最終話・第30話「永遠――あるいは、ただのカピバラに戻る日について」
気がつくと、レオは草原に寝転んでいた。
背中に、柔らかい草の感触。
顔に、暖かい日差し。
風が、吹いている。
レオは、ゆっくりと目を開けた。
空は青かった。
雲が流れていた。
ただの、空だった。
テクスチャの継ぎ目もない。読み込みエラーもない。
月は一つ。太陽は一つ。マウスカーソルはどこにもない。
「…………」
レオは、自分の手を見た。
——色が、変わっていた。
蛍光ピンクは、消えていた。
そこにあったのは、普通の肌色だった。
少し日焼けした、ごく普通の人間の肌。
「……ピンクが、消えた」
レオは、自分の顔を触った。
普通だった。
体を見た。
普通だった。
どこにでもいる、一人の人間だった。
「…………」
寂しかった。
少しだけ。
でも、安心もしていた。
少しだけ。
◇
レオは、立ち上がった。
隣に、ゼノンがいた。
だが——
魔王としての禍々しさは、もうなかった。
黒い鎧も、暗黒のオーラもない。
ゼノンは、少しくたびれた長衣を着た、背の高い中年の男になっていた。
「……魔王殿」
「魔王殿と呼ぶな。もう、魔王ではないからな」
「…………」
「魔法も、ステータスも、何も見えん。全部消えた。最悪だ。これでは、ただの態度のデカいおじさんではないか」
「ただの態度のデカいおじさんか」
「そうだ。八百年の威厳が、全てなくなった」
「…………」
「だが——」
ゼノンは、草原を見渡した。
「悪くない景色だ」
「ああ。悪くない」
フェリクスが、ゼノンの隣にいた。
猫耳は——まだあった。
だが、それは魔法の産物ではなく、ただの体質のようだった。
「……魔王様。いえ、ゼノンさん」
「ゼノンさん……。妙な響きだな」
「お茶を入れますか」
「……ああ。頼む」
◇
レオは、背負い袋を下ろした。
中身を確認した。
聖遺物は——一つだけ残っていた。
あれだけ集めた聖遺物の、最後の一個。
レオは、それを手に取った。
鼻に近づけた。
——何も聞こえなかった。
共鳴能力は、消えていた。
硬度も、密度も、製造年月も、何も語りかけてこない。
ただの、茶色い立方体。
強烈な、草が発酵したような匂いが鼻を突いた。
「…………」
これは——ウォンバットの糞だった。
聖遺物ではなく。
モース硬度9の聖なるものではなく。
ただの、糞。
「…………」
レオは、少しだけ寂しそうに笑った。
そして、近くの川に向かって歩いた。
冷たい、澄んだ川。
温泉ではない。ただの川。
レオは、最後の聖遺物を——最後の糞を——川に投げた。
ぽちゃん。
小さな水音。
茶色い立方体が、川の流れに乗って、ゆっくりと遠ざかっていった。
「……さよなら」
レオは、それを見送った。
騎士としての重責。聖遺物への執着。ピンクの肌。共鳴能力。
全てが、川の流れと共に去っていく。
「…………」
レオは、泣かなかった。
笑っていた。
穏やかに。
◇
「……レオ」
声がした。
肩に、小さな鳥が止まった。
茶色い、地味な鳥。
翼のない、飛べないはずの鳥が——飛んできた。
「キウィ」
「……ピー」
「お前も、変わったのか」
「んー……どうだろう。ちょっとだけ。システムメッセージの機能は消えたけど、動物の言葉はまだわかるよ。たぶん、体質みたいなもの」
「そうか」
「それに、飛べるようになった。不思議だよね。元の世界のキウィは飛べないのに」
「バグか」
「バグかもね。でも、いいバグ」
「ああ。いいバグだ」
キウィは、レオの肩で首を傾げた。
「……ピー」
「…………」
「……なんてね。秘密だよ、レオ」
キウィは空の彼方へと自由に飛び去っていった。
◇
草原の真ん中に、一匹のカピバラがいた。
少し大きな、だがどこから見てもただのカピバラ。
時速五十キロで走ることも、虚無のオーラを発することも、もうない。
ただの、のんびりした草食動物。
草を食んでいた。
もぐもぐ。
レオは、ゴートに近づいた。
「……ゴート」
「ゴート様」ではなく、「ゴート」と呼んだ。
自分でも、なぜかはわからなかった。
ただ、今は、その呼び方が自然だった。
「ぬ」
ゴートが、レオを見た。
半開きの目。
変わらない。
世界が書き換わっても、神が去っても、メタ構造が消えても——
ゴートの「ぬ」は、変わらなかった。
「…………」
レオは、ゴートの顎の下を撫でた。
温かかった。
ゴートの鼻先は、いつも温かい。
ゴートが、気持ちよさそうに目を細めた。
ゴロリと、横になった。
「…………」
レオは、ゴートの横に座った。
草原。青空。風。
猿たちが、遠くの丘で遊んでいる。
スナネコが、日向で丸くなっている。
カインが、木の下に座って、空を見上げている。
ゼノンとフェリクスが、お茶を飲んでいる。
子カピバラたちが、川辺で走り回っている。
ナマケモノが、木の上で眠っている。
クオッカが、いつもの笑顔で草を食べている。
Tポーズの騎士たちは——
どこにもいなかった。
彼らは、メタ構造と共に消えたのだろう。
没データの保管庫も、拡張メモリのスロットも、もうこの世界には存在しない。
だが、レオは悲しくなかった。
彼らは、眠っている。
どこかで、穏やかに。
いつか、別の形で会える気がした。
「…………」
◇
夕方になった。
空がオレンジ色に染まっている。
レオは、立ち上がった。
ゴートも、のそのそと立ち上がった。
「……行こうか、ゴート」
「ぬ」
「お散歩の時間だ」
「ぬ」
レオが歩き始めた。
ゴートが、隣を歩いた。
のんびりと。
急ぐ必要はない。
時速五十キロで走る必要もない。
ただ、並んで歩く。
夕焼けの草原を。
「…………」
もう、世界を滅ぼす癒やしも、聖遺物の投擲術も、行政手続きの応用も、必要ない。
もう、暗黒大陸ではない。
ただの、世界だ。
そして、レオはもう、ピンクの騎士ではない。
ただの、男だ。
ゴートも、もう、時速五十キロのカピバラではない。
ただの、カピバラだ。
一人の男と、一匹のカピバラ。
夕焼けの中を、歩いていく。
「ぬ」
「ああ」
彼らの後ろ姿が、草原の向こうに、ゆっくりと溶けていった。
◇
どこかで、回し車が回っている。
小さな、黄金の回し車。
誰も乗っていないのに、ゆっくりと。
ゴートが走った時の「余熱」が、まだ残っている。
温かい。
世界を動かすほどではないが、世界を終わらせないくらいには、温かい。
この余熱が続く限り、世界は動き続ける。
ゴートがそこにいて、レオがそれを撫でている限り。
世界は——終わらない。
『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』
――完――




