【幕間】第27.5話「検分――あるいは、公衆浴場の衛生管理について」
カインとの決着から一夜明けた、穏やかな朝。
療養地は、平和だった。
猿たちが温泉に浸かり、スナネコが蒸気で毛を乾かし、カインが温泉の隅で膝を抱えている。
ゼノンは——
「……フェリクス。なぜ私が、猿と一緒に背中を流し合わねばならんのだ」
「衛生管理規定です、魔王様。レオさんが——」
「あのピンク色の独裁者が決めた規定など——」
「魔王様。掛け湯を忘れています」
「…………」
ゼノンは、渋々と掛け湯をした。
八百年の魔王が、猿に背中を流されている。
威厳は、完全に消滅していた。
だが、気持ちよさそうだった。
◇
事件は、昼過ぎに起きた。
ゴートが、大浴場の中心に鎮座していた。
半開きの目。虚無の表情。
温泉の湯気に包まれた、いつもの光景。
だが——
「ぬ」
ゴートが、静かに腰を浮かせた。
何気ない動作。
だが、レオは知っていた。
この動きの意味を。
「総員、緊急退避ーーーッ!!」
レオが全裸——正確にはピンク一色——のまま立ち上がった。騎士団長時代の「毒ガス検知」並みの緊張感で。
だが、遅かった。
ゴートの腰が浮いた瞬間——
温泉の底から、ポコポコと泡が立った。
そして、数個の茶色い立方体が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
「…………」
「…………」
「…………」
沈黙。
温泉に浸かっていた全員が——猿もカインもゼノンも——固まった。
「『聖遺物の緊急射出』を確認! 回収班、展開!」
「回収班などおらん! ここにいるのは魔王と猿だ!」
ゼノンが温泉から飛び出した。
濡れた体で、怒りに震えている。
「重大な規約違反だ! 貴様のカピバラ、今この共有スペースで何をした!? 排泄か!? 風呂の中で排泄したのか!?」
「落ち着いてください、魔王殿」
「落ち着けるか!」
レオは、冷静に腰に巻いていたネットを取り出した。
浮かんでいる聖遺物を、一つずつ恭しく回収していく。
「……計算通りです」
「何が計算通りだ」
「カピバラは、水中で排泄する習性があります。外敵から身を隠すための防衛本能です。ゴート様が温泉に入った時点で、この事態は予測されていた」
「予測していたなら止めろ!」
「止める理由がありません」
「理由? 衛生だ!」
「魔王殿。この温泉の成分を、分析してみてください」
フェリクスが、温泉の水を検査した。
「……魔王様。水質が、変化しています」
「変化? 悪化したのか」
「いえ。……改善しています」
「改善?」
「はい。聖遺物に含まれる高密度のマナとミネラルが温泉の成分と反応して、水質が弱アルカリ性に最適化されています。肌への浸透力が約三十パーセント向上。美肌効果が——」
「美肌効果はどうでもいい! 問題は衛生だ!」
レオは、回収した聖遺物を温泉の縁に並べた。
五個。
温泉の成分でコーティングされ、微かに光沢を帯びている。
「……魔王殿。これは汚染ではありません。ゴート様による『水質改善パッチの適用』です」
「水質改善と呼ぶな」
「事実です。温泉の熱と成分が聖遺物のミネラルを溶解させ、お湯を最適な弱アルカリ性に調整している。いわば——天然の入浴剤です」
「入浴剤と呼ぶな!」
「では、こう言い換えましょう。ゴート様は自動水質管理システムを搭載した、世界唯一の生体型浴場メンテナンスユニットです」
「言い換えるな! 余計に意味がわからん!」
フェリクスが、お湯を顔にパシャパシャとかけながら感嘆の声を漏らした。
「……魔王様。確かに肌触りが良くなっています。さすがはゴート様です」
「……貴様まで。……だが……くっ、確かに肌触りが良くなった気がするのが、魔王としての敗北感を煽る……」
温泉の端で、猿たちがゴートを見つめていた。
崇拝するように。
彼らにとって、それは大いなる自然の摂理だった。
温泉を司る神が、聖なるものを湯に賜った——そういう認識らしかった。
一匹のボス猿が、ゴートの前で深々と頭を下げた。
「……キウィ。猿が何か言ってるぞ」
「『温泉の神よ、恵みに感謝します』だって」
「……神。ゴート様が、猿の間で温泉の神になった」
「なったね」
「ぬ」
◇
結局、レオは以下の規定を制定した。
【療養地衛生管理規定・改定第二版】
第一条:入浴前の掛け湯は全員必須。
第二条:入浴中の飲食を禁ずる。
第三条:ゴート様専用浴場を新設する。一般浴場との共用を禁ずる。
第四条:ゴート様専用浴場において産出された聖遺物は、速やかに回収し、
別途保管するものとする。
第五条:上記聖遺物は「温泉仕込み聖遺物」として、
通常の聖遺物とは区別して管理する。
第六条:猿による宗教的儀式(ゴート様崇拝)は、入浴の妨げにならない
範囲で許可する。
「温泉仕込み聖遺物?」
「温泉の成分でコーティングされた聖遺物は、通常品より品質が高い。ミネラルコーティングにより、硬度が約〇・三ポイント向上している。投擲用として最適だ」
「…………」
「そして第六条。猿の崇拝については、秩序の維持に貢献する限り容認する」
「容認するのか。温泉で排泄するカピバラを、神として崇拝することを」
「宗教の自由は保障されるべきだ」
「お前は時々、本当に何を言っているのかわからん」
キウィは、何も言わなかった。
レオが幸せそうだったから。
聖遺物がゼロになった後、ゴートのおかげで新たな聖遺物が手に入った。
しかも、温泉仕込みの高品質品。
「……騎士団の追加メモリ、また集め直せるかもしれない」
「うん。時間はかかるけどね」
「ああ。だが、時間なら——」
レオは、温泉を見渡した。
猿が浸かり、スナネコが丸まり、カインが隅で黙っている。
「……カイン」
レオは、温泉の隅にいる元副官に声をかけた。
「お前が言っていた『魔王様』。システムの外から来た存在。あれは何だったんだ」
カインは、しばらく黙っていた。
湯気が顔にかかる。
「……ハムスター」
「ハムスター?」
「黄金の回し車を回してる、小さいやつだ。あいつが俺に命令していた。『バグを監視しろ』『癒やしの汚染源を報告しろ』って」
「…………」
「でも、あいつは俺を使い捨てにするつもりだった。機械化アニマルのパッチと一緒に消去する予定だったんだ。俺は、ただの観測プログラムの一部だった」
カインは、湯船の水面を見つめた。
「……もう関係ない。あいつに報告することは、何もない」
「そうか」
「…………」
「……湯加減はどうだ」
「……悪くない」
ゴートが、猿たちに拝まれている。
「——たっぷりある」
【幕間】第27.5話「検分――あるいは、公衆浴場の衛生管理について」
――終――
【次回予告】
「……あれが、運営か」
「うん」
「小さいな」
「うん」
「……ハムスター?」
「ゴールデンハムスター。あれが、この世界を作った神」
「ハムスターが、神」
「回し車を回してる。あの回転数が、この世界のクロック周波数を決めてるの」
「回し車で世界を動かしている……」
「そう。そして、あのハムスターが回すのをやめたら——」
「世界が、止まる」
「うん」
次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』
第28話「真相――あるいは、神の正体がネズミであった件について」
お楽しみに。




