【記録 No.015】灯台の町
白い霧を切り裂いて船が進む。
最初に見えたのは、灯台だった。
海面から突き出した白い塔。その頂上だけが、濃い霧の向こうから僅かに姿を覗かせている。
しかし、近づくにつれて拓海は違和感を覚えた。
灯台がある。その周囲に町がある。
だが、それらはまるで「時間の途中で置き忘れられた」ような姿をしていた。
崩れ落ちた石造りの家、半分沈みかけた船着き場、風に揺れる文字の消えかけた看板。
それなのに、建物の中には食器が残されている。
店先には商品が並んでいる。椅子には、誰かが今まで座っていたような跡すら残っている。
「……変ですね」
拓海は小さく呟いた。
「滅びた町ではなさそうですが、人の気配が感じられません」
ペルが振り返る。
「普通、長期間放棄された場所なら、まず生活の痕跡から失われます。しかしここは違う。人だけが抜け落ちて、場所だけが残っている」
まるで町そのものが、住民を待ち続けているようだった。
◇
船着き場へ近づいた時、
拓海はすぐに船を止めるようペルへ伝えた。
「少し待ってください、接岸許可の確認をします」
ペルが首を傾げる。
「誰もいないのに?」
「誰もいないことと、許可が不要であることは別です」
拓海は行政リンクを起動し、
港湾情報へ接続する。
+
【接岸申請】
対象地域:灯台町港
申請者:灯り島行政相談所
目的:行政調査
+
しかし──。
+
【照会中】
港湾管理者:不明
所有権:不明
利用許可:確認不能
+
「やはり」
停止した画面を見つめ、
拓海はしばらく沈黙した。
「入れないの?」
ペルが心配そうに尋ねると、
拓海は首を振った。
「許可がないから入れない、ではありません」
「許可を出す主体そのものが存在しないようなのです」
拓海は慎重に申請内容を修正する。
+
【特例処理】
行政対象外地域における緊急調査活動
理由:受理済み行政依頼の履行
+
数秒後──。
+
【仮承認】
条件:調査終了後、報告義務あり
+
「……これで、入れそうです」
ペルは感心したように笑った。
「どこでも、手続きするんだね」
「必要な手続きをするのが行政ですから」
◇
船を港へ寄せる。
だが、そこでまた異変が起きた。
波は穏やかなはずなのに、船が港へ近づく瞬間だけ、水面が大きく揺れる。まるで町そのものが、近づく者を確認しているようだった。
ペルは舵を握り直す。
「……潮の流れ、おかしい」
「この港、本当ならもう少し簡単につけられるはずなのに」
ペルは目を細める。
「海が、ぼくたちを試してるみたい」
それでも、ペルは潮の流れを読み、
僅かな隙間を縫うように船を進める。
やがて船は、誰も使う者のいない古い港へ静かに接岸した。
町へ降りる。足音だけが響く。人の気配はない。
しかし、完全な無人ではなかった。
ペルが立ち止まる。
「拓海……誰かがいる」
拓海は周囲を見る。
「姿はありませんが」
ペルは首を振ると、鼻をひくつかせる。
「近くじゃない。けどこの町、誰か待ってる」
二人は港周辺から調査を開始した。
行政リンクを起動する。
+
【地域情報】取得中
……
結果:該当なし
理由:行政対象外地域
+
行政対象外。
それは危険区域という意味ではない。
存在しているが、記録できない。
行政という仕組みが、この場所を世界の一部として認識できないということ。法律を適用するための前提情報そのものが、存在しない。拓海はバインダーを握り直した。
「……カイルさんと同じのようですね」
◇
町を調査する中で、
二人は一冊の古い住民名簿を見つける。
その中に、『エリナ・ヴァレン』という名前があった。
拓海が行政リンクを向ける。
+
【人物情報】照合開始
該当者:あり
警告:対象情報に重大な欠損があります
存在状態:判定不能
+
「またですか……」
拓海は呟いた。カイルだけではない。エリナも。
そして、この町そのものも。すべてが同じ異常に巻き込まれている。
その時、ペルが小さく呼んだ。
「……こっち」
「何かありましたか?」
ペルは町の外れにある古い灯台跡の壁へ近づく。
「この下……空洞がある」
拓海が目を凝らす。
確かに、普通の人間では気づかないほど僅かな風の流れがある。
ペルは壁に手を当てた。
「ここ、隠してる」
ゆっくりと押すと、
長い年月閉ざされていた石壁が、低い音を立てて動き始めた。
その奥から、冷たい地下の空気が流れ出す。
暗闇の向こうで、何かが待っているようだった。
