員たちの声も聞こえる。
富子はキーボードへ手を置いた。
何を書こう。
施設のこと。
美咲のこと。
和俊のこと。
桜のこと。
思いつくことはたくさんある。
カーソルが点滅する。
ぴか。
ぴか。
まるで急かしているみたいだ。
「しょうがないわね」
富子は笑った。
そして打ち始めた。
第一行。
第二行。
第三行。
指は少し震えていた。
だが止まらなかった。
物語が流れ出す。
胸の中に閉じ込めていたものが、言葉になっていく。
気づけば一時間が過ぎていた。
ノックの音がする。
「富子さん」
美咲だった。
「まだ起きてたんですか」
「書いてたの」
「楽しいですか?」
富子は画面を見た。
そこには拙い文章が並んでいる。
上手ではない。
誤字もある。
それでも。
「楽しい」
心からそう思った。
美咲が微笑む。
「よかった」
窓の外では夏の夜風が木々を揺らしていた。
施設へ入った時、富子は人生が終わるような気がしていた。
自由がなくなると思っていた。
好きなことも諦めると思っていた。
けれど違った。
場所が変わっただけだった。
まだ笑える。
まだ悩める。
まだ物語を書ける。
まだ生きている。
富子は再びキーボードに向かった。
画面の白い世界が静かに待っている。
まるで新しい人生の一ページのように。




