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第29話「決戦――あるいは、回し車を止める勇気について」

 回し車の回転が、どんどん遅くなっていく。


 世界の色が、薄れていく。


 空の青が灰色に。草原の緑が白に。温泉の湯気が消えていく。


「……無理だよ、レオ」


 キウィが言った。


「神様が回すのを止めたら、この世界を動かすエネルギーはどこにも残らない」


「残る」


「え?」


「エネルギーなら——ここにある」


 レオは、ゴートを見た。


 ゴートは、変わらず立っていた。


 世界が色を失っていく中で、ゴートだけが、変わらない色をしていた。


「……ゴート様」


「ぬ」


「お願いがあります」


「ぬ」


「あの回し車を、回してください」


「…………ぬ」


 ゴートが、ハムスターのオフィスチェアに向かって歩き始めた。


 ハムスターが、ポカンとした顔でゴートを見上げた。


「……え? 何してるの、このカピバラ」


 ゴートは、ハムスターの手から黄金の回し車を、鼻先で「ペッ」と奪い取った。


「あっ! ちょっと! それ、僕の——」


「もうお前のものじゃない」


 レオが言った。


「お前は飽きた。もう回す気がない。なら、代わりに回す者がいても、文句はないだろう」


「いや、文句あるけど——」


「ないな。お前は飽きたんだ。飽きたものに、執着するな」


「…………」


 ゴートが、回し車の中に入った。


 黄金の回し車。


 ハムスター用のサイズだったはずだが、ゴートが入ると、回し車は自動的に拡大した。


 カピバラサイズに。


「……魔王殿!」


 レオが叫んだ。


「お前の全魔力を使って、ゴート様の脚力にエンチャントしろ!」


「……クックック」


 ゼノンが、不敵に笑った。


「管理者の椅子を奪い取れというわけか。面白い。……八百年分の全魔力、カピバラの脚力へ転換——エンチャント!」


 ゼノンの体から、黒い光が放出された。


 八百年の魔力。


 それが全て、ゴートの体に注ぎ込まれた。


 ゴートの体が、黒い光に包まれた。


 そして——



   ◇



 ゴートが、走り始めた。


 回し車の中で。


 最初はゆっくりと。


 時速十キロ。


 回し車が、キィ……と音を立てて回り始めた。


 世界の色が、ほんの少しだけ戻った。


 時速二十キロ。


 回し車の回転が速くなる。


 空に、わずかな青が戻った。


 時速三十キロ。


 回転が加速する。


 草原に、緑が戻り始めた。


 時速四十キロ。


 回し車が唸りを上げた。


 温泉から、湯気が立ち始めた。


 そして——


 時速五十キロ。


 カピバラの、全力疾走。


 回し車が、音速で回転し始めた。


 黄金の光が、回し車から放出された。


 それは——癒やしの光だった。


 圧倒的な、「癒やし」のエネルギー。


 ゴートが走るたびに、世界に色が戻っていく。


 空が青くなる。草が緑になる。温泉が沸き立つ。


「……な、なにを……!?」


 ハムスターが、オフィスチェアから転げ落ちた。


「回りすぎだよ! 僕がやってた時より、百倍速い!」


「当然です」


 レオが言った。


「ゴート様は、時速五十キロで走れます。ハムスターの回転速度など、比較になりません」


「でも、このまま回し続けたら——」


「どうなる」


「世界が、オーバーロードする! 癒やしのエネルギーが多すぎて、システムが処理しきれなくなる!」


「いいだろう」


「よくない! 世界が壊れる!」


「壊れない。書き換わるだけだ」


「え?」


「お前が作った『絶望の暗黒大陸』という枠組みが、壊れるだけだ。その先に——新しい世界ができる」



   ◇



 回し車の回転が、さらに加速した。


 ゴートは、止まらなかった。


 時速五十キロのまま、走り続けた。


 回し車から放出される癒やしのエネルギーが、世界全体を包み込んでいく。


 空の「Now Loading」の表示が、火を噴いて爆散した。


 地平線に浮かんでいたマウスカーソルが、溶けて消えた。


 月が二つだった夜空が、一つに戻った。


 テクスチャの継ぎ目が消え、読み込みエラーが修復され、豆腐の建物がそれぞれ元の形を取り戻していく。


「……世界が、書き換わっていく」


 キウィが、震える声で言った。


「レオ。……絶望値がゼロになった。この世界の基底コードが、『絶望』から『癒やし』に完全に置き換わってる」


「そうか」


「これは……もう『暗黒大陸』じゃない。全く新しい世界」


「ああ」


 ハムスターが、地面に座り込んでいた。


 オフィスチェアも消えていた。


 黄金の回し車は、ゴートの足元で回り続けている。


「……僕の世界が……」


「お前の世界じゃない」


 レオが言った。


「もう、お前の世界じゃない。俺たちの世界だ」


「…………」


「お前は飽きた。だから、もういい。ここは俺たちが引き継ぐ。お前は——好きなところに行け」


 ハムスターは、しばらく黙っていた。


 そして、小さく呟いた。


「……モルモットの王国、作ろうかな」


「好きにしろ」


「…………」


 ハムスターは、トコトコと歩き始めた。


 どこへ向かうでもなく。


 小さな体が、草原の中に消えていった。



   ◇



 回し車が、ゆっくりと回転を落とした。


 ゴートが、走るのをやめた。


 のそのそと、回し車から出てきた。


「ぬ」


「……ゴート様。お疲れ様です」


「ぬ」


 ゴートは、何事もなかったかのように、草を食み始めた。


 時速五十キロで世界を書き換えたカピバラは、今、ただの草食動物に戻っていた。


 レオは、空を見上げた。


 青い空。


 一つの太陽。一つの月。


 マウスカーソルも、Now Loadingも、もうどこにもない。


「……さらばだ、運営」


 レオは、静かに呟いた。


「これからは、俺たちがこの世界を——自由な日常として、生きていく」


 白い光が、世界全体を一瞬だけ包んだ。


 心地よい、温泉の温度。


 そして——世界は、再び動き始めた。



第29話「決戦――あるいは、回し車を止める勇気について」


――終――



【次回予告】


「……レオ」


「何だ」


「終わったよ」


「終わった、か」


「うん。全部」


「…………」


「どうする? これから」


「……散歩でも、するか」


「散歩?」


「ああ。ゴートと」


次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』


最終話・第30話「永遠――あるいは、ただのカピバラに戻る日について」


お楽しみに。

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