「……地下通路ですね」
拓海が呟くと、
ペルは静かに頷いた。
「たぶん……ここから先に、まだ残ってる」
灯台の町に残された、最後の記録。
二人は、その入口を見つめた。
◇
「……こっち」
ペルに手招きされ、
二人は灯台の最下層、湿った冷気が淀む地下室へと降りた。
明かりが乏しい石壁の前に立つと、ペルはためらうことなく、壁の継ぎ目にある微細な隙間へ指先を滑らせる。目に見える異常は何もない。
しかし、空気の僅かな歪みと魔力の澱みを感覚で捉えたペルは、吸い寄せられるように隠し扉のロックを解除した。
重い石の鳴動と共に壁が割れ、その奥に広がっていたのは、閉ざされた暗闇の中で不気味に息づく巨大な壁画だった。
「……これは」
拓海は携帯灯の光をかざし、思わず息を呑んだ。
石壁一面を覆い尽くすそれは、単なる絵画ではない。
中央に描かれているのは、幾重もの不吉な円環が複雑に重なり合う巨大な魔法陣。その外周を呪詛のようになぞる見慣れない古代文字群は、見る者の目を眩ませるような悍ましさを放っている。
さらに、その最外周を囲むように、灯台町の地図を思わせる緻密な線が何重にも、呪縛のように土地を締め付けていた。
そして、その禍々しい術式の傍らに描かれていたのは──若き日のカイルと、その腕に大人しく抱かれる、幼いエリナの姿だった。
拓海はバインダーを構え、震える声を行政リンクへと送る。
「フェルガさん、リリアさん聞こえますか。壁一面に巨大な幾何学模様……があります。円が何重にも重なり、外側には古代文字らしき文字列。そのさらに外周を囲むように、町全体を描いた地図のような線が執拗に周回しています」
ザザ……と、行政案件通信のノイズだけが響く長い沈黙。
やがて通信の向こうから、フェルガが低く、恐れを孕んだ息を吸う音が届いた。
『……拓海。その文字は、同じ文様が一定の間隔で繰り返されているか?』
「はい。八方向、まるで方位磁針の指針ごとに、全く同じ紋様が刻まれています」
『……まさか、中央の円環と最外周の地図は、細い線で繋がっているのではあるまいな?』
拓海は光を動かし、壁画の細部を見上げた。
粘つくような執念で引かれた線が、中央から外へと伸びている。
「ええ。中央の陣から、町全体を囲む線へ向かって、血管のように無数の線が伸びています」
通信の向こうで、フェルガの、地鳴りのような重々しい声が告げた。
『間違いない……封印術式だ』
『それも、ただの対象を閉じ込めるような生易しい術ではない。町という空間、そこに存在する人、流れる時間──そのすべてを世界の因果から完全に切り離し、外界との繋がりを『無』に帰す、禁忌の術式だ』
「町を……世界から、消した……?」
通信の向こうで待機していたリリアが、
恐怖に怯えた声を漏らす。
拓海は壁画に描かれた、
カイルとエリナの姿から目を離せなかった。
国でも個人でもない、町という「行政単位そのもの」を世界から抹消する術式など、机上の法論理すら超越している。
その時、拓海の手元で行政リンクが、まるで悲鳴を上げるように激しく脈動した。激しい電子バグのノイズを突き破り、液晶の奥から、冷徹な赤文字が侵食するように浮かび上がる。
一時的な秘匿記録の復元が、今、始まった。
+
【過去記録復元】
対象:カイル
事件名:灯台町消失事件
関係者:カイル
処理結果:判定不能
備考:対象者の行動が事件発生時刻と一致
+
カイルはこの事件の原因なのか、
巻き込まれたのか、それとも──。
◇
遠ざかる霧の向こうを見つめていたペルが、
ぽつりと呟いた。
「……なんか、変」
ペルは霧の向こうをじっと見つめる。
「あの町……誰もいなかった」
「けど……誰かが……まだいる気が……する」
拓海はその言葉に、
胸の奥がざわつくのを禁じ得なかった。
その時──。
渦巻く海霧の向こう、消滅したはずの灯台の町が、一瞬だけ陽炎のように巨大な影を浮かび上がらせた。
その中心に立つ灯台の頂上。
霧の隙間から覗くその場所に──確かに、誰かが立っていた。
風に乗って、古い、しかし確かな女性の声が、拓海とペルの耳へと届く。
『──遅かったね』
その声を聞いた瞬間。
遥か遠く、灯り島の港に縛られた海賊船の船室で、一人の男が弾かれたように顔を上げた。
何十年も忘れたことのない声。
聞き間違えるはずがない。
『……そんな……』
カイルの手から、古びた写真が滑り落ちる。
『エリナ……』




