第26話「新世――あるいは、すべての道は温泉に通ずることについて」
世界が、変わっていた。
空は青い。
本物の青だった。テクスチャの継ぎ目がない。読み込みエラーもない。ただ、どこまでも広がる青空。
月は一つ。
太陽が、普通に昇っている。
そして、足元から——湯気が立っていた。
「…………」
レオは、白い空間から外に出ていた。
気づいたら、草原にいた。
だが、草原の至るところから、温泉が湧き出ていた。
小さな泉。川のような流れ。大きな池。
全てが、適温の温泉だった。
「……キウィ。何が起きた」
「ゴートがクジラの中を突き破った時に、癒やしのエネルギーが世界中に拡散した。初期化プログラムを内側から破壊したから、消去されるはずだったデータが全部『癒やし』に書き換えられたの」
「癒やしに書き換え?」
「うん。この世界のベースコードが、『絶望』から『癒やし』に変わった。その結果、地表のデータが全部温泉に変換された」
「……世界中が温泉」
「世界中が温泉」
レオは、目の前の温泉に手を入れた。
適温だった。
四十度前後。
「……いい湯だ」
「でしょ」
「…………」
レオは、振り返った。
ゼノンが、Tポーズの騎士たちを運んできていた。
十二体の動かない騎士を、フェリクスと二人で、丁寧に並べていた。
「……魔王殿」
「……ふん。無事だったか、ピンクの騎士」
「無事です」
「聖遺物は?」
「全部使いました。ゼロです」
「…………」
「だから、騎士団はまだ動かせません」
「ああ、見ればわかる」
ゼノンは、Tポーズの騎士たちを見た。
「……だが、世界は残った」
「残りました」
「なら、また集めればいい。聖遺物を」
「……ええ。また、集めます」
レオは、草原を見渡した。
温泉が湧く、広大な草原。
「ここを、俺たちの拠点にする」
◇
レオは、この場所を「騎士団の永久療養地」と定義した。
「騎士団の規律において、長期戦闘の後には療養期間が設けられる。衛生管理規定第三条——『全将兵は、戦闘終了後、速やかに適切な休養を取らなければならない』」
「それは入浴のことか」
「入浴を含みます」
「温泉は、衛生管理規定に含まれるのか」
「含まれます。天然温泉は、最も効果的な療養手段の一つです」
「…………」
ゼノンは、ため息をついた。
「お前は本当に、何でも騎士団の規則で正当化するな」
「正当化ではありません。適用です」
レオは、療養地の設計に取り掛かった。
温泉の配置を確認し、適温の泉を選定し、入浴エリアを区分けした。
大浴場。個室風呂。足湯。
そして、動物用の浅い浴場。
「ゴート様専用の浴場は、ここ。水深三十センチ。カピバラが座って入れる深さ」
「ぬ」
「子カピバラ用は、ここ。水深十センチ。溺れない深さ」
ゴートが、専用浴場にのそのそと入った。
温泉に浸かった。
半開きの目が、さらに細くなった。
「ぬぅ……」
至福の声。
子カピバラたちも、次々と温泉に入った。
ナマケモノは、木の枝にぶら下がったまま、枝の先が温泉に浸かるギリギリの高さで眠っていた。
クオッカは、温泉の縁に座って、いつもの笑顔を浮かべていた。
スナネコたちは、温泉の蒸気で毛を乾かしながら、丸くなっていた。
◇
数日後。
療養地に、新たな住人が現れた。
ニホンザルの群れ。
世界の再起動で出現した雪山から、温泉を求めて降りてきたらしい。
赤い顔。
数百匹。
「……スニッフ部隊長からの報告です。北方から、猿の軍勢が接近しています」
ガレス——ではなかった。
ガレスはTポーズのままだ。
報告してきたのは、フェリクスだった。
「猿の群れ……」
「はい。推定三百匹。敵意は感じられません。温泉に入りたいだけのようです」
「…………」
レオは、考えた。
「入浴を許可する」
「許可するのですか」
「ああ。だが、条件がある」
「条件?」
「衛生管理規定の遵守だ。入浴前の掛け湯。入浴中の飲食禁止。排泄は指定区域で行うこと」
「……猿に、それを守らせるのですか」
「守らせる。キウィ、翻訳してくれ」
「了解」
キウィが、猿たちに条件を伝えた。
猿たちは、首を傾げた。
だが、温泉に入りたい欲求の方が強かった。
一匹のボス猿が、しぶしぶ頷いた。
「……条件を受け入れたみたい」
「よし。混浴協定の締結だ」
◇
猿たちが、温泉に入った。
三百匹の猿が、赤い顔を湯気に染めて、至福の表情を浮かべている。
ゴートが、その中心にいた。
猿に囲まれたカピバラ。
だが、誰も争わない。
ゴートの「虚無」が、空間全体を包んでいるから。
猿もカピバラも、スナネコもクオッカも、全員が穏やかに温泉を楽しんでいる。
「……平和だな」
レオが呟いた。
「平和だね」
「こんな光景、暗黒大陸で見られるとは思わなかった」
「暗黒大陸じゃないよ、もう。ここは——」
キウィが、空を見上げた。
青い空。
「——癒やしの大陸だよ」
「癒やしの大陸、か」
「うん」
レオは、温泉の縁に座った。
ピンク色の足を、温泉に浸した。
「……だが、まだ終わってない」
「終わってない?」
「騎士団が、まだTポーズだ。聖遺物を集め直さないと」
「うん」
「それに、この温泉の管理も必要だ。猿との協定の履行確認。水質の維持。入浴ルールの徹底」
「やることいっぱいだね」
「ああ。だが——」
レオは、温泉の向こうに広がる草原を見た。
「——やることがあるのは、いいことだ」
第26話「新世――あるいは、すべての道は温泉に通ずることについて」
――終――
【次回予告】
「……レオ」
「何だ」
「来るよ」
「来る? 何が」
「カイン。カインが、来る」
「…………」
「旧世界のデータとして残留してた。再起動を免れた、唯一の脅威」
「カインは、この新しい世界を認めないだろうな」
「認めない。たぶん、壊しに来る」
「…………」
「レオ。聖遺物、ゼロだよ。どうやって戦うの」
「戦う方法は、ある。聖遺物がなくても」
「何?」
「温泉だ」
次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』
第27話「残留――あるいは、パッチを免れた死神の逆襲について」
お楽しみに。




