表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/13

第1話 もう一人では無理です

第1話 もう一人では無理です


 三月の終わりだった。


 窓の外では沈丁花が咲き始めていた。甘く濃い香りが古いアパートの部屋まで流れ込んでくる。


 富子は台所で味噌汁を温めていた。


 鍋の中では豆腐とわかめがゆらゆら揺れている。


 朝食は鮭の切り身半分と味噌汁、それに昨夜の残りのひじき煮だった。


「よし」


 小さく呟いて茶碗を持ち上げた瞬間だった。


 足元の新聞紙が滑った。


「あっ」


 体が傾く。


 膝が踏ん張れない。


 次の瞬間、どんという鈍い音が部屋に響いた。


「いたたたた……」


 尻もちをついたまま富子は顔をしかめた。


 転んだ。


 まただ。


 先月だけで三回目だった。


 しばらく起き上がれない。


 情けない。


 悔しい。


 七十年生きてきて、床から立ち上がるだけで息が切れるようになるなんて。


 ようやく立ち上がった頃には味噌汁も少し冷めていた。


 その日の午後。


 訪問看護師の岩崎がやって来た。


 血圧を測りながら眉をひそめる。


「また転んだんですか?」


「ちょっとね」


「ちょっとじゃありません」


 岩崎は呆れた顔をした。


「頭は打ってません?」


「打ってないわよ」


「救急車は?」


「呼んでない」


「富子さん!」


 怒られた。


 まるで子どもみたいだ。


 富子はむくれた。


「だって大げさじゃない」


「大げさじゃありません」


 岩崎は真剣だった。


「骨折したらどうするんですか」


 富子は黙り込んだ。


 その言葉だけは反論できない。


 膝も腰も年々弱っている。


 糖尿病もある。


 転倒は命取りになる。


 分かっている。


 分かっているけれど。


 認めたくなかった。


 夕方になると息子の和俊がやって来た。


 スーパーの袋を提げている。


「母さん、卵安かったから買ってきた」


「ありがとう」


 和俊は冷蔵庫を開けた。


 そして固まった。


「薬飲んでないじゃん」


 テーブルの上には朝の薬がそのまま残っていた。


 富子は目をそらした。


「あら」


「あらじゃないよ」


「忘れてただけ」


「昨日も忘れてた」


「そうだっけ」


「一昨日も」


 和俊は深いため息をついた。


 その顔に疲れが浮かんでいる。


 富子は胸が痛んだ。


 昔は逆だった。


 熱を出した和俊の額に手を当てた。


 学校の持ち物を確認した。


 薬だって飲ませた。


 それなのに今は。


 息子に心配される側になっている。


「年は取りたくないわね」


 富子が笑うと、和俊は笑わなかった。


「母さん」


「なによ」


「本気で考えよう」


「何を」


「施設」


 空気が凍った。


 富子は箸を置いた。


「嫌よ」


「まだ何も言ってない」


「分かるもの」


 窓の外では夕焼けが広がっていた。


 赤く染まる空。


 電線に止まったムクドリの群れ。


 いつもと同じ景色なのに、急に遠く感じた。


「嫌よ」


 富子はもう一度言った。


「ここが家なんだから」


「でも」


「嫌」


 和俊は何か言おうとして黙った。


 数日後。


 ケアマネジャーの田中が訪ねてきた。


 紺色のスーツ姿だった。


 テーブルを挟んで話が始まる。


「介護認定の結果が出ました」


 富子は黙って聞いていた。


「要介護三です」


 部屋が静かになった。


 時計の秒針だけが響いている。


 要介護三。


 数字の意味は知っている。


 決して軽くない。


 かなり介護が必要な状態だ。


「そう」


 富子はそれだけ答えた。


 田中は慎重に言葉を選んだ。


「特別養護老人ホームの申請を考えてみませんか」


「嫌です」


 即答だった。


「富子さん」


「まだ歩けるもの」


「転倒が増えています」


「歩ける」


「薬も」


「飲める」


「忘れてます」


「たまたま」


 田中と和俊が顔を見合わせた。


 富子は腹が立った。


 皆して自分を年寄り扱いする。


 確かに年寄りだ。


 七十歳だ。


 だが心の中は昔と変わらない。


 ラジオ体操へ行くのが好きだ。


 花を見るのが好きだ。


 人と話すのが好きだ。


 まだ生きている。


 まだ終わっていない。


「施設なんて行かない」


 富子は言った。


「私はここで暮らす」


 和俊が静かに口を開いた。


「母さん」


「なによ」


「俺、怖いんだ」


 その声は震えていた。


「ある日来たら倒れてるんじゃないかって」


 富子は言葉を失った。


「電話しても出ない日がある」


「寝てるだけよ」


「薬も忘れる」


「……」


「転ぶ」


「……」


「俺、本当に怖いんだ」


 和俊は俯いた。


 その肩は以前より細く見えた。


 富子は初めて気づいた。


 息子も年を取っている。


 四十七歳。


 若者ではない。


 ずっと心配し続けてきたのだ。


 自分のことで精一杯なのに。


 母親のことまで。


 窓から夕日が差し込む。


 部屋の畳が橙色に染まる。


 長年暮らした六畳間。


 擦り切れた座布団。


 古い食器棚。


 この家には思い出が詰まっていた。


 夫を見送った日。


 和俊の入学式。


 泣いた夜。


 笑った朝。


 全部ここにある。


 だから離れたくない。


 けれど。


 和俊の顔を見ると胸が痛んだ。


 田中が静かに言った。


「すぐ入所ではありません」


「……」


「申請だけでもしておきませんか」


 富子は窓の外を見た。


 沈丁花の花が風に揺れている。


 春が来る。


 また一つ年を取る。


 また少し体が弱る。


 その現実からは逃げられない。


 富子は長い沈黙のあと、小さく息を吐いた。


「申請だけよ」


 和俊が顔を上げる。


「母さん」


「勘違いしないで」


 富子はぶっきらぼうに言った。


「まだ入るなんて決めてないんだから」


 和俊の目が少し潤んだ。


「うん」


 富子はそっぽを向いた。


 認めたくなかった。


 けれど心のどこかで分かっていた。


 人生は少しずつ変わっていく。


 若い頃のままではいられない。


 それでも。


 できることなら。


 もう少しだけ。


 この家で春を迎えたかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