【記録 No.008】行政ではない日
相談所には紙の匂いと木の軋みだけが残っていた。
拓海はリリアの相談記録を開いたまま、
ページをめくることもできずにいた。
丸太を削るペルの手元を眺めていたフェルガが、ふと口を開く。
「……困った顔をしているな」
拓海は小さく頷いた。
「行政としては、間違ったことは言っていないはずでした。住民登録も、自立支援も、就労支援も……生活を立て直すには必要な制度です」
フェルガは少しだけ考え、窓の外へ視線を向けた。
子どもたちが浜辺で木の枝を振り回し、遊びながら何かを運んでいる。
「……なるほどな。だから拒まれた理由が分からないのか」
拓海は答えられなかった。
紙の上の文字が、急に自分のものではないように見えた。
フェルガは子どもたちを見ながら言った。
「例えばだ。昨日、お前は子どもは働かせないと言ったな」
拓海は静かに頷く。
「それは間違っているとは思わん。人族では正しいのだろう」
フェルガは枝を抱えて走る竜の子を指した。
「だが、竜は親の背中を見て育つ。親と一緒に薪を運び、巣を直し、獲物を運ぶ。遊びながら、生き方を覚える。それまで禁じられたら、竜は一人前になれん」
拓海は黙って聞いていた。
フェルガは続ける。
「逆に、人族の子を竜と同じように育てれば危険だろう。身体も違う。育つ速さも違う」
丸太を削る音が、静かに部屋に響く。
「だから私は、お前が昨日言ったことを否定する気はない。だが──」
フェルガは拓海を見た。
「誰にでも当てはめようとした瞬間、それは正しさではなくなるのではないのか?」
拓海は少しだけ息を吸い、言った。
「ですが、行政は公平であるべきです」
フェルガは眉を上げる。
「公平? 平等とは違うのか?」
拓海は少し考えた。
行政リンクの画面が頭の中で静かに光る。
「……同じではありません」
フェルガは促すように黙った。
拓海はゆっくり言葉を選んだ。
「人族と竜へ同じ橋を造る。それは平等です。ですが、その橋を竜が渡れなければ──公平ではありません」
「同じ制度を全員に配るのが平等なら、その人の足元を見て、届くように形を変えるのが公平です。私はリリアさんに、届かない制度を押し付けていただけでした」
フェルガは笑った。
「ようやく竜の話になったな」
その笑いは、嘲りではなく、どこか嬉しそうだった。
フェルガは続ける。
「リリアも同じだ。お前は自立支援を勧めた。行政として正しい。だが──あの子が欲しかったものは行政だったのか?」
拓海は答えられなかった。
フェルガは静かに言う。
「制度か? それとも……誰かが話を聞いてくれる時間か?」
その瞬間、行政リンクが静かに起動した。
いつものように制度を表示するはずの画面が──今回は違った。
+
【行政運営】
住民意見を取得してください
制度は地域事情および住民の実情に応じて更新できます
+
拓海は固まった。
「……更新」
拓海はゆっくりと行政リンクを閉じた。
初めて、自分の意思で。
「今日は……行政ではなく。拓海として話してきます」
フェルガは満足そうに頷いた。
「その方がいい」
◇
拓海は行政リンクを閉じたまま、
海辺の小さな家の前に立っていた。
一度、静かに扉を叩く。
「リリアさん」
返事はない。
少し間を置いて、もう一度。
「リリアさん、拓海です」
家の中は静まり返っていた。
前回のような物音もしない。
拓海はしばらく待ったが、人の気配は感じられなかった。
「……外出中でしょうか」
そう呟き、踵を返そうとした、その時だった。
浜辺の方に、金色の髪が揺れるのが見えた。
「あれは……リリアさん?」
潮風の中を、リリアは一人、海へ向かって歩いている。
靴を脱ぎ、裸足のまま波打ち際へ。
そのまま、ためらうことなく海へ足を踏み入れた。
拓海の表情が変わる。
「リリアさん!」
