第25話「初期化――あるいは、世界がフォーマットされる日について」
門をくぐった先は、空だった。
比喩ではない。
地面がない。天井もない。壁もない。
ただ、白い空間が広がっている。
そして、その白い空間の中に——
空を泳いでいた。
巨大な、青い影。
全長百メートルを超える、途方もない大きさの生物。
シロナガスクジラ。
地球最大の生物が、白い虚空を悠々と泳いでいた。
「…………」
レオは、立ち尽くした。
「キウィ。あれは」
「初期化プログラム」
キウィの声が、震えていた。
「シロナガスクジラ型の、データ消去プログラム。あれが通過した場所は、すべてのデータが消去される。建物も、生物も、記憶も。全部、白紙に戻る」
「全部?」
「全部。何もかも」
「……運営が、本気になったのか」
「うん。私たちが門を突破したから。コア・ゲートの先は、世界の根幹。ここにバグが侵入したら、システムが崩壊する。だから、最終手段を使ってきた」
クジラが、ゆっくりと旋回した。
その巨体が向きを変えるたびに、白い空間が波打った。
クジラの口が開くと、白い光が漏れ出す。
その光に触れたものは、消える。
「……あれに飲まれたら、終わりか」
「終わり。データごと消去される。没データにすらならない。完全な、消滅」
「…………」
レオは、一行を振り返った。
十二人の騎士たち。魔王ゼノン。フェリクス。キウィ。
ゴートと子カピバラたち。ナマケモノ。クオッカ。スナネコ。
全員が、ここにいる。
「……全員、聞け」
レオの声が、白い空間に響いた。
「あのクジラは、世界の消去プログラムだ。あれが通過した場所は、全て消える」
「…………」
「だが、俺たちは消えない。消させない」
騎士たちが、姿勢を正した。
「団長殿。策はありますか」
ガレスが聞いた。
「ある」
レオは、背中の袋を下ろした。
聖遺物の袋。
「キウィ。聖遺物を大量にクジラに投入したら、どうなる」
「…………」
「パッチの時と同じだ。聖遺物のデータ密度が高すぎて、処理能力を超える。バッファオーバーフロー。フリーズする」
「でも、あれはパッチよりずっと大きい。五十体の機械化アニマルとは比べものにならない。必要な聖遺物の数は——」
「全部だ」
「え?」
「全部使う。俺が持っている聖遺物、全部」
キウィは、絶句した。
「全部って……百個以上あるよ? それを全部使ったら、騎士団の追加メモリも——」
「わかっている」
「騎士団が止まるよ。聖遺物がなくなったら、みんなまたTポーズに——」
「わかっている」
レオは、騎士たちを見た。
「ガレス」
「はい、団長殿」
「聖遺物を全放出する。お前たちの追加メモリも、全て抜く」
「…………」
「お前たちは、また止まる。Tポーズに戻る」
「…………」
「だが、世界が消えれば、お前たちは消去される。没データですらなくなる。永遠に消える」
「…………」
「世界が残れば、俺はもう一度、お前たちを起動させる。聖遺物を集めて、もう一度」
ガレスは、黙った。
そして、頷いた。
「……了解しました、団長殿」
「いいのか」
「はい。団長殿が『もう一度起こす』と言うなら、我々は安心して眠れます」
「…………」
「名誉のピンクの団長殿なら、必ず約束を守ってくださる。我々は、そう信じています」
他の騎士たちも、頷いた。
「了解しました、団長殿」
「了解しました」
「名誉のピンク、信じてます」
「…………」
レオは、歯を食いしばった。
泣きそうだった。
だが、泣かなかった。
「……ありがとう」
◇
レオは、騎士たちの後頭部から聖遺物を一つずつ抜き始めた。
カチッ。カチッ。カチッ。
聖遺物が抜かれるたびに、騎士の動きがぎこちなくなっていく。
「……団長殿。動きが……」
「わかっている。もう少しだけ耐えてくれ」
カチッ。
ガレスの体が、カクカクと震え始めた。
「……団長殿……。必ず……また……」
「ああ。必ず」
カチッ。
ガレスの腕が、ゆっくりと横に広がった。
Tポーズ。
目の光が消え、動きが止まった。
「…………」
レオは、次の騎士に向かった。
一人、また一人と、聖遺物を抜いていく。
一人、また一人と、Tポーズに戻っていく。
十二人全員が、再び動かなくなるまで。
「…………」
レオの手元に、百個以上の聖遺物が集まった。
全ての聖遺物。
投擲用。交渉用。切り札用。
騎士たちの追加メモリだったもの。
「……全部だ」
レオは、聖遺物を両腕に抱えた。
「ゴート様」
「ぬ」
「背中に乗ります」
「ぬ」
レオは、ゴートの背に飛び乗った。
