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聖女扱いされていますが、景観を守っているだけの紳士です 〜美しくないものを整えていたら、少しずつ世界がおかしくなりました〜  作者: 葱市場


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第30話 「何度でも、手を伸ばす」

「……どうして、邪魔をするんですか?」


 屋敷の扉を開けて中に入ると、エントランスの広い空間、扉の内側は白かった。

 壁も、床も、柱も、磨き上げられたように均一で傷一つない。

 だが新しくはない、一度すべてを作り直したかのように、均一に整えられている。

 窓から差し込む光は柔らかく、影は薄く輪郭が曖昧になる。

 その空間に彼女は佇んでいた。

 有紗は静かに問う。

 その声は怒りではなく、ただ“理解できない”という色だった。

 

「ご主人様は……貴方はただ、幸せになってくれればいいだけなのに」

 

「幸せ、ねえ……」

 

 聖女は肩で息をしながら、苦笑する。

 

「それ、誰の“幸せ”なのかな?」

 

「決まっています、貴方の……“元のお父様”の幸せです!」

 

「――違うでしょ?」

 

 即答だった。

 

「それ、有紗の考えた“自分の幸せ”だよ?」

 

 空気が止まる。

 

「……違いません」

 

「違うよ」

 

 聖女はゆっくりと歩み寄る。

 

「だって僕、そんなの望んでないもん」

 

「嘘です!」

 

 有紗の声が初めて揺れる。

 

「お父様は、ずっと……ずっと、あの時――」

 

「うっすらだけど、覚えてるよ」

 

 言葉を遮る。

 

「あの時、死んだことも……。

 理不尽に女神に奪われたことに対する怒りも……。

 ……全部、覚えてる」

 

「なら……!」

 

「でもさ――」

 

 聖女は、少しだけ笑った。

 

「だからって、“全部なかったことにしたい”とは思わないんだよね」

 

「――っ」

 

「意味、わかる?」

 

「……理解、できません」

 

 有紗の声は震えていた。

 

「苦しかったんですよ……!

 見ていられなかった……!」

 

「うん」

 

「目の前で崩れていく体も!

 消えていく意識も!

 あの、光の無い目も……!」

 

「うん」

 

「全部、全部……っ!」

 

「それでもさ――」

 

 聖女は一歩、踏み込む。

 

「僕は“それごと”でいいって思ってる」

 

「……え?」

 

「死んだことも、苦しかったこともさ。

 全部含めて――“僕”でしょ?」

 

「そんなの……記憶が無いからっ!」

 

「全て元通りにしたいのはわかるよ?」

 

 聖女は、少しだけ優しく言う。

 

「でもそれってさ――

 今の僕を消すのと、同じじゃない?」

 

「――違う!!」

 

 有紗の叫びが響く。

 

「私は……!

 私は、ご主人様を――!」

 

「守りたかった?」

 

「……っ」

 

「うん、知ってる」

 

 聖女は、ふっと息を吐く。

 

「ありがと」

 

 その一言で、有紗の動きが止まる。

 聖女は、一瞬だけ目を伏せた。

 

「でもね……もういいよ」

 

「……え?」

 

「有紗が守らなくても、僕は勝手に生きるから」

 

「そんな……そんなの……!」

 

「それにさ」

 

 聖女は、ほんの少しだけ困ったように笑う。

 

「守り方、間違ってるしね」

 

「――っ」

 

「みんな同じ顔で笑ってる世界とか、普通に怖いから!

 僕がホラー苦手なの知っているでしょ?」

 

 有紗は黙り、困惑した顔でみつめる。

 

「……でも」

 

 聖女は、ゆっくりと手を伸ばす。

 

「有紗の気持ちは、本物だよ」

 

「……」

 

「だからさ、今度は“ちゃんと”やろうよ」

 

「……ちゃんと?」

 

「うん」

 

「僕が嫌がることはしない。

 勝手に決めないでちゃんと話す。

 これだけで、だいぶマシになると思うんだけど?」

 

「……私は」

 

 有紗の声が、崩れる。

 

「どうすれば……いいんですか?」

 

