第3話 落ち着かない春
第3話 落ち着かない春
入居の日は朝からよく晴れていた。
六月の風が青葉を揺らし、窓の外では雀が忙しそうに飛び回っている。
富子は施設の玄関前で立ち止まった。
白い四階建ての建物。
手入れされた花壇。
玄関脇には赤や黄色のマリーゴールドが咲いている。
まるで病院ではない。
それなのに胸が苦しい。
和俊が荷物を持って隣に立っていた。
「行こうか」
「……うん」
返事はしたが足が動かない。
振り返る。
送迎車の向こうには見慣れた街並みがあった。
スーパー。
薬局。
バス停。
もう毎日のようには見られなくなる景色だ。
「母さん」
「分かってるわよ」
富子は無理やり笑った。
「そんな顔しないで」
和俊の方が泣きそうだった。
玄関を入ると、ほのかに消毒液の匂いがした。
その奥から昼食の出汁の香りも漂ってくる。
職員たちが笑顔で迎えてくれた。
「富子さんですね」
「よろしくお願いします」
「お部屋はこちらです」
若い女性職員が案内してくれる。
エレベーターに乗る。
チンという音。
三階。
廊下は明るかった。
窓から陽射しが差し込み、床が光っている。
部屋は個室だった。
小さなベッド。
タンス。
洗面台。
窓の外には桜の木が見える。
春には綺麗だろう。
「どうですか?」
職員が聞く。
「ホテルみたい」
思わず言うと皆が笑った。
だが心の中は全然笑っていなかった。
和俊が荷物を片付け始める。
アルバム。
写真。
急須。
夫の手紙。
自宅から持ってきた物たち。
並べても並べても、自分の家には見えなかった。
「母さん」
「なに?」
「困ったらすぐ電話して」
「うん」
「毎週来るから」
「子どもじゃないわよ」
そう言った瞬間、涙が出そうになった。
慌てて窓の外を見る。
青空が眩しかった。
昼食の時間になった。
館内放送が流れる。
食堂へ向かう。
大勢の利用者が集まっていた。
車椅子の人。
杖をついた人。
眠そうな人。
皆それぞれだ。
席に座る。
今日の昼食は鯖の味噌煮だった。
かぼちゃの煮物。
ほうれん草のおひたし。
味噌汁。
湯気が立ち上り、出汁の香りが鼻をくすぐる。
「美味しそうね」
隣の女性が言った。
「そうね」
「私は佐々木」
「富子です」
簡単な挨拶を交わす。
だが落ち着かない。
周囲の話し声。
食器の音。
職員の声。
全部が気になる。
食事が終わる。
すると職員が言った。
「午後は入浴ですよ」
「今日?」
「はい」
「今?」
「はい」
富子は目を丸くした。
なんだか学校みたいだ。
時間割がある。
決められた予定がある。
自分の好きな時間ではない。
風呂も終わる。
髪を乾かしてもらう。
夕食になる。
気がつけば一日が流れていた。
その日の夜だった。
部屋の時計は七時を指している。
まだ眠くない。
自宅ならテレビを見ている時間だ。
お茶を飲みながら窓を開けていた頃だ。
しかし施設は静かだった。
富子は部屋を出た。
廊下を歩く。
窓の外を見る。
また歩く。
反対側へ行く。
また戻る。
じっとしていられない。
胸の奥がざわざわする。
何かを忘れている気がする。
どこかへ行かなければならない気がする。
理由は分からない。
ただ落ち着かない。
「富子さん」
声がした。
振り向く。
若い職員だった。
名札には美咲と書いてある。
「どうしました?」
「なんでもないの」
「眠れませんか?」
「そういうわけじゃ」
そう言いながら歩き続ける。
「少し休みましょうか」
「大丈夫」
また歩く。
窓。
廊下。
窓。
廊下。
自分でも変だと思う。
でも止まれない。
部屋へ戻ると息が詰まりそうになる。
静かすぎるのだ。
「富子さん」
美咲が隣を歩く。
「初日は皆さんそうですよ」
「そうなの?」
「家と全然違いますから」
富子は立ち止まった。
窓の外には夜の街が広がっている。
遠くにマンションの灯り。
車のヘッドライト。
知らない景色だった。
「私ね」
富子がぽつりと言った。
「失敗したのかもしれない」
「え?」
「やっぱり家にいれば良かったのかも」
声が震える。
美咲は何も言わない。
ただ聞いてくれる。
「ここは綺麗よ」
「はい」
「皆親切」
「はい」
「でも」
言葉が詰まる。
「自由じゃない」
その一言だった。
美咲はしばらく黙っていた。
そして小さく笑った。
「そうですね」
「否定しないの?」
「少し不自由かもしれません」
富子は驚いた。
「でも」
美咲は続ける。
「富子さんが転ばないためなんです」
夜風が窓から吹き込んだ。
少し涼しい。
「お家で転んでいたでしょう?」
「……うん」
「薬も忘れてました?」
「……うん」
「だから皆で見守るんです」
富子は黙った。
悔しい。
情けない。
でも事実だった。
「嫌になったらどうしよう」
「明日も歩きましょう」
美咲が言う。
「明後日も」
「迷惑じゃない?」
「全然」
「本当に?」
「むしろ運動になります」
富子は思わず笑った。
「変な子ね」
「よく言われます」
二人で笑った。
少しだけ胸のざわつきが軽くなる。
その夜。
部屋へ戻った富子はベッドに腰掛けた。
窓の外には月が浮かんでいる。
家ではない。
まだ自分の部屋とも思えない。
それでも。
誰かが声をかけてくれた。
誰かが話を聞いてくれた。
そのことが少しだけ嬉しかった。
「慣れるのかしらね」
小さく呟く。
答える人はいない。
だが廊下の向こうから聞こえる職員たちの笑い声が、静かな夜の中に温かく響いていた。