最悪の結末が頭をよぎり、気がつけば革靴のまま砂を蹴って駆け出していた。
波を蹴り、その細い肩へ手を伸ばそうとした、
その瞬間──
「えっ!?」
ばしゃっ、
と大きな水しぶきが上がった。
リリアは両手で何かを必死に抱え込み、満面の笑みで振り返る。
「見て見て!」
腕の中では、一匹の大きな魚がぴちぴちと暴れていた。元勇者の身体能力の無駄遣いだった。
拓海は完全に呆気に取られ、その場に足を止めた。
「……魚、ですか」
「うん!」
リリアは得意げに魚を掲げる。
「ペルがやってるの見てたら、私にもできるかなって思って!」
魚は次の瞬間、するりと腕の中から逃げ出し、海へ飛び込んだ。
「あっ!」
二人で魚を見送り、少しだけ沈黙が流れる。
やがて拓海が口を開く。
「……安心しました」
「海へ入っていかれたので、何かあったのかと」
リリアは一瞬きょとんとしたあと、その意味に気付いて吹き出した。
「ち、違う違う!」
「そんなつもりじゃないって!」
笑いながら手を振る。
「もう、拓海さんって真面目すぎるよ」
拓海は少し照れたように視線を逸らした。
「失礼しました」
リリアは肩をすくめて笑う。
「せっかく魚捕まえようと思ったのに、全部逃げちゃったじゃん」
「……これは私のせいですね」
「うん、拓海さんのせい」
そう言って笑うリリアの表情は、
前日までより少しだけ柔らかかった。
潮風が二人の間を通り抜ける。
リリアは濡れた裾を軽く払うと、家の方を振り返った。
「立ち話もなんだし……」
「お茶くらいなら出せるよ」
少しだけ照れくさそうに笑うと
二人は家へと入った。
いくつかの呼吸が過ぎた頃、
拓海はゆっくりと口を開いた。
「リリアさんは、どのような方が離島移住すると思いますか?」
「行政の用事じゃないの?」
「いいえ、今日は拓海として来ました」
「ふーん。そうなんだ」
「島に移住したい人か。単に島暮らしが好きな人じゃないの?」
「そうですね。そのような方もいらっしゃいます」
「他には……故郷が島とか?」
「それもありますね。子どもが生まれたり、島の外での生活に一区切りがついた際に、島へ戻って来る方もいらっしゃいます。後は、島の人と結婚したりとかもありますね」
「それくらいじゃないの?」
「実は、島へ移住する方の中には心の静養が必要な方もいらっしゃいます」
「なにそれ、変なの。島じゃなくても休めるじゃん」
「私の元いた世界では色んな人達が日々頑張っていました。家族の介護や勉強、そして責任ある仕事のプレッシャーに晒されながら、一人で耐え続けて来た方達」
「……」
「そうした方達の中には、休み方さえ知らない方も多く、環境を変えることで快方に向かう場合もあります」
「リリアさんを初めて見た時、私にはリリアさんの心が限界を迎えているように見えました」
リリアは拍子抜けしたように笑う。
拓海は窓の外を一瞬見てから、話を切り出した。
「島に来てから、困っていることはありますか?」
「えーと……あ、うん、まあ」
リリアは少し考えてからぽつぽつと話し始めた。
「夜、波の音が大きいときがあって、最初は眠れなかったんだよね。でも最近は、なんか落ち着くようになった」
「海辺は寒くないですか?」
「寒いけど、嫌じゃない。落ち着くっていうか」
「食事はどうですか?」
「スープ、あれ……すごくよかった」
拓海は頷く。リリアは続ける。
「王都では朝から訓練で、夜は報告書ばかり。誰かと話す時間なんてほとんどなかった。好きだったことも、あんまり思い出せないや」
少し間を置いて、リリアが拓海に尋ねる。
「拓海さんは?」
拓海は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせた。
「私ですか」
リリアは笑う。
「今日は行政じゃないんでしょ?」
その言葉に拓海も小さく笑った。
