【幕間】第19.5話「流通――あるいは、噛み応えがもたらす経済革命について」
一行が去った後の、狭い峡谷。
そこには、これまでになかった「平穏」と、不穏な「咀嚼音」が満ちていた。
ガリッ。
ガリッ。
ガリガリガリガリ。
世界一恐れを知らない動物、ラーテルは、レオから譲り受けた聖遺物を一心不乱に噛み締めていた。
保存用聖遺物。硬度3.9。密度1.7。四ヶ月前の製造。
ラーテルの驚異的な顎の力をもってしても、完全には粉砕できない。
絶妙な弾力。
時間経過によって凝縮されたミネラルの風味。
そして、噛めば噛むほど滲み出る、微かな土の香り。
「…………」
ラーテルの目が、恍惚に細まった。
世界一恐れを知らないこの動物が、今、世界一穏やかな表情を浮かべていた。
噛み応えが、闘争本能を鎮めていた。
これは、ラーテルにとって未知の体験だった。
生まれてから今日まで、ラーテルの人生は「噛む」と「怒る」と「睾丸を狙う」の三要素で構成されていた。
だが、今、四番目の要素が加わった。
「噛んで、落ち着く」。
「…………」
ラーテルは、残りの二個の聖遺物を見つめた。
大切に。
生まれて初めて、何かを「大切に」見つめた。
そして、決意した。
「おい、お前ら」
峡谷に棲む他の動物たち——コブラ、ハイエナ、サソリ——が、ビクッと体を震わせた。
「今日からここは、通行禁止じゃない。『入場料』を持っている奴だけを通す。入場料は、あの茶色い四角いやつだ。一個で一回通行。持ってない奴は、回れ右」
誰も逆らわなかった。
世界一恐れを知らない動物の決定に、反対する者はいない。
こうして、暗黒大陸における「聖遺物通貨」の萌芽が、誰にも気づかれることなく、静かに芽吹いた。
◇
同じ頃。
数キロ先の野営地で、ゼノンは焚き火を見つめていた。
深い虚無の中にいた。
「……フェリクス」
「はい、魔王様」
「私は八百年、恐怖と暴力こそがこの大陸の唯一の法だと信じてきた」
「はい。私もそう教育されました」
「だが今、目の前で何が起きている」
「…………」
「あのピンク色の元騎士が、私が最も恐れていた『急所攻撃の達人』であるラーテルを、四角い糞三個で買収した」
「…………」
「暴力による支配が、噛み応えという名の経済活動に敗北したのだぞ」
フェリクスは、夕食の準備をしながら猫耳をぱたぱたと動かした。
「魔王様。それは敗北ではありません」
「では何だ」
「レオさんが行ったのは、騎士団の兵站管理の応用です。敵対勢力を資源で懐柔する。極めて正統な軍事外交です」
「正統な、か」
「はい。……資源が排泄物であるという点を除けば」
「その『除けば』の部分が、私の魔王としての矜持を根底から腐らせているのだ」
ゼノンは、顔を手で覆った。
「……八百年だぞ、フェリクス。八百年、この大陸を恐怖で統べてきた。魔族も魔物も、私の名を聞くだけで震え上がった。それが今、どうだ。糞三個に負けた」
「負けてはいないと思います」
「負けたのだ。完敗だ。ラーテルは私の軍勢に一度も屈しなかったが、糞には屈した。私の八百年は、糞三個以下だ」
「魔王様、自己評価が低すぎます」
「低くない。事実だ」
「…………」
フェリクスは、黙った。
魔王のアイデンティティ・クライシスは、深刻だった。
◇
レオは、焚き火の明かりで、残りの百九十五個の聖遺物を検品していた。
ピンク色の指先が、一つ一つの表面をなぞる。
情報が流れ込んでくる。
硬度。密度。製造年月。製造者。
「…………」
レオは、ある計算をしていた。
ラーテルとの取引で、聖遺物の「交換価値」が確定した。
保存用聖遺物一個で、峡谷の通行権。
つまり、保存用聖遺物一個は、大型魔獣二体分の停戦協定に相当する戦略的価値を持つ。
レオは、騎士団長時代の軍事予算編成の経験を呼び覚ました。
「……魔王殿」
