第27話「残留――あるいは、パッチを免れた死神の逆襲について」
平穏な日々は、三日で終わった。
その朝、ゴートが温泉に浸かっていた時——
「ぬ」
ゴートが、突然立ち上がった。
半開きだった目が、わずかに見開かれた。
ゴートが警戒している。
レオは、それだけで全てを理解した。
「……来たか」
地平線の向こうに、銀色の閃光が見えた。
一直線に、こちらに向かってくる。
速い。
時速二百キロを超えている。
機械化ラーテル。
そして、その背に立つ人影。
黒いマント。無表情な顔。
カイン。
「……レオ」
カインの声が、距離を超えて響いた。
「この世界は認めない。ぬるい。甘い。温泉だと? こんなものは、暗黒大陸ではない」
機械化ラーテルが、療養地に突入してきた。
温泉の水が、爆発的に跳ね上がった。
猿たちが悲鳴を上げて散った。
スナネコたちが走った。
「全員退避!」
レオが叫んだ。
「フェリクス、動物たちを安全な場所へ! 魔王殿——」
「わかっている」
ゼノンが、前に出た。
「カイン。お前は『魔王に仕えている』と言っていたな。私のことか」
「あんたじゃない。俺の魔王は別にいた」
「…………」
「だが、そいつも俺を使い捨てにするつもりだった。だから今は誰にも仕えていない。この世界を壊しに来ただけだ」
「…………」
「温泉で猿と戯れる世界など、暗黒大陸ではない」
◇
機械化ラーテルが、二度目の突撃を仕掛けてきた。
時速二百キロ。
チタン装甲の塊が、レオに向かって突っ込んでくる。
レオには、聖遺物がない。
剣は折れている。
武器がない。
だが——
「……温泉がある」
レオは、足元の温泉に手を突っ込んだ。
ピンクの肌が、温泉の水に触れた瞬間——
水が、跳ねた。
意思を持ったように。
温泉の水が、レオの腕に沿って這い上がり、体全体を覆った。
「これは——」
キウィが驚いた。
「聖遺物との共鳴能力が、温泉の成分と反応してる。レオの体が、温泉そのものと一体化して——」
「流体装甲」
レオが言った。
「温泉の水を、鎧のように纏う。聖遺物はないが、この世界の温泉には、ゴートが拡散させた癒やしのエネルギーが溶けている。それを、利用する」
機械化ラーテルが、激突した。
温泉の流体装甲と。
衝撃。
水飛沫が爆発的に舞い上がった。
だが、レオは吹き飛ばなかった。
機械化ラーテルの運動エネルギーが、流体装甲に吸収されていく。
「……なっ!?」
カインが叫んだ。
「時速二百キロの突進を、素手で——いや、水で止めただと!?」
「水じゃない。温泉だ」
レオが、機械化ラーテルの頭を掴んだ。
流体装甲を纏ったピンクの手が、チタンの装甲を鷲掴みにしている。
「カイン。お前は、この世界を認めないと言った」
「認めない」
「なぜだ」
「ぬるいからだ。絶望のない世界は、世界じゃない」
「本当にそう思うか」
「思う」
「嘘だ」
「…………」
「お前は、騎士団の手紙を書いた。『団長へ。聖遺物を、大切にしてください。私たちの遺したものです』と」
「…………」
「あれを書いたのは、絶望の中にいた人間じゃない。仲間を想う人間だ。温泉のように温かい心を持った人間だ」
「黙れ」
「カイン。お前は、ぬるい世界を否定しているんじゃない。ぬるい世界を認めてしまう自分を、怖がっているんだ」
「…………」
カインの手が、震えた。
「黙れと言っている」
「お前も、温泉に入れ」
「……何?」
「温泉に入れ。そして、もう一度考えろ。この世界が、本当に間違っているのかどうか」
◇
機械化ラーテルが、動きを止めた。
カインの命令を待っている。
だが、カインは命令を出さなかった。
「…………」
長い沈黙。
温泉の湯気が、二人の間を漂っている。
「ぬ」
ゴートが、のそのそと近づいてきた。
カインと機械化ラーテルの前に、立った。
そして——
鼻先で、カインの手を触った。
温かかった。
ゴートの鼻先は、いつも温かい。
「…………」
カインの体から、力が抜けた。
機械化ラーテルのセンサーの赤い光が、消えた。
チタンの装甲が、パラパラと剥がれ始めた。
中から出てきたのは——ただのラーテル。
小さな、ずんぐりした動物。
世界一恐れを知らないはずの動物が、ゴートの前で、おとなしく座っていた。
「……クソ」
カインが呟いた。
「お前のカピバラは、反則だ」
「反則ではありません。癒やしです」
「…………」
カインは、マントを脱いだ。
そして、温泉に——
足を入れた。
「…………」
「…………あったかい」
「だろう」
「…………」
「カイン。おかえり」
「…………」
カインは、答えなかった。
だが、温泉から上がらなかった。
◇
カインとの戦いが終わった頃——
地平線の向こうから、何かがこちらに向かってくるのが見えた。
小さなもの。
豪華なオフィスチェアに座った、小さな影。
「……何だ、あれは」
「…………」
キウィの顔色が、変わった。
「レオ。来るよ。……あれが来る」
「あれ?」
「運営。この世界の、神」
オフィスチェアが、滑るように近づいてくる。
そこに座っていたのは——
第27話「残留――あるいは、パッチを免れた死神の逆襲について」
――終――
【次回予告】
「……魔王殿。なぜ猿と一緒に背中を流し合っているのですか」
「……黙れ。あのピンク色の独裁者が決めた規定のせいだ」
「衛生管理規定ですか」
「衛生管理だと? 私は八百年の魔王だぞ。猿に背中を流される謂れはない」
「でも、気持ちよさそうですよ」
「…………」
「あ、ゴート様も入ってきた」
「ぬ」
「……まさか、風呂の中で——」
「退避しろ!!」
次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』
【幕間】第27.5話「検分――あるいは、公衆浴場の衛生管理について」
お楽しみに。