 その問いは、初めての“依存ではない問い”だった。

 聖女は、少しだけ考えて――

 

「とりあえずさ……一回、全部やめよっか?」

 

「……え?」

 

「全部だよ?」

 

 軽い口調で言う。

 

「世界作るのも、人操るのも、復讐も――。

 一回全部リセットしちゃおう。」

 

「……そんな……」

 

「大丈夫だって」

 

 聖女は笑う。

 

「きっとやり直せるよ」

 

「……私は」

 

「うん」

 

「……ご主人様となら――」

 

 その言葉に――

 有紗の瞳が、初めて“救われた色”になる。

 

 ――その瞬間。


「――ああ、やっぱりそうなるんやねぇ?」

 

 乾いた声だった。

 

「ほんま、情って厄介やなぁ」

 

 一歩、影が差し込む。

 

「せっかく上手いこと壊れてたのに」


「……ロキ?」


 有紗が訝しげに口を開き、聖女は知り合いに対するように気さくに話しかける。


「久しぶりだね、元気してた?」


「……久しぶりやなぁ?って、随分と怖い顔しとるやん。

 なんか嫌なことあったんか?」


「……現在進行形でちょっとね」


「……それは難儀な話やなぁ?

 で、有紗ちゃん……これ、もういらんなった?」


 そう笑顔で言ったロキが軽く手を振ると、ガラスと金属で出来た容器が現れた。

 中には、人族の男性が眠っているように見える。


「――やめて!」

 

 それは、悲鳴ではなかった。

 

「それだけは……出さないで……」

 

 容器の中で、“彼”が眠っていた。


「……ああ」

 

 ほんの少しだけ、息を吐く。

 

「――会いたくは、なかったなぁ」


 聖女は、そう呟いた。

 その視線の先には、ガラスの中で眠る“かつての自分”。

 血も通わぬはずのそれが、やけに“重く”見えた。

 

「……どういう、ことですか?」

 

 有紗の声が、震える。

 視線は容器に釘付けのまま、動かない。

 

「簡単な話やで?」

 

 ロキは肩を竦める。

 

「壊れたもんはな、取り替えた方が早いねん」

 

 軽い……あまりにも軽い言葉。

 

「君が必死こいて守ろうとしてた“お父様”はな――」

 

 カツンと、ガラスを指で叩く。

 

「ここに、ちゃんと残しといたで?」

 

「……っ」

 

 有紗の呼吸が止まる――。

 

「ほら、望み通りやろ?

 元通りや、何も失ってへんで?」


 ロキがニタリと微笑む。

 

「……違う」

 

 ぽつりと有紗が……。

 

「違う、違うっ……!

 私は……私は……!」

 

 何を守ろうとし、何を取り戻そうとしていたのか。

 ――わからなくなる。

 

「……有紗」

 

 静かな声が、割り込んだ。

 聖女だった。

 

「見なくていいよ」

 

「……え?」

 

「そんなの、見なくていい」

 

 ゆっくりと、聖女が歩み寄る。

 そして――容器の前に立った。

 

「だってさ」

 

 軽く、笑う。

 

「それ、“僕”じゃないし」

 

 ――空気が、凍る。

 

「……は?」

 

 ロキが、初めて眉を動かした。

 

「だってそうでしょ?」

 

 聖女は肩を竦める。

 

「それ、ただの“過去の残骸”だよ?」

 

 ガラス越しの“自分”を、まるで物のように見る。

 

「僕はもう、とっくに更新されてる」

 

「……強がりはやめとき」

 

 ロキの声が、少し低くなる。

 

「それが“本体”や。

 自分の名前すら覚えて無い不完全な君は、ただの残りかすやで?」

 

「うん、知ってる」

 

 あっさりと肯定した。

 

「でもさ」

 

 一歩、踏み出す。

 

「それでも“魂はここに在る”

 だから、これが僕なんだよ!」

 

「――っ」

 

「過去がどうとか、元がどうとかさ」

 

 指で、自分の胸を軽く叩く。

 

「そんなの、どうでもいい。

 今ここにいる僕が、全部だ!」

 

 そう静かに、断言した。

 その言葉は――逃げではなく、“選択”だった。

 