「昔、市役所で働いていました」
「へぇ、それは知ってる」
「でも、制度だけでは救えない人もいました。相談に来るのが遅すぎた人、助けを求める方法が分からなかった人。制度を説明しても届かないことがあったんです」
拓海は湯呑みに目を落とす。
「だから、行政なら誰かを助けられると信じたいと思った。いや、信じたかった、の方が正しいかもしれません」
潮風が部屋を通り抜ける。リリアは静かに拓海を見つめた。
「拓海さん"も"、頑張りすぎるタイプだね」
拓海は困ったように笑う。
「そうかもしれません」
しばらくして、リリアがぽつりと言った。
「ねぇ……普通って、どうするんだっけ」
拓海はすぐには答えられず、湯気を見つめてから言葉を選ぶように答えた。
「分かりません」
「私にとっては、行政が普通でしたので」
その返しにリリアは吹き出した。
「ふふっ……ずるい」
拓海も小さく笑う。
「市役所にいた頃、『普通なら』という言葉をよく聞きました。でも、その“普通”に当てはまらない人ほど相談に来ていました。だから今は、普通を基準にするより、その人が安心して暮らせるかを考えたいと思っています」
リリアは黙って聞いていた。その瞳から、ずっと彼女を縛り付けていた"勇者としての普通"という重荷が、すっと消えていくようだった。
やがて、いたずらっぽく小さく笑って言った。
「じゃあさ」
「私はまだ、普通じゃなくてもいいのかな?」
拓海は首を振る。
「無理に普通になる必要はありません。灯り島には、まだ“普通”なんてありませんから」
「……先程リリアさんは海で魚を捕まえてましたが、元勇者が漁師になるのが“普通”になる島でもいいと思いませんか?」
その言葉にリリアは肩の力を抜いて笑った。
「そっか。誰もいない島だったもんね」
「そう考えると気が楽かも」
窓の外で波が砂を洗う音が続く。
二人はしばらく他愛のない話を続けた。王都で流行っていた菓子のこと、島で見つけた貝殻のこと、ペルが作った木のおもちゃのこと。話題に深い意味はなかったが、リリアの笑顔は確かに増えていた。
やがて拓海が立ち上がる。
「そろそろ、帰ります」
「今日は、ありがとうございました」
「ううん、こっちこそ」
玄関まで見送ったリリアは、少しためらってから言った。
「……あのね。今度は私が相談所に行くよ。相談じゃなくてもいいんでしょ?」
拓海は穏やかに笑った。
「もちろんです。相談がなくても来てください。相談所は相談だけの場所ではありませんから」
リリアは小さく頷いた。
「うん」
◇
相談所へ戻ると、行政リンクが静かに起動した。
いつものように制度を提示する画面ではない。
+
【住民意見】
新しい制度を作成しますか?
制度名:
+
拓海は画面を見つめた。
フェルガが後ろから声をかける。
「どうした」
拓海は小さく笑い返した。
「行政は……完成しているものだと思っていました」
「でも、常に更新されていくものなんですよね」
画面に手を伸ばす。
+
【制度名】
住民との対話制度
+
入力しようとした、その瞬間──
画面が新しい項目を追加した。
+
共同提案者を選択してください
+
拓海は思わず笑った。
「……そうですね。ひとりでは、作れません」
画面をタップし、最初の共同提案者の欄に「リリア」の名前を打ち込む。
誰かのための、誰かと作る行政。
灯り島の本当の街づくりは、ここから始まる。
今回もお読みいただきありがとうございました!
行政としてではなく、一人の「拓海」としてリリアに向き合ったことで、二人の距離が少しだけ縮まりました。 「この優しい世界観が好き!」「二人のこれからの島暮らしを応援したい!」と思ってくださったら、ぜひページ下部の【ブックマークに追加】や、評価の【☆☆☆☆☆】で応援していただけると、執筆の大きな励みになります!




