【記録 No.014】境界海域
「灯台の町へ向かう必要があります」
拓海が告げると、
フェルガは険しい顔で窓の外の海を見やった。
「……外海へ出るのか……ならば問題がある」
フェルガは重々しく首を振った。
「この島には船はある。だが、あの不自然な海霧に閉ざされた海域へ向かえる船員がいないのだ」
「私はこの姿だ。船に乗るには大きすぎるし、巣に残した子供たちのこともある。それに、私が一度島の外へ出れば、ドラゴン族の移動として公的に大騒ぎになるぞ」
隣にいたリリアも、苦い顔で腕を組んだ。
「私も駄目だね。勇者だった頃の私を知ってる人はまだ多い。下手に外の町に近づけば、余計な混乱を招くだけだよ」
島外移動──それは行政区域外へ出る重大案件であり、交通手段も人員も、現在の相談所の戦力では完全に手詰まりかと思われた。
その時、子供たちにお菓子を配り終えたペルが、大型住宅の居間からひょっこりと顔を出した。
「……外海へ行く?」
拓海は振り返った。
「ペルさん? そう言えば、ペレア族は海を旅しながら暮らしてる珍しい種族でしたね。灯台の町を聞いた事はありますか?」
「灯台の町なら知ってる」
ペルは短くそう言って、外を指差した。
その仕草に、拓海はハッと気づく。
「──そうか、ペルさんがこの灯り島へ渡ってくる時に使って今も住んでいる、あの船がありましたね」
フェルガはしばらく沈黙していたが、やがてペルを見つめ、少しだけ視線を柔らげた。
「……致し方ないか。拓海、ペルを頼むぞ。私とリリアは島に残り、カイルの様子を見ておく」
「はい。行政案件通信なら維持できます。受理済み依頼の調査中であり、報告義務が発生しているため、例外的に回線が許可されます」
「留守中の島の管理は任せて!」
リリアが力強く頷く。
ペルは小さく頷き、前を見据えた。
「……じゃ、準備はじめる」
◇
波を切り進む船の甲板で、
拓海は航海図と行政リンクを交互に見つめていた。
目的地は東海岸の遥か先──ペルが舵を握り、針路を合わせる「灯台の町」。
しかし、端末の画面には冷徹なテキストが躍っている。
+
【目的地】 灯台の町
検索結果:該当なし
備考:登録された地名ではありません
+
「……地名ではありません」
拓海が呟くと、隣のペルが不思議そうに耳を動かした。
「……何がない?」
「灯台の町です。記録上、この海域には町が存在していないようです」
『え? でも、フェルガさんは知ってたんだよね?』
島で待機しているリリアの声が降ってくる。
続いて、フェルガの重々しい声が響く。
『確かに存在した。私たちが若い頃、交易の任務で何度か訪れたことがある。間違えるはずがない』
「なら、なぜ行政記録に一切の痕跡がないのでしょうか」
『分からん』
フェルガは低く声を絞り出した。
『だが、この世界には時折ある。強大な魔法災害や呪いによって、土地そのものが歴史から切り離されることがな』
拓海は明確に首を振った。
「仮に災害で滅んだ村も、戦争で失われた国も、行政上は必ず『過去情報』として記録に残ります。これは消滅ではありません。──最初から存在しなかった扱いになっているのです」
世界そのものが、その存在を無かったことにしている。
カイルの『判定不能』と同じ歪みが、この海域全体を覆っていた。
◇
灯り島を出てしばらくの間、海は穏やかだった。
波は低く、風も優しい。振り返れば、緑豊かな灯り島が穏やかな陽光の中に佇んでいる。なぜこの場所が外界から完全に隔絶されているのか、不思議に思えるほど平和な光景だった。
しかし──。
島影が遠ざかり、外海へ差しかかった瞬間、世界の表情が一変した。
「つかまった方が……いい」
舵を握るペルの声が、いつになく真剣になる。
次の瞬間、船体が激しく跳ね上がった。
穏やかだった海面は突如として牙を剥いた。まるで灯り島を取り囲むように、巨大な円環を描いて猛烈な潮流が渦巻いている。
激しい引き波と押し波が不自然に衝突し合い、海そのものが外からの侵入を拒む強大な壁と化して船足を阻む。
「……これは」
拓海は手すりにしがみつき、行政リンクを海域へ向けた。
+
【海域情報】
対象:灯り島周辺外海
状態:常時高波域
航行難易度:判定不能
備考:通常航行による到達率:極めて低い
+
「この海……島へ近づけないようになっている?」
ペルは短く頷いた。
いつもの穏やかな表情は消え、その瞳は冷徹に波のうねりを見つめている。
ペルは荒れ狂う奔流の規則性を感覚で読み解くように、僅かに舵を切った。波に逆らわず、風に抗わず、船体を押し潰そうとする潮流そのものの力を受け流し、滑らせるように前進させる。
海を渡り歩くペルア種族としての卓越した航海技術が、この地獄のような境界海域で遺憾なく発揮されていた。
「……これは、普通の船なら島に近づけないでしょうね」
拓海の問いに、ペルは海を見つめたまま答えた。
「……たぶん、たどり着けない」
「……島を訪ねる人が少ないはずですね」
「……昔から言われてる。灯り島へ行けるのは……島に選ばれた者だけ」
選ばれた者──
到達するための絶対的な物理条件を満たした者しか存在できない区域。
リリアやフェルガが灯り島に辿り着いたのも、
島が導いたからなのだろうか。
拓海は荒れ狂う外海を振り返った。
◇
数時間の死闘の末、突如として激しい揺れが収まった。
荒波が嘘のように静まり返り、あたりは見たこともないほど濃密な白い霧に包まれている。
「……抜けた」ペルが小さく呟く。
その瞬間だった。拓海の手元で、行政リンクが一度だけ小さく震えた。
+
【位置情報】
取得中
……
取得失敗
理由:現在位置を特定できません
+
「位置が……分からない?」
拓海は思わず画面を見返した。
世界から切り離された境界海域を越えた先。
そこは、地図の上にも、空間の定義のなかにも存在しない「無」の領域だった。
ペルが前方を見つめたまま、小さく呟く。
「……着いた」
「え?」
拓海は顔を上げ、周囲を見渡した。
しかし、水平線には何もない。
島影も、港も、町も。ただ網膜を白く染め上げる濃霧だけが、不気味に停滞している。どこにも陸地など存在しない。
だが、ペルは迷いなく船を前へ進めていく。
その時だった。
何もないはずの霧の奥から、低く、重々しい音が響いてきた。
ゴォォォン──。
ゴォォォン──。
それは、海のどこかから響く鐘の音だった。
姿の見えない灯台が、時を告げるかのように、あるいは侵入者を拒むかのように、白濁した世界に鳴り響き始めた。




