表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/13

春を待つ部屋

春を待つ部屋


 三月の終わりだった。


 窓の外では沈丁花が咲き始め、やわらかな甘い香りが風に乗って漂っていた。


 富子は古いアパートの台所で、湯気の立つ味噌汁をかき混ぜていた。


 具は豆腐とわかめだけ。


 年金と生活費を考えれば贅沢はできない。


 それでも温かい湯気の匂いを吸い込むと、少しだけ心が落ち着いた。


 ちゃぶ台の向こうでは息子の和俊が新聞を読んでいる。


 最近は病状も安定している。


 穏やかな朝だった。


 だが富子の胸には重い石のような不安があった。


 昨日、市役所から電話があったのだ。


 介護認定の更新についてだった。


 要介護二。


 今はまだ一人で歩ける。


 風呂も何とか入れる。


 だが膝は痛い。


 腰も痛い。


 夜中にトイレへ向かうだけで息が切れる。


 いつまで今の暮らしを続けられるのだろう。


 富子は味噌汁をよそいながらつぶやいた。


「ねえ和俊」


「ん?」


「もしお母さんが寝たきりになったらどうする?」


 和俊の手が止まった。


「急にどうしたの」


「なんとなくね」


 富子は笑った。


 だが笑顔は少しだけ震えていた。


 和俊は黙り込んだ。


 湯気だけが二人の間を流れていく。


「施設かな」


 ようやく出た答えだった。


「そうよね」


「でも特養って順番待ちなんでしょ」


「そうらしいわね」


 富子は箸を置いた。


 味噌汁の香りが急に遠く感じた。


 順番待ち。


 その言葉が重く胸に沈む。


 近所の佐々木さんは申し込んでから二年待った。


 その間に病気が悪化して亡くなった。


 そんな話も聞いている。


 窓の外でヒヨドリが鳴いた。


 春なのに、どこか寂しい声だった。


 数日後。


 富子はケアマネジャーの田中と一緒に特別養護老人ホームを見学することになった。


 駅から送迎車に揺られて二十分。


 大きな建物が見えてきた。


 白い外壁。


 広い庭。


 花壇にはパンジーが咲いている。


「思ったより明るいでしょう」


 田中が笑う。


「そうですねえ」


 富子は緊張していた。


 老人ホームという言葉に、どこか暗いイメージを抱いていたのだ。


 受付を抜ける。


 廊下は広く、消毒液の匂いの奥に昼食の煮物の香りが漂っていた。


 どこか懐かしい匂いだった。


 食堂では利用者たちが昼食を食べている。


 鮭の塩焼き。


 かぼちゃの煮物。


 ほうれん草のおひたし。


 味噌汁。


 家庭的な献立だった。


 車椅子の女性が富子を見て手を振った。


「見学?」


「はい」


「ここねえ、ご飯おいしいのよ」


 女性は笑った。


 その笑顔は意外なほど明るかった。


「本当ですか」


「私は家にいた頃より食べてるわよ」


 二人とも笑った。


 少し肩の力が抜ける。


 そのときだった。


 奥の窓際に座る男性が目に入った。


 八十代くらいだろうか。


 一人で外を見ている。


 表情がどこか寂しそうだった。


 富子は気になった。


「こんにちは」


 声をかける。


 男性はゆっくり振り向いた。


「ああ」


「景色を見ていたんですか」


「桜を待ってるんだ」


 窓の向こうには大きな桜の木があった。


 まだ蕾だ。


「毎年ここで見るんですか」


「そう」


 男性は微笑んだ。


「妻と見た桜に似てるんだ」


 その言葉に富子は胸が締め付けられた。


「奥さまは?」


「三年前に亡くなった」


 男性は静かに言った。


「ここに来る前は一人暮らしだったんだ。でも転んで骨を折ってね」


 窓から差し込む春の日差しが男性の白髪を照らしていた。


「寂しくないですか」


 思わず聞いてしまった。


 男性は少し考えた。


「寂しいよ」


 はっきりと言った。


「でもね」


 男性は食堂を見渡した。


「ここには誰かがいる」


 遠くで職員が利用者と笑っていた。


 将棋を指している老人たちもいる。


 テレビの前では野球中継を見ながら歓声が上がっている。


「一人で家にいた頃は、一日誰とも話さない日もあった」


 男性は言った。


「今は毎日誰かと話す」


 富子は黙って聞いていた。


「だから寂しいけど、孤独じゃない」


 その言葉が胸に残った。


 帰り道。


 送迎車の窓から夕焼けが見えた。


 空が橙色に染まっている。


 富子はぼんやり眺めていた。


「どうでした?」


 田中が聞く。


「不思議でした」


「不思議?」


「もっと暗い場所かと思っていました」


 田中はうなずいた。


「そう思う人は多いですね」


 車内に夕日が差し込む。


 温かい光だった。


「もちろん家が一番です。でもね」


 田中は穏やかに言った。


「最後まで一人で頑張ることだけが正解じゃないんです」


 富子は窓の外を見た。


 小さな公園で子どもたちが遊んでいる。


 ブランコが揺れていた。


 その光景が遠い昔の記憶と重なる。


 和俊が小さかった頃。


 公園で一緒に遊んだ日々。


 胸がじんわり温かくなった。


 夕方。


 家へ帰ると和俊が待っていた。


「どうだった?」


 富子は上着を脱ぎながら笑った。


「思ったより悪くなかったわ」


「そうなんだ」


「桜を待ってるおじいさんがいたの」


 和俊は黙って聞いている。


「寂しいけど孤独じゃないって言ってた」


 和俊は少し考えた。


「いい言葉だね」


「本当にね」


 窓の外を見る。


 空には一番星が光っていた。


 まだ先の話だ。


 今すぐ施設へ入るわけではない。


 けれど将来への恐怖は、少しだけ形を変えていた。


 人生の終わりは怖い。


 老いることも怖い。


 体が思うように動かなくなるのも怖い。


 それでも。


 誰かと笑いながら春を待てる場所があるのなら。


 それは決して絶望だけではないのかもしれない。


 富子は湯を沸かした。


 しゅんしゅんと小さな音が響く。


 急須に茶葉を入れる。


 新茶の香りがふわりと立ち上った。


「お茶入ったわよ」


「いただきます」


 湯飲みを手にした和俊が笑う。


 富子も笑った。


 窓の外では、まだ見えない桜の蕾が静かに春を待っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