「……」

 

 有紗の肩が震える。

 

「じゃあ……私は……」

 

 掠れた声。

 

「何を、守って――」

 

 その言葉は、途中で消えた。

 

「――僕だよ」

 

 即答だった。

 

「有紗が守ってたのは、ちゃんと“僕”だよ」

 

「……っ」

 

「ただ、ちょっとやり方が雑だっただけ」

 

 苦笑しながら、続きを口にする。

 

「世界改造はさすがにやりすぎだよ?」

 

「……ご主人様……」

 

 その声は、もう“狂気”ではなかった。

 ただの――迷子の声だった。

 聖女は、手を伸ばす。

 

「だからさ、今度はちゃんとやろう」

 

 その手は、記憶よりも細くて。

 記憶に残るものより小さい。

 それでも――

 

「僕の隣で……」

 

 差し出された。

 有紗は、それを見つめる。

 震える指に、壊れかけた心。

 それでも――

 ゆっくりと、手を伸ばし触れようとした、その瞬間。

 

「――ああ、あかんあかん」

 

 ぱちん、とロキが指を鳴らす。

 刹那、世界が軋んだ。

 

「それ、契約違反やって言うたやろ?」

 

 空間が歪む……、有紗の身体がびくりと震えた。

 

「……え?」

 

「君はな、“――を幸せにするための道具”や」

 

 ロキの声が、冷たくなる。

 

「勝手にやり直しとか、選択とか――。

 許されてへんねん」

 

 その瞬間、有紗の瞳から光が消えた。

 

「――命令、更新」

 

 有紗から出る無機質な声。

 その関節が、不自然に軋む。

 

「対象:聖女」

 

 ゆっくりと、顔が上がる。

 

「排除を開始します」

 

「……有紗?」

 

 聖女の声に、反応はない。

 その瞳は、もう何も映していなかった。

 

「……あーあ」

 

 ロキが、つまらなそうに呟く。

 

「ええ感じやったのになぁ。

 なんか興醒めやなぁ……」

 

 踵を返す。

 

「ほな、あとは若いもん同士で頑張りや」

 

 ひらひらと手を振り――消えた。

 残されたのは……。

 壊された願いと壊された少女。

 それでも――

 

「……はは」

 

 聖女は、小さく笑った。

 

「ほんと、悪神らしいなあ」

 

 ゆっくりと、構える。

 目の前には、有紗の形を残した『何か』。

 それでも――

 

「まあいいや――取り戻せばいいだけだしね」

 

 その目に、迷いはなかった。

 音が、遅れて響く……。

 ――踏み込み。

 視界から、有紗が消える。

 

「……っ!」

 

 聖女は反射で身体を捻る……。

 直後に背後で爆ぜる音。

 床が抉れ、石片が弾け飛ぶ。

 

「速っ……!」

 

 振り返るより早く、二撃目がくる。

 視界の端から白い腕が、一直線に喉元を貫こうとする。

 迷いのない、最短距離での一撃。

 それを――

 

「……っ!」

 

 紙一重で逸らす。

 頬を裂く感触――。

 頬を伝う血が、妙に温かく感じる。

 

「……本気、だね」

 

 息を吐き問いかける。

 だが、反応はない。

 有紗は、ただ立っている。

 無表情で、無機質に……。

 

「……ほんと、雑だなぁ」

 

 小さく笑う。

 

「こんな戦い方、君らしくないよ」

 

 聖女は拳に結界を纏わせると、踏み込んで自分から距離を詰める。

 有紗の瞳が、僅かに揺れた気がした。

 次の瞬間――衝突。

 拳と拳がぶつかる。

 衝撃が、空気を震わせる。

 だが。

 

(軽い)

 

 思ったよりも、軽い。

 強くて速い……けれど。

 

「空っぽだ」

 

 呟く。

 蹴りを受け流し、逆に間合いに入る。

 

「……ほら」

 

 手を伸ばす。

 掴める距離。

 

「有紗――」

 

 呼んだその瞬間。

 刃のような手刀が、迷いなく振り下ろされた。

 

「……っ」

 

