第2話 順番が来た日
第2話 順番が来た日
電話が鳴ったのは五月の終わりだった。
朝から雨が降っていた。
窓ガラスを細かな雨粒が流れ落ち、灰色の空が古いアパートを包んでいる。
富子は居間で洗濯物を畳んでいた。
タオルを二枚重ねたところで電話が鳴る。
最近は電話が鳴るたびに少し緊張する。
良い知らせより悪い知らせの方が増えてきた年齢だからだ。
「はい」
受話器を取る。
相手はケアマネジャーの田中だった。
「富子さん、おはようございます」
「あら田中さん」
「少しお話よろしいですか」
声がいつもより真面目だった。
富子は胸がざわついた。
「なにかあったの?」
「実はですね」
一瞬の沈黙。
その短い間に嫌な予感が膨らんでいく。
「特別養護老人ホームの空きが出ました」
富子は言葉を失った。
雨音だけが聞こえる。
ぽつぽつ。
ぽつぽつ。
窓を叩く音。
「え……」
「入所のご案内ができます」
空きが出た。
順番が来た。
去年申請したあの日から、どこか他人事のように思っていた。
何年も待つかもしれない。
その前に自分が死ぬかもしれない。
そんな気持ちだった。
だから。
突然現実になると頭が追いつかなかった。
「そう……」
「ご家族とも相談していただいて」
「そうね」
それしか言えない。
電話を切ったあとも富子は受話器を握ったままだった。
雨は降り続いている。
居間には誰もいない。
なのに急に部屋が狭く感じた。
昼過ぎ。
和俊がやって来た。
電話で呼んだのだ。
事情を聞いた和俊は黙っていた。
テーブルには湯気の立つほうじ茶。
香ばしい匂いが漂う。
「順番来たんだね」
「そう」
「どうする?」
富子は窓の外を見た。
紫陽花が色づき始めている。
去年も見た景色。
その前年も。
そのまた前年も。
何十回も見てきた。
「分からない」
正直な気持ちだった。
「嬉しい?」
「分からない」
「悲しい?」
「それも分からない」
和俊はうなずいた。
富子は小さく笑った。
「年寄りになるとね」
「うん」
「嬉しいことと悲しいことが同時に来るのよ」
和俊は何も言わなかった。
その表情だけで十分だった。
三日後。
入所を決めた。
決めたというより、流されるように決まった。
施設見学。
説明。
契約。
気が付けば話は進んでいた。
そして荷造りの日が来た。
六月の柔らかな陽射しが差し込む午後だった。
ダンボール箱が六つ。
部屋の真ん中に並んでいる。
「よし」
富子は腕まくりをした。
だが五分後には手が止まっていた。
「無理」
和俊が苦笑する。
「何が?」
「全部」
富子は部屋を見渡した。
本棚。
食器棚。
タンス。
机。
どこを見ても思い出だらけだった。
まず手に取ったのは一冊のアルバムだった。
ページを開く。
若い頃の自分。
まだ黒髪だった。
隣には夫。
その膝の上には幼い和俊。
「あら」
思わず笑う。
「和俊、変な顔」
「子どもだからだろ」
「かわいいじゃない」
「やめて」
二人で笑った。
だが笑ったあと急に胸が苦しくなった。
このアルバムは持っていく。
そう決める。
次は食器棚だった。
欠けた湯飲み。
古い急須。
夫が使っていた茶碗。
「これはどうする?」
和俊が聞く。
富子は茶碗を撫でた。
「捨てられない」
「持っていく?」
「施設じゃ使えないわね」
手が止まる。
決められない。
何もかも決められない。
夕方になる頃には部屋中に物が散乱していた。
持っていく物。
捨てる物。
保管する物。
分類するはずだった。
なのに全部混ざっている。
「母さん」
和俊が心配そうに言う。
「休憩しよう」
「うん」
二人で麦茶を飲んだ。
氷がからりと鳴る。
その音が妙に寂しかった。
夜。
和俊が帰ったあとだった。
部屋は静かだった。
冷蔵庫のモーター音だけが響いている。
富子は押し入れの奥を整理していた。
そこで小さな箱を見つけた。
開ける。
中には手紙が入っていた。
黄ばんだ封筒。
夫の字だった。
懐かしい。
震える指で開く。
文字を追う。
識字障害のある富子には少し時間がかかる。
それでも読めた。
ゆっくり。
一文字ずつ。
夫が出張先から送ってきた手紙だった。
そこにはたわいもないことが書いてあった。
今日食べた定食の話。
帰ったら寿司を食べようという話。
それだけ。
それだけなのに。
涙があふれた。
「ばか」
声が震える。
「なんで今出てくるのよ」
誰も答えない。
部屋の隅に座り込む。
手紙を胸に抱く。
涙がぽたぽた落ちた。
この部屋で暮らした。
笑った。
喧嘩した。
泣いた。
夫を見送った。
和俊を育てた。
人生そのものだった。
それを段ボールに詰めて運ぶなんて。
できるわけがない。
「嫌だなあ……」
ぽつりと漏れる。
誰に向けた言葉でもない。
窓の外では雨が上がっていた。
雲の切れ間から月が見える。
富子は涙をぬぐった。
そして手紙をそっと箱へ戻した。
「持っていこう」
誰に言うでもなく呟く。
夫の手紙。
アルバム。
家族の写真。
お気に入りの急須。
全部は持っていけない。
けれど少しなら持っていける。
人生全部は無理でも。
人生の欠片なら。
富子は立ち上がった。
膝が痛む。
腰も痛い。
それでも歩く。
段ボールの蓋を開ける。
そして一つずつ。
大切なものを詰め始めた。
部屋の灯りが静かに揺れていた。




