【記録 No.025】竜の蜜
海岸沿いの高台に、フェルガの悲痛な叫びが響き渡っていた。
「拓海! 目を開けろ、拓海!!」
フェルガが倒れ伏した拓海を抱き起こし、その肩を強く揺さぶる。
傍らで膝をついたペルが、震える指先で拓海の喉元へ触れた。
「……呼吸、浅い。体温も……下がってる……」
拓海の顔色は土気色に変色し、額には冷や汗がびっしりと浮かんでいた。
全身を灼くような悪寒と、内側から身体を壊されるような激痛。
拓海の意識は、すでに暗い濁流の底へ沈みかけていた。
(……な、に……が……)
答えは浮かばない。
考えようとしても思考は霞のように崩れ、意識は再び闇へと沈んでいった。
◇
ペルの小さな声が震える。
「拓海……起きない……」
「分かってる」
フェルガは短く返すと、拓海の身体を力強く抱き上げた。
その腕の中の身体が、あまりにも軽く感じられた。
「相談所へ運ぶ。急ぐぞ」
「うん!」
ペルは慌ててフェルガの背へよじ登り、しがみついた。
「落ちるなよ」
「大丈夫……!」
フェルガは大きな翼を勢いよく広げた。
海風を切り裂き、一気に空へ舞い上がり相談所へ戻ると、フェルガは慎重に拓海を寝台へ横たえた。
「拓海……」
返事はない。
ペルが震える手で布をかけ、何度も拓海の顔を覗き込む。
「どうしよう……」
「気持ちは分かるが、落ち着けペル」
フェルガ自身に言い聞かせるような声だった。
「……まずは、原因を探る必要があるな」
ペルが拓海の手を取り、呼吸を確認する。
その時——。
ペルが拓海の手を取り、呼吸を確認する。
その時——。
「ただいまー! 拓海、見て見て! 森の奥であの赤い実たくさん見つけたよ!」
バタンと勢いよく扉が開いた。
抱えきれないほどの鮮やかな赤い果実を載せた籠。その周囲で、口の周りを真っ赤に染めたミアやミク、ルクたち子ドラゴンたちが嬉しそうに飛び跳ねている。
「これだけあれば、みんなでお腹いっぱい沢山食べられるよ!」
「あれー? 拓海いないの? あ、奥にフェルガとペルいるじゃん。そんなとこで何して——」
リリアの言葉がぴたりと止まった。
寝台に横たわる拓海。
血の気を失った顔で取り囲むフェルガたちの姿。
室内の異様な気配に、子ドラゴンたちも動きを止め、不安そうに低く鳴いた。
「え……? 拓海……? なに、これ……」
籠を抱えたまま、リリアの手が震える。
だが、次の瞬間。
「……下がって」
普段の明るい声とは違う、低い声だった。
リリアは籠をミアへ預けると、すぐに拓海の傍らへ駆け寄った。
「リリア……?」
フェルガが驚いたように顔を上げる。
リリアは答えず、拓海の顔色、呼吸、震える指先、そして机の上に残されたかじりかけの赤い果実を順に確認していく。
「……これは……毒?」
小さく呟く。
その言葉に、フェルガとペルの表情が変わる。
「毒だと?」
「まだ分からない」
「でも……冒険してた時、仲間が毒魔法を受けた時の症状に似てる気がする」
「意識障害。体温低下。呼吸異常……それに、この苦しみ方」
「毒なんて、一体どこから……」
「私たち、今までだって島のものを食べてきた。拓海が教えてくれた野菜も、果物も……みんな同じように食べてるのに」
ミアやミクが不安そうに顔を見合わせる。
「なのに……どうして拓海だけ」
「とにかく、毒なら取り除かないと」
リリアは立ち上がる。
「……解毒魔法は、使えないのか?」
フェルガの問いに、リリアは一瞬だけ目を伏せた。
「勇者の魔法なら使えるけど……毒を消す魔法は、私にはどうしようも出来ない……」
その時、小さな声が響いた。
ペルだった。
「……樹液」
「……樹液なら効くかも」
フェルガが振り返る。
「あれか」
「うん……!」
「確か保管庫にあったはず! すぐ持ってくる!」
リリアは普通の樹液と、厳重に保管された黄金の樹液が入った小瓶の両方を抱えて戻ってくる。
まずは普通の樹液を、慎重に数滴を拓海の口元へ垂らす。
……だが、効果はない。
苦しげな呼吸は変わらない。
「駄目……効いてない!」
ペルが黄金の樹液の入った小瓶を掴む。
「黄金の樹液も試す……っ!」
「待って! 黄金の樹液は効果が強すぎる。フェルガの怪我を治した時だって、原液のままだと体が保たないくらい強力だった……! 薄めて使わないと、拓海の体が壊れちゃう!」
リリアは素早く水を用意すると、黄金の樹液を極めて慎重に数滴だけ溶かした。
そして、拓海に与える前に、自らその薄めた液体を一口飲み込み込んだ。
よし、と小さく頷くと、残りを慎重に拓海の口へと注ぎ入れる。
万能の力を秘めた黄金の樹液へと、誰もが息を呑み奇跡を祈った。
しかし——。
「……なんで……どうして!?」
リリアの手から器が滑り落ちそうになる。
脈は乱れたまま。土気色の顔色も、一切変わらない。
原液のままでは危険なほど強烈なはずの薬効すら、拓海の体には届いていなかった。
「……効かない……? 拓海、死んじゃう……?」
ペルがその場に膝をつき、ぽろぽろと涙をこぼす。
それは、相談所に底知れない絶望が広がった時だった——。
『……手を出してはいかん。焦りは、土を乱す』
相談所の扉口から、重く低い声が響いた。
全員が一斉に振り返ると、夕陽を背負って一人の老人が立っていた。
老人は右手を自らの胸へ、左手を床へと触れさせる。
胸に手をつく独特の所作。『島詠み族』が、古き記憶へ敬意を示す時だけ行う礼だった。
老人は静かな足取りで拓海の傍らへ歩み寄ると、弱り切った脈を取り、その顔をじっと見つめた。
そして、老人は低く呟いた。
「……これは、島が拒んだのではない」
「……人の身には、早すぎる恵みだったのだ」
「誰だっ! ……恵みとは、一体どういう意味だ?」
フェルガの問いに、老人は静かに首を振る。
「その男が倒れとる理由。それは、毒ではない。毒ならば、人はまだ抗える。……拒絶しているのは身体ではなく、人の理と島の理なのだ」
老人は杖の先で、鮮やかな赤い実を指した。
「竜には恵みとなる。……だが、人が口にすれば……命を持っていかれる。竜の蜜……そう呼ばれておる」
リリアの指から、ふっと力が抜けた。
最後まで握りしめていた赤い果実が、手からこぼれ落ちる。
ころり、と。
夕陽を受けた赤い実だけが、何も知らぬように床の上で転がっていた。