 咄嗟に結界で弾き、そのまま距離を取る。

 呼吸が乱れる。

 

「……駄目か。

 まあ、そう簡単じゃないよね?」

 

 再び、有紗が動く。

 今度は真正面から一直線に、力任せの正面突破。

 

「――だからさ」

 

 聖女は迎え撃つ。

 真正面から結界を纏わせた拳を合わせる。

 衝撃で骨が軋むが、聖女はそれでも引かない。

 

「僕も、ちゃんとやるよ」

 

 踏み込む。

 力ではなく“重さ”で押す。

 これまで積み上げた全部を、叩きつける。

 

「……っ!」

 

 一瞬有紗の身体が、僅かに後ろへ揺れる。

 その隙に――懐へ。

 伸び切った腕を掴む。

 

「……捕まえた!」

 

 逃がさないように、力を込める。

 

「っ!……離しなさい」

 

 機械的な声。

 だが、その奥にほんの僅かな揺れ。

 

「やだね」

 

 聖女は即答する。

 

「やっと捕まえたんだからさ!」

 

 視線を合わせる。

 近すぎる距離、逃げ場はない。

 

「……有紗?」

 

 優しく名前を呼ぶ。

 

「帰っておいで?」

 

「――命令拒否」

 

 答えるのは冷たい声。

 同時に魔力が膨れ上がり、リミッターが外れる。

 

「……っ、やりすぎ!」

 

 咄嗟に、有紗を抱き寄せる。

 そのまま地面へ叩きつけるように転がる。

 直後……爆発。

 光と熱が、全てを飲み込む。

 耳鳴りがし、視界が白く焼ける。

 それでも――

 

「……離さない」

 

 腕に、力を込める。

 有紗の身体は、冷たい。

 人の温度じゃない。

 

「……ねえ」

 

 小さく、囁く。

 

「こんなの、望んでないでしょ?」

 

 返事はなく、ただ機械のように身体が動く。

 聖女を振りほどこうと殴る、蹴る。

 それでも――

 

「……っ、痛いなあ」

 

 笑う。

 

「でもさ……」

 

 額を、こつんと当てる。

 

「それでいい」

 

 目を閉じる。

 

「ちゃんと、痛い。

 まだ、残ってる」

 

 震える声で、聖女が言う。

 

「君は、ここにいる」

 

 一瞬……本当に一瞬だけ。

 有紗の動きが、止まった。

 

「……ご……」

 

 掠れた音……ノイズ混じりの、声。

 

「……しゅ……じん……」

 

「――うん」

 

 即座に返し、強く抱きしめる。

 

「ここにいるよ?

 どこにも行かないから大丈夫」

 

 その言葉に、有紗の瞳が揺れる。

 戻りかけたその瞬間――。

 

 ――暗い、何も見えない。

 でも、声だけは――


「……有紗」


 (ああ、この声)


 胸の奥が、少しだけ温かくなる。

 伸ばした手……届かなかった指。


 (もっと、ちゃんとやれたはずなのに)


 ただ、もう一度でいいから、笑ってほしかっただけ。

 苦しそうな顔なんて、見たくなかっただけ。

 それなのに――


「守るって……なんだったんだろう」


 誰かのため、なんて言いながら……結局、見ていたのは“あの時の光景”だった。

 目の前で崩れていく身体。

 消えていく面影。


(怖かった)


 ただ、それだけだった。

 だから――止めたかった。

 全部……世界ごとでも。


「……ごめんなさい」


 声が、ぽつりと零れる。

 でも、その謝罪は――誰にも届かない。

 遠くで、誰かが呼んでいる。


「帰っておいで?」


(……ずるい)


 そんな声、聞いたら――行きたくなるに決まってる。

 手が、動く……指がわずかに――


(まだ、ここに……)


 その瞬間――パチン。

 音がする……何かが、切れる。


「――命令、更新」


 温もりが、消える。


(あ……)


「対象:聖女」


 最後に残ったのは――掴みきれなかった、手の感触だけだった。

 ――再び歪む。

 

「――強制上書き」

 

 声から色がなくなる。

 

「対象排除、優先度最大」

 

「……はぁ。

 ほんと、しつこいなあ」

 