「何だ」
「明日から、我々の旅の方針を一部変更する」
「変更?」
「これまでの方針は『隠密進軍』だった。敵を避け、目立たず、ゴート様を守りながら北へ進む」
「そうだ」
「それを変える。聖遺物を背景とした、威圧的経済外交への移行だ」
「…………」
「我々はもう、ただの旅人ではない。百九十五個の聖遺物を保有する、大陸有数の資産家だ。この『資本』を外交に使えば、戦闘を回避しつつ、あらゆる障害を突破できる」
「お前は、糞で世界を買うつもりか」
「聖遺物で世界と交渉するつもりです」
「同じことだ」
「同じではありません。交渉と購入は違います。交渉は双方にとっての利益を——」
「もういい」
ゼノンは、手を振った。
「好きにしろ。だが、一つだけ言っておく」
「何ですか」
「お前のその肌の色と、糞を数えている姿を見れば、誰だって『大悪党』だと思う。交渉以前の問題だ」
「…………」
「見た目が、すでに犯罪的だ」
「犯罪的ではありません。カピバラ色です」
「カピバラ色の犯罪者だ」
「犯罪者ではありません」
「犯罪者だ」
「犯罪者ではありません」
不毛な言い合いが、夜の荒野に響いた。
◇
同じ頃。
世界のどこか——地上からは見えない場所——で、一つのプログラムが起動していた。
エラーログ。
キウィが、無意識のうちに送信していたレポート。
【エラー報告:ID-LEO_VAL】
被験体レオが、非正規オブジェクト(聖遺物)を貨幣として流通させ、
エリア内の生態系ヒエラルキーを崩壊させています。
被験体の肌色が「癒やし」の過剰摂取により規定値を超過。
聖遺物との共鳴能力(未実装機能)が発現。
――警告。このままでは大陸の「絶望値」が維持できません。
このログを受信した「何か」は、面倒そうに一つのコマンドを実行した。
それが、翌日、空から降ってくることになる「指名手配書」の自動生成プロセスだった。
◇
夜。
全員が眠りについた後、キウィだけが起きていた。
レオの肩の上で。
「…………」
キウィは、レオの寝顔を見ていた。
ピンク色の肌。穏やかな寝息。
聖遺物を抱きしめて眠っている。
「……レオ」
小さな声で、呟いた。
「あなたのやってることは、たぶん正しい。聖遺物で交渉して、戦闘を避けて、誰も傷つけずに進む。それは、正しいことだと思う」
「…………」
「でも、この世界は……『癒やし』を許さない設計になってる。あなたが穏やかに問題を解決するたびに、世界は『絶望値が足りない』ってエラーを出す」
「…………」
「あなたが優しくなるほど、世界はあなたを排除しようとする。それが、この大陸のルール」
キウィは、空を見上げた。
星が、いくつか欠けていた。
テクスチャの欠損。
世界が、少しずつ壊れ始めている。
「……でも、私は」
キウィは、レオの髪に顔を埋めた。
「私は、あなたの味方でいたい。報告プログラムなんかじゃなくて、あなたの翻訳者として」
レオは、寝息を立てていた。
聞こえていなかった。
キウィの小さな告白は、夜の風に溶けて消えた。
【幕間】第19.5話「流通――あるいは、噛み応えがもたらす経済革命について」
――終――
【次回予告】
「……レオ。大変だよ」
「何がだ」
「あなた、指名手配されてる」
「指名手配?」
「『世界を滅ぼす大悪党』として。懸賞金がかかってる」
「なぜ俺が世界を滅ぼすことになっているんだ」
「わからない。でも、あちこちに手配書が貼られてる」
「手配書……」
「しかも、絵がすごくかわいく描かれてる。ピンク肌で、カピバラを抱いてて、笑顔で」
「……それは俺なのか」
「たぶん」
次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』
第20話「懸賞――あるいは、癒やしという名の組織犯罪について」
お楽しみに。




