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第4話 じっとしていられない女

第4話 じっとしていられない女


 特養へ入居して二週間が過ぎた。


 梅雨の晴れ間だった。


 窓の外では雨に洗われた紫陽花が青く輝いている。


 食堂の窓から差し込む朝日がテーブルを照らし、味噌汁の湯気が白く揺れていた。


 朝食は鮭の塩焼きとほうれん草のおひたし、それに豆腐の味噌汁だった。


「ごちそうさま」


 富子は一番先に席を立った。


 周囲の利用者たちはまだ食べている。


「富子さん、早いですねえ」


 職員が笑う。


「だって終わったもの」


 富子はそう答えたが、本当はじっと座っているのが苦手なのだ。


 食べ終わったら次へ行きたい。


 何かしたい。


 どこか見たい。


 誰かと話したい。


 胸の中がいつもそわそわしている。


 十時。


 レクリエーションの時間になった。


 利用者たちがテーブルを囲んでいる。


 今日の内容は塗り絵だった。


 紫陽花の絵。


 花びらが細かく描かれている。


「きれいですねえ」


 職員が配る。


 皆が色鉛筆を手に取る。


 富子も受け取った。


 だが数分後には席を立っていた。


 窓の外を見る。


 廊下へ出る。


 また戻る。


 そして座る。


 また立つ。


「富子さん?」


 職員が困った顔をする。


「飽きたの?」


「そうじゃないの」


「じゃあどうしたの?」


「分からない」


 本当に分からない。


 座っていなければいけないと思う。


 でも体がむずむずする。


 窓の外の鳥も気になる。


 廊下の向こうの声も気になる。


 厨房から漂う昼食の匂いも気になる。


 全部気になる。


 結局、塗り絵は白いままだった。


 昼食後。


 今度は七月の予定表が配られた。


 職員が説明する。


「来月は七夕会があります」


「夏祭りもあります」


「カラオケ大会もありますよ」


 利用者たちは予定表を眺めている。


 富子も受け取った。


 だが文字がうまく頭に入らない。


 黒い線が並んでいる。


 読もうとすると文字が動くように見える。


 何度も同じ場所を見てしまう。


 気づけば内容が分からなくなっている。


「どうしたの?」


 隣の佐々木が聞いた。


「ううん」


 富子は予定表をたたんだ。


 恥ずかしかった。


 七十年も生きている。


 なのに文字が苦手だなんて。


 子どもの頃からそうだった。


 教科書を読むのが苦しかった。


 黒板を書き写すのも苦しかった。


 周囲からは努力不足だと思われた。


 怠けていると言われたこともある。


 だから隠してきた。


 ずっと。


 午後。


 食堂では俳句会が開かれていた。


 季節の言葉を書いてみましょうという催しだった。


 職員がホワイトボードに文字を書く。


 利用者たちはノートへ書き写す。


 富子だけが動けなかった。


 ペンを握る。


 止まる。


 書こうとする。


 また止まる。


 汗ばむ。


 情けない。


「富子さん?」


 聞き慣れた声がした。


 美咲だった。


「どうしました?」


「なんでもない」


「顔色悪いですよ」


「なんでもないの」


 富子は目をそらした。


 だが美咲は隣へ座った。


「見せてもらっていいですか?」


「嫌」


「どうして?」


「恥ずかしいから」


 美咲は少し黙った。


 そして小さな声で言った。


「富子さん」


「なに」


「読みにくいんですか?」


 富子は固まった。


 心臓がどくりと鳴る。


 誰にも言われたことのない言葉だった。


「え?」


「文字」


 美咲は優しく続ける。


「予定表を見る時も困っていましたよね」


「……」


「俳句も」


「……」


「もしかして読みにくいんですか?」


 富子の目に涙がにじんだ。


 驚いた。


 自分でも。


 こんなことで泣くなんて。


「分かるの?」


 声が震える。


「少しだけ」


「どうして?」


「私の弟がそうなんです」


 富子は言葉を失った。


 美咲は笑った。


「文字が踊るって言うんですよ」


 その瞬間だった。


 胸の奥に積もっていた何かが崩れた。


「そうなの」


 涙がこぼれる。


「そうなのよ」


 美咲は黙って聞いている。


「昔からなの」


「うん」


「頑張っても読めない時があるの」


「うん」


「何回読んでも頭に入らないの」


「うん」


「皆は簡単そうなのに」


 富子は泣いていた。


 七十歳になって。


 施設の食堂で。


 子どもみたいに泣いていた。


 美咲はティッシュを差し出した。


「大変でしたね」


 その一言だった。


 富子はさらに泣いた。


 大変だった。


 本当に大変だった。


 でも誰にも分かってもらえなかった。


 怠け者。


 不注意。


 落ち着きがない。


 そう言われ続けてきた。


 夕方。


 部屋へ戻った富子は窓を開けた。


 雨上がりの風が入ってくる。


 紫陽花が揺れている。


 どこか心が軽かった。


 ノックの音がする。


「富子さん」


 美咲だった。


「これどうぞ」


 渡されたのは新しい予定表だった。


 文字が大きい。


 色分けもしてある。


「見やすいように作り直しました」


 富子は目を見開いた。


「わざわざ?」


「はい」


「忙しいのに?」


「富子さんの方が大事です」


 富子は笑った。


 泣きそうになる。


 また泣いたら恥ずかしいので笑った。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 美咲が帰ったあとも、富子は予定表を眺めていた。


 相変わらず読みにくい。


 でも前より少しだけ分かる。


 何より嬉しかった。


 初めてだった。


 できないことを責められなかったのは。


 初めてだった。


 分かろうとしてくれる人に出会ったのは。


 窓の外では夕焼けが広がっていた。


 橙色の光が部屋を染める。


 富子は予定表を胸に抱いた。


 施設生活は不自由だ。


 今でも落ち着かない。


 じっとしていられない。


 それでも。


 ここには自分を理解しようとしてくれる人がいる。


 その事実は、夕焼けよりも温かく富子の胸を照らしていた。



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