聖遺物を全て抱えて。
◇
クジラが、こちらに向かってきた。
巨大な口を開けて。
白い光が、溢れ出している。
「……ゴート様。走ってください。あのクジラに向かって」
「ぬ」
ゴートが、走り始めた。
時速十キロ。二十キロ。三十キロ。
四十キロ。五十キロ。
最高速度。
クジラに向かって、真っ直ぐに。
「……魔王殿!」
レオが叫んだ。
「俺がクジラに聖遺物を投げ込む! お前は、全員を連れて退避しろ!」
「……退避だと? 私に、逃げろと言っているのか」
「逃げろとは言わない。騎士団を守れと言っている。Tポーズの騎士たちを、安全な場所に移してくれ」
「…………」
「頼む。お前にしかできない」
ゼノンは、黙った。
そして——
「……フン。借りだぞ、ピンクの騎士」
「返さなくていい」
「返す。必ず返す」
ゼノンは、フェリクスと共にTポーズの騎士たちのもとへ走った。
◇
ゴートが、クジラに迫った。
百メートル。五十メートル。三十メートル。
クジラの口が、大きく開いている。
白い光が、全てを飲み込もうとしている。
「…………」
レオは、聖遺物を一つ掴んだ。
最後の共鳴。
『硬度4.7、密度2.0、一ヶ月前、オス』
切り札クラスの最高品質。
「……行け」
投げた。
クジラの口の中へ。
続けて、二つ目。三つ目。四つ目。
次々と、聖遺物をクジラの口に投げ込んだ。
五個。十個。二十個。三十個。
両腕が空になるまで。
最後の一個。
レオは、それを手に取った。
切り札用の中でも、最高品質の一個。
硬度4.9。密度2.1。
今まで出会った中で、最も硬い聖遺物。
「……お前が、最後だ」
レオは、全力で投げた。
聖遺物が、クジラの喉の奥に消えた。
◇
一瞬の静寂。
そして——
クジラが、痙攣した。
巨大な体が、ビクン、ビクンと震えた。
口から溢れていた白い光が、不安定に明滅し始めた。
「……効いてる」
キウィが、レオの肩で叫んだ。
「聖遺物のデータが、初期化プログラムの処理能力を超えてる! バッファオーバーフロー! クジラが、フリーズしかけてる!」
クジラの動きが、鈍くなった。
泳ぐ速度が落ちた。
口が閉じかけた。
だが——
「……完全には止まらない。まだ動いてる」
「足りないのか」
「たぶん、あと少し……」
レオは、自分の手を見た。
空っぽの手。
聖遺物は、もう一つもない。
「…………」
「ぬ」
ゴートが、鳴いた。
そして、クジラに向かって——
跳んだ。
カピバラが、跳んだ。
時速五十キロの慣性を乗せて、クジラの口に向かって飛び込んだ。
「ゴート様!?」
ゴートの体が、クジラの口の中に消えた。
一瞬——
世界が、揺れた。
クジラの体全体が、激しく振動した。
そして——
クジラが、止まった。
完全に。
巨大な体が、白い空間の中で静止した。
口が閉じ、光が消え、初期化プログラムが——停止した。
「……止まった」
「止まった……けど、ゴートは——」
クジラの腹が、膨らんだ。
内側から。
ボコッ。
ボコボコッ。
何かが、押し出そうとしている。
クジラの腹が、裂けた。
そこから——
「ぬ」
ゴートが、出てきた。
のんびりと。
何事もなかったかのように。
クジラの体内を突き破って、外に出てきた。
「……ゴート様!」
「ぬ」
ゴートは、レオの前に着地した。
体に、白い光の粒がまとわりついている。
だが、ゴート自身は、何も変わっていなかった。
半開きの目。虚無の表情。
「……ゴート様。大丈夫ですか」
「ぬ」
「…………」
レオは、ゴートに抱きついた。
ピンク色の腕で、カピバラを抱きしめた。
「……よかった。本当に、よかった」
「ぬ」
クジラの残骸が、ゆっくりと白い粒子に分解されていった。
初期化プログラムは、完全に破壊された。
第25話「初期化――あるいは、世界がフォーマットされる日について」
――終――
【次回予告】
「……レオ。見て。世界が、変わってる」
「変わってる?」
「空が、青い。本当の青だよ。テクスチャじゃない、本物の青空」
「本物の……」
「そして、足元を見て」
「……湯気?」
「温泉だよ。世界中が、温泉になってる」
「世界中が?」
「ゴートがクジラの中を突き破った時に、癒やしのエネルギーが世界中に拡散した。その結果——」
「世界が、温泉になった」
「うん。全部」
次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』
第26話「新世――あるいは、すべての道は温泉に通ずることについて」
お楽しみに。




