表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/37

【幕間】第19.5話「流通――あるいは、噛み応えがもたらす経済革命について」

 一行が去った後の、狭い峡谷。


 そこには、これまでになかった「平穏」と、不穏な「咀嚼音」が満ちていた。


 ガリッ。


 ガリッ。


 ガリガリガリガリ。


 世界一恐れを知らない動物、ラーテルは、レオから譲り受けた聖遺物を一心不乱に噛み締めていた。


 保存用聖遺物。硬度3.9。密度1.7。四ヶ月前の製造。


 ラーテルの驚異的な顎の力をもってしても、完全には粉砕できない。


 絶妙な弾力。


 時間経過によって凝縮されたミネラルの風味。


 そして、噛めば噛むほど滲み出る、微かな土の香り。


「…………」


 ラーテルの目が、恍惚に細まった。


 世界一恐れを知らないこの動物が、今、世界一穏やかな表情を浮かべていた。


 噛み応えが、闘争本能を鎮めていた。


 これは、ラーテルにとって未知の体験だった。


 生まれてから今日まで、ラーテルの人生は「噛む」と「怒る」と「睾丸を狙う」の三要素で構成されていた。


 だが、今、四番目の要素が加わった。


 「噛んで、落ち着く」。


「…………」


 ラーテルは、残りの二個の聖遺物を見つめた。


 大切に。


 生まれて初めて、何かを「大切に」見つめた。


 そして、決意した。


「おい、お前ら」


 峡谷に棲む他の動物たち——コブラ、ハイエナ、サソリ——が、ビクッと体を震わせた。


「今日からここは、通行禁止じゃない。『入場料』を持っている奴だけを通す。入場料は、あの茶色い四角いやつだ。一個で一回通行。持ってない奴は、回れ右」


 誰も逆らわなかった。


 世界一恐れを知らない動物の決定に、反対する者はいない。


 こうして、暗黒大陸における「聖遺物通貨」の萌芽が、誰にも気づかれることなく、静かに芽吹いた。



   ◇



 同じ頃。


 数キロ先の野営地で、ゼノンは焚き火を見つめていた。


 深い虚無の中にいた。


「……フェリクス」


「はい、魔王様」


「私は八百年、恐怖と暴力こそがこの大陸の唯一の法だと信じてきた」


「はい。私もそう教育されました」


「だが今、目の前で何が起きている」


「…………」


「あのピンク色の元騎士が、私が最も恐れていた『急所攻撃の達人』であるラーテルを、四角い糞三個で買収した」


「…………」


「暴力による支配が、噛み応えという名の経済活動に敗北したのだぞ」


 フェリクスは、夕食の準備をしながら猫耳をぱたぱたと動かした。


「魔王様。それは敗北ではありません」


「では何だ」


「レオさんが行ったのは、騎士団の兵站管理の応用です。敵対勢力を資源で懐柔する。極めて正統な軍事外交です」


「正統な、か」


「はい。……資源が排泄物であるという点を除けば」


「その『除けば』の部分が、私の魔王としての矜持を根底から腐らせているのだ」


 ゼノンは、顔を手で覆った。


「……八百年だぞ、フェリクス。八百年、この大陸を恐怖で統べてきた。魔族も魔物も、私の名を聞くだけで震え上がった。それが今、どうだ。糞三個に負けた」


「負けてはいないと思います」


「負けたのだ。完敗だ。ラーテルは私の軍勢に一度も屈