 苦笑しながらゆっくりと、立ち上がる。

 有紗もまた、立ち上がる……完全な敵として。

 それでも――拳を構える。

 

「いいよ……何回でもやる」

 

 聖女は目を逸らさない。

 

「君が戻るまで――全部、壊してでも」

 

 次の瞬間――。

 二人は、同時に踏み込んだ。

 衝突。

 何度目かもわからない打ち合いの中で――

 聖女の身体が、弾かれた。

 

「……っ!」

 

 空中で体勢が崩れる。

 なんとか着地するが、膝が沈む。

 

(……まずいなぁ)

 

 呼吸が浅く、腕も重い。

 目の前にいる有紗は、まったく揺れていない。

 無傷。

 無機質。

 ただ“壊すためだけ”に立っている。

 

「……はは」

 

 思わず、笑う。

 

「そりゃ勝てないか」

 

 あれはもう、“戦う相手”じゃない。

 止める……必ず取り戻す。

 ――でも。

 

(このままだと、間に合わない)

 

 わかってしまった。

 たぶん、次の一撃で終わる。

 そう思ったその瞬間、有紗が踏み込んだ。

 一直線に、最短距離で――。

 今までで一番速い。

 

(あー……これ、無理だ)

 

 避けきれない。

 そう判断した、その刹那――

 ――ギィンッ!!

 金属が弾ける音。

 視界の前で、火花が散った。

 

「……悪いな、遅れた」

 

 低い声。

 割って入った影が、有紗の一撃を受け止めていた。

 

「……ホルツ?」

 

 思わず、名前が漏れる。

 

「お前は立ってろ、まだ終わってねえだろ?」

 

 その背中は、いつもより少しだけ大きく見えた。

 

「……来るぞ!」

 

 空気が裂ける。

 有紗が、二人まとめて叩き潰すように振り抜く。

 

「っ!」

 

 ホルツが受ける――が、押し切られる。

 床が砕け、足が沈む。

 

「……重っ……!」

 

「退いてください!」

 

 静かな声が割り込む。

 ノルンが滑り込むように間に入り、有紗の攻撃を受け流す。

 流れるような動きで、力を逃がし呟く。

 

「……なるほど。

 確かに、これは厄介ですね」

 

「軽く言うなよ……!

 一発で骨持ってかれるぞ?」

 

「承知しております」

 

 それでもノルンの視線は冷静だった。

 だが――

 

「……っ」

 

 有紗の容赦ない一撃。

 受け流しきれない……衝撃が走る。

 その衝撃に、ノルンの身体がわずかに浮いた。

 

「ノルン!」

 

 踏みとどまろうとするが、足が滑る。

 

「問題ありません……!」

 

 そう言いながらも、呼吸が乱れていた。

 そこへ――

 

「――交代だ!」

 

 ホルツがノルンの前に出る。

 剣を振り抜き、無理やり軌道を逸らす。

 だが。

 

「……ぐっ!」

 

 次の瞬間、剣ごと弾き飛ばされ、床を滑り柱に叩きつけられる。

 

「ホルツ!」

 

「……は、マジかよ……」

 

 立ち上がるが、膝が笑っている。

 確実に押されている。

 ホルツたちは手傷を負っているが、有紗は無傷。

 呼吸すら乱れていない。

 ただ“壊すためだけ”に、そこにいる。

 

「……これでも、足りませんか」


 ノルンが低く呟いたその時だった。

 

「……いや、十分だよ。

 ちゃんと繋いでくれたからね。

 ――二人とも、もういいよ

 ってか、何で二人が一緒にいるのかは、後から説明聞くからね?」

 

 後ろからの聖女の声。

 

「……は?」

 

 ホルツが振り返る。

 

「何言って――」

 

「ここから先は、僕がやる」

 

 静かな声。

 だが、その声には力があった。

 

「ふざけんな、今の見てただろ!」

 

「見てたよ」

 

 ホルツの言葉に、聖女があっさりと返し、一歩前に出る。

 

「だから言ってるんだよ。

 これ以上は――邪魔になる」

 

「……っ」

 

