【記録 No.010】滞在者
潮風が、破れた帆を小さく揺らした。
船倉の暗がりから姿を現した男は、くたびれた外套を羽織り、自嘲気味な笑みを浮かべていた。
「おいおい、ひでぇな。持ち主はここにいるぜ?」
リリアは無意識に重心を下げ、いつでも剣へ手を伸ばせる構えを取った。フェルガは二匹の子どもを背後に庇うようにして、静かに一歩前へ出た。その瞳には、かつて戦場を支配した竜族の鋭い眼光が宿っている。
拓海は手元の行政リンクを開いた。
しかし、画面は激しく明滅し、見たこともない情報を羅列し始めた。
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【生命情報】取得できません
存在状態:判定不能
犯罪歴:多数
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数秒後、ノイズと共に画面が完全にフリーズする。
拓海は眉をひそめた。「……故障、でしょうか」
「違う」
フェルガが喉から低く地鳴りのような声を漏らした。
「異常だ。あの男、生気がまるで感じられん」
男は悪びれる様子もなく肩をすくめると、甲板から砂浜へと飛び降りようとした。
だが、その足が宙を踏んだ瞬間。
──ギィン!
硬質な音が響き、男の身体が目に見えない「壁」に弾かれた。砂浜に着地することすらできず、男はタラップの上へ不自然に押し戻される。
全員の息が止まった。
しかし、男自身は驚く風でもなく、ただ自分の靴底を見つめてぽつりと言った。
「……チッ、またか」
「あんた……一体……」
リリアが目を見開く。男の身体の輪郭が、一瞬だけ白く立ち込める海霧と重なったように見えた。朝陽の光が届いているはずなのに、その存在自体がひどく曖昧に揺れている。
「……そんなん、こっちが知りてぇよ」
男は髪をかき上げ、首を振った。
「この島に近づいたあたりから、急にこうなったんだ。船から離れようとすると、見えない何かに弾かれちまう」
会話はできる。だが、生命反応は出ない。
そもそも『生きている人間』なのかすら、何一つ分からなかった。
◇
緊迫した空気が流れる中、フェルガが腕を組み、重々しく口を開いた。
「拓海。あの男をどうするつもりだ。問題は海賊だからではない。あれが何者か分からないことだ。敵か味方かではない。島の中に、理解できないものを置く危険性を考えろ」
フェルガの隣で、二匹の子どもが不安そうに外の海賊船を見つめている。
「いずれにせよ、あの男に子ども達を近づけるわけにはいかん。ペル、子供たちを連れて先に家まで帰ってて来くれるか?」
「……分かった」
ペルは頷き、子ども達の傍へ歩み寄った。
「……行こう」
フェルガは一度だけ振り返る。
「頼んだぞ」
その言葉に、ペルは少しだけ笑った。
全員の視線が拓海に集まる。
しかし、拓海はいつもの落ち着いた調子で、静かに首を振った。
「いいえ。まず決めるべきは、あの人をどうするかではありません。私たちは、個別の案件に対応する前に、『滞在者』という制度自体を決める必要があります」
「滞在者の制度……?」
リリアが言葉をなぞる。
「はい。この島に暮らす意思を持つ『住民』については、すでに皆さんの登録を終えました。ですが、世の中には『住む意思はないが、一時的に島に立ち寄る人』が存在します。旅人、商人、あるいは難破船の乗組員、漂流者です。もし明日、純粋な観光目的の人が来たらどうしますか?」
拓海はペンを執り、紙の上へ文字を書き並べた。
「先日も話し合いましたが、その人に犯罪歴があった場合、一律で入島拒否しますか? 過去に法を犯したとしても、すでに罪を償った人まで拒否しますか? 住民ではない人間が島にいるとき、その立場をどう定義するのか。それがないと、行政として一歩も動けません」
「……難しいね」
リリアが眉をひそめ、声を絞り出した。
「住民じゃないからって好き勝手に暴れられたら困るけど、事情も聞かずに一律で追い返すのは……」
フェルガは険しい表情を崩さない。
「理屈は分かる。だが、正体の分からん者をそのままにしておく理由にはならん」
拓海は頷き、白紙のバインダーにしっかりと書き留めた。
「ええ。ですから、この島における『滞在者制度』の策定を最優先とします。ルールなき滞留は認めません」
◇
──ハハッ、ハハハハハ。
突然、乾いた笑い声が響いた。
全員がハッとして振り返る。
砂浜に停泊した船の甲板の上で、男が呆れたように笑っていた。拓海たちの議論を、ずっと静かに聞いていたらしい。
「……変な島だな、おい」
男は甲板の柵に肘をつき、眉をひそめた。
「普通なら、俺みたいな奴を見た瞬間、武器を抜くか、追い返すかだ。なのにお前らは……俺が何者かじゃなく、俺みたいな奴が来た時の決まりを先に作ろうとしてやがる。そんな考え方をする奴らは、初めて見たぜ」
男は甲板に立ち上がり、初めて自分の胸に手を当てた。
「昔は──カイルって呼ばれてた。まぁ、海賊の通り名だがな」
拓海は窓際へと歩み寄り、真っ直ぐにカイルを見据えた。
「カイルさん。あなたがこの島に流れ着いた目的は何ですか」
「教える必要がないねぇ」
カイルは外を向いたまま、ぶっきらぼうに笑った。
「では、その理由は?」
「言ったら断ると分かりきってるのに、わざわざ言う必要ないだろ」
カイルは少しだけ目を細め、自嘲するように付け足した。
「……俺でもそうする」
不穏な沈黙が流れる。カイルはそれ以上語るのを拒むように、ゆっくりと視線を転じ、島の北側にそびえ立つ切り立った崖を見つめた。
「……まだ残ってやがる」
その声には、先ほどまでの軽薄な笑みが一切なかった。まるで、二度と戻れないと思っていた場所、あるいは、触れてはならない禁忌を目にするかのように、その瞳が重く沈んでいる。
「何がです?」
拓海が重ねて尋ねると、カイルは口元を不敵に歪めた。
「だから、言わねぇって言ってんだよ……まだな」
未だフリーズを続けたままの、手元の行政リンクに目を落とす。バグのノイズが走る白い画面を見つめながら、拓海はゆっくりと、しかし明確に思考を固めた。
この男が何者なのか、その答えはまだ出ない。フェルガの警戒も当然の防衛本能だ。だが、目の前で行き詰まり、立ち往生している存在がいる以上、行政はそれを見過ごすべきではない。
拓海は深く、静かに息を吐き出す。
開いた窓越しに、カイルへ向かって真っ直ぐに告げた。
「……わかりました。行政として、あなたの困りごとを『正式な依頼』として受理します」
──その瞬間だった。
沈黙していたバインダーが激しく震え、光の粒子が画面のノイズを吹き飛ばした。拓海の能動的な行政判断に呼応するように、新たな文字列が一文字ずつ刻まれていく。
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【行政依頼】新規受付
依頼者:カイル
対象地域:灯り島 北部崖地帯
【警告】 過去記録との照合不能
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拓海はバインダーをカイルに向けた。
「肝心の、依頼内容が記載されていませんね」
カイルは一瞬きょとんとした後、実におかしそうに白い歯を見せて笑った。
「内容は口で話す。役所でも全部書類じゃねぇだろ?」
その言葉に、拓海の口元がわずかに緩む。
窓口に座る相談者の本音は、いつだって書類の枠外にこそある。
「では、詳しいお話から聞かせてください」
カイルは満足そうに頷いた。
「くくっ……あぁ、それでこそ役人だ。お堅い書類仕事、期待してるぜ?」




