【記録 No.012】返すべきもの
普段なら穏やかな海風が吹く灯り島北部。
しかし今日、その崖地帯の周囲だけは、陽光さえ遮るような異様な海霧がどんよりと立ち込めていた。
拓海、リリア、そしてフェルガの三人は、
霧の合間を縫って険しい崖道を調査へと進んでいた。
海賊船に縛られているカイルは、当然ここには同行できない。
出発前、船の甲板から遠くこちらを見送りながら、カイルはいつものように軽薄な笑みで手を振っていた。
「気をつけろよ。俺が言うのもなんだが、昔の俺が残したシロモノだ。何が飛び出すか分からねぇぜ?」
「それ、依頼人が普通は安心させるところだからね!?」
リリアがすかさず睨みつけたが、カイルはただ「くくっ」と喉を鳴らして笑うだけだった。だが、拓海はその笑顔の奥に、ほんの一瞬だけ浮かんだ剥き出しの不安を見逃さなかった。
◇
「……これは、酷いな」
崖の裂け目を進み、海食洞の奥へと足を踏み入れたフェルガが、低く唸った。
暗い洞窟の最奥。
半分ほど岩肌に飲み込まれるようにして、一隻の古い船が座礁していた。
だが、その船には見過ごせない「異常」があった。
何十年も前に放置されたはずの船体なのに、木材が一切腐っていない。風も通らないはずの洞内で帆が破れているのに、その繊維は風化の気配すらなく、甲板に積まれた荷物も、まるで昨日積み込まれたかのように当時の姿のまま残されている。
時間が、そこだけ完全に止まっているかのようだった。
「自然現象ではないな」
フェルガが武器の柄に手をかける。
「嫌な気配だ。生物の死臭ではないが……存在の歪みを感じる」
拓海は眉をひそめ、手元の行政リンクを船へと向けた。
しかし──。
+
【対象物】 取得不能
所有者:不明
登録情報:欠落
状態:判定不能
+
「……やはり、出ますか」
拓海が静かに画面を見つめる。
「どうしたの、拓海?」
「カイルさん個人だけではありません。この場所、そしてこの船そのものが、行政のシステムから完全に除外されています。世界がこの存在をどう定義していいか分かっていない状態です」
「行政の対象外……」
リリアが息を呑む。
それはこの島において、最も危険で不気味な空白地帯であることを意味していた。
◇
三人は警戒しながら船内へ入った。
散乱する金貨、錆びない武器、当時の航海記録。その奥の船長室で、拓海は一冊の古びた帳簿を見つけた。
埃も被っていないその帳簿を開いたリリアが、驚きの声を上げる。
「……ねぇ、これを見て。本当に海賊の記録なの?」
そこには、およそ海賊団のものとは思えない「返却」の履歴が整然と書き連ねられていた。
『〇月〇日 帝国船より奪った薬品一式、〇〇村へ匿名で返却』
『〇月〇日 商船より拿捕した奴隷十四名、解放および故郷への渡航費支給』
『〇月〇日 強奪された聖具、〇〇神殿へ密かに返還』
「海賊にも種類はある」
フェルガが帳簿を覗き込み、険しい顔のまま言った。
「だが、こいつのやっていることは義賊気取りのそれとも違うな。まるで義務でも果たしているようだ」
拓海は帳簿をめくり、最後のページで手を止めた。
そこだけが乱暴に破り取られており、紙の端に一文だけ、酷く殴り書きされた文字が残っていた。
『あの日、俺は返せなかった』
拓海は思考を巡らせる。
カイルの犯罪歴は多数。だが、被害側の記録はすべてエラーで欠損していた。
(犯罪として記録された事件の裏に、別の真実が隠されている……?)
カイルは間違いなく悪党だった。
だが、その悪行のすべてが、公的な書類の通りとは限らない。
「拓海、奥にまだ何かあるよ!」
リリアの言葉に導かれ、さらに船の最奥へと進む。
そこには、厳重な鉄の鍵が掛けられた小さな木箱が置かれていた。
箱の蓋には、刻印された文字が刻まれていた。
『所有者へ返却するまで開封禁止』
拓海が恐る恐る行政リンクを近づけると、それまで頑なに拒絶していた画面が、初めて微かに明滅した。
+
【未返還物】
所有権確認中
所有者:???
+
しかし、最も重要な所有者欄だけが、ノイズで塗りつぶされたように空白のままだった。
『──おい、見つけたか』
突然、拓海のバインダーから声が響いた。
全員が驚いて振り返る。
画面には見慣れない表示が浮かんでいる。
+
【緊急行政接続】
対象者:依頼者カイル
条件確認
対面確認困難
接続時間:残り3分
+
「……通信機能?」
拓海は画面を確認しながら首を振った。
「通常の機能ではなさそうですが……行政処理上、必要な聞き取りができない場合のみ、一時的に開放されるようですね」
「カイルさん。この箱について知っていますね」
拓海の問いかけに、通信の向こうで長い沈黙が流れた。やがて、諦めたような吐息が聞こえる。
『……ああ。俺が奪ったものだ』
リリアが小さく息を詰まらせる。だが、カイルは続けた。
『正確には、違う。俺はそれを、略奪を働いた別の連中からさらに奪い返したんだ。……だが、返す相手をどうしても見つけられなかった』
「それが、あなたがこの島に縛られている理由ですか?」
『さあな。知るかよ。……だが、たぶんだ。返すべきものを、まだ返してねぇからだ。だから俺は、死ぬことも生きることもできず、あの船の上で足踏みさせられてるのさ』
拓海は静かに鍵を引き抜き、箱の蓋を押し上げた。
中に納められていたのは、目も眩むような宝石でも、溢れんばかりの金貨でもなかった。
それは、一枚の古い写真だった。
そこには、幼い子どもと、その子を愛おしそうに抱く女性の姿が写し出されていた。
裏面には、色褪せた文字でこう記されている。
『エリナへ』
「……エリナ? 誰だろう」リリアが呟く。
拓海が手元の行政リンクに目を落とすと、画面の白い光が激しく明滅し、新たな文字列を一文字ずつ紡ぎ出し始めた。
+
【返却対象者】 検索開始
対象:存在確認不可
備考:対象者は現在、生存している可能性があります
+
「生存している……?」
拓海の呟きに、バインダーの向こうでカイルの息が止まった。
「カイルさん。まだ、終わっていません」
『……生きてる?』
通信越しの声が、初めて激しく震えていた。
何十年もの間、時を止められ、世界の片隅で判定不能のまま立ち往生していた男が、初めて人間らしい剥き出しの声を漏らした。
『あいつが……まだ、生きてるってのか?……俺は、まだ、返せるのか……?』
霧の向こうで、止まっていた時間が、僅かに動き出す音が聞こえた気がした。