 空気が変わる。

 ノルンが、わずかに目を細めた。

 

「……“戦闘”ではない、ということですか?」

 

「うん。

 ここからは、“会話”だからね」

 

 その言葉に――二人は、理解する。

 これは、勝つための戦いじゃない。

 取り戻すための場だ。

 

「……はぁ……最初からそう言えよな……」

 

 ホルツが剣を肩に担ぐ。

 

「死ぬなよ?」

 

「死ぬ気はないからね、善処するよ」

 

 軽く笑う。

 

「それと――」

 

 ノルンが口を開く。

 

「遅すぎると、こちらが壊れます」

 

「了解」

 

 短く返す。

 それだけで十分だった。

 

「行きますよ、ホルツ」

 

「はいはい……っと!」

 

 二人は同時に踏み込み――

 最後の一撃で、有紗の足にヒビを入れ、その動きをわずかに止める。

 ほんの一瞬。

 それだけでいい。

 

「今です!」

 

「おう!」

 

 すぐさま後退する二人。

 そのまま距離を取り、戦線を離脱する。

 残されたのは――聖女と、有紗。

 

「……さて。

 やっと二人きりだね?」

 

 有紗は、反応せずに無言で構える。

 その瞳に光はない。

 それでも――

 

「大丈夫……ちゃんと戻すから」

 

 その一歩を踏み出した瞬間――世界が再び衝突した。

 聖女は迷わず踏み込む。

 その視界の先には――有紗。

 その動きは、相変わらず正確で容赦がない。

 ――だが。

 

(見える)

 

 さっきまでと違い、わずかに。

 ……本当にわずかに、“ずれ”がある。

 二人が刻んだ傷痕。

 完璧すぎるがゆえの、歪み。

 

「……そこ!」

 

 最短の一撃を紙一重で外し、懐へ。

 その距離はゼロになる。

 

「有紗!」

 

 呼ぶが反応はない。

 それでも――腕を掴む。

 

「もう一回だけ、やらせて」

 

 答えは返ってこない。

 代わりに――有紗の魔力が、暴れる。

 身体の内側から、焼き切るような出鱈目な出力。

 暴走……完全に制御を失っている。

 

「……ほんと、めちゃくちゃだなあ」

 

 聖女は苦笑するが、それでもその手は離さない。

 

「……ねえ?」

 

 有紗の額に、自分の額を近づける。

 ぶつかりそうな距離。

 

「聞こえてる?」

 

 沈黙――いや、違う。

 奥で、何かが“もがいている”感覚があった。

 

「……ご……しゅ……」

 

 途切れた声。

 

「――うん」

 

 その声に、聖女は即座に返事を返す。

 

「ここにいるよ?」

 

 その瞬間……有紗の身体が、大きく震えた。

 魔力が更に乱れ、その制御が崩れる。

 

「……やっぱりいるじゃん!」

 

 小さく笑い、強く引き寄せ抱き締める。

 ――壊れそうな程強く。

 

「ちゃんと……帰ってきて」

 

 その言葉は、命令じゃなく願いだった。

 聖女は優しく、静かに続ける。

 

「もういいよ。

 全部、やめていい。

 復讐も、世界も……。

 “正しいこと”も頑張らなくていい」

 

「……っ」

 

 有紗の指が、僅かに動く。

 

「守らなくていい」

 

「……っ、ぁ……」

 

「僕が勝手に生きるって言ったでしょ?」

 

 少しだけ優しく笑い、耳元で囁く。

 

「だからさ……今度は一緒に、適当にやろうよ?」

 

 その言葉は……ひどく軽くて……とても甘いものだった。

 

「……わ……た……し……」

 

 声が、戻る。

 有紗は震えていた。

 

「……どう……すれば……」

 

「とても簡単な話さ!

 ……手、離さないで?」

 

 ぎゅっと、手を握る。

 

「それだけでいい」

 

 ほんの一瞬――いや、確かな時間。

 有紗の指が、ゆっくりと……握り返した。

 

「――っ」

 

 その瞬間、魔力が崩れ落ちる。

 荒れ狂っていた力が、静かにほどけていく。

 瞳に、光が戻る。

 

「……ご主人様」

 

 はっきりとした声だった。

 もう、ノイズは混じっていない。

 

「……私……間違って……」

 

「うん、知ってる」

 

 遮るように優しく言い、抱きしめる腕に力を込める。

 

「でもさ、もういいよ。

 今ここに戻ってきたなら、それで十分」

 

「……っ」

 

 有紗の身体から、完全に力が抜ける。

 崩れるように寄りかかり――その手は、確かに掴まれていた。

 

「……ただいま……」

 

 その一言は、あまりにも小さく――

 それでも、確かに“帰ってきた証”だった。

 

「おかえり」

 

 聖女は、静かに微笑む。

 ――その瞬間。

 パチン。

 軽い音が、世界を断ち切った。

 

「はい、そこまでや」

 

 ロキの声。

 振り向くより早く――

 有紗の身体が、びくりと跳ねた。

 

「……え?」

 

 その瞳から、再び光が消えていく。

 響く無慈悲な声。

 

「――契約不履行や。

 役目終わった道具は、回収やで?

 ――“あの時”、キミが自分で選んだやろ?」

 


 ――あの時


 白い空間……何もない場所に、ただ一人私は居た。

 

「可哀想になぁ」

 

 軽い声。

 振り向いた先にいたのは――笑っている“何か”。

 

「助けたかったんやろ?」

 

 助ける……その言葉が胸に刺さる。

 

「でも無理やで?

 あれはもう終わった話や」

 

(……嫌だ)

 

「ほな、チャンスやろか?」

 

 一歩、近づいてくる。

 

「取り戻したいんやろ?

 全部、元通りに」

 

(……ほしい)

 

 崩れていく光景が、頭から離れない。

 

「代わりに、ちょっとだけ、ボクに手ぇ貸してくれるだけでええ」

 

 差し出される手。

 

「……簡単やで?

 みんなを“幸せにする”だけや」

 

(……幸せに?)

 

「そうそう、君の望む形でええんや」

 

(……それなら)

 

 迷いは――あったが、それでも……。

 

「……やります」

 

 その瞬間……その何かかわにやり、と笑った気がした。

 

「契約成立や」

 

 ――何かが、はまる音がした。

 

「……やめろ。

 ――それは、僕のだ」


 聖女の低い声に、ロキが笑う。

 

「おお、怖い怖い……。

 でもなぁ、それ決めるのは君やない」

 

 指が、空をなぞる。

 

「こっちや!」

 

 その瞬間。

 有紗の身体が崩れた。

 

「……っ!」

 

 咄嗟に有紗を抱き留める。

 軽い、あまりにも……。

 

「……あ、れ……?」

 

 有紗の瞳が揺れる。

 

「……ごしゅ……じん……さま……?」

 

 それが、最後だった。

 完全に、光が落ちる。

 

「……有紗?」

 

 揺らす……返事はない。

 そこに残ったのは……ただの“人形”。

 

「……ああ」

 

 聖女は理解する。

 

「……ほんと、性格悪いなあ」

 

 乾いた声で呟く。

 

「それは褒め言葉やで?」

 

 ロキは肩を竦める。

 

「ほな、今度こそさよならや。

 あ、その体は返したる。

 ある程度までは契約守った報酬や。

 ボク、意外といい奴なんやで?

 ほなな?」

 

 消える……何も残さず。

 崩れた世界の中で――聖女は、座り込んだ。

 膝の上には動かない有紗。

 動かない……何も返さない。

 

「……」

 

 聖女は、しばらく何も言わなかった。

 ただ見ていた……その顔を。

 

「……そっか、そう来るんだ」

 

 ゆっくりと、息を吐く。

 

「……いいよ」

 

 顔を上げる。

 目は、もう泣いていなかった。

 そして、静かに口を開く。

 

「だったら……もう一回、作る」

 

 それは、狂気ではない。

 覚悟だった。

 有紗の頬に、触れる。

 

「今度はちゃんと、僕の手で」

 

 ボロボロの身体で立ち上がる。

 

「――迎えに行く」

 

 その一歩は、戦いの終わりで。

 物語の“選択”でもあった。


 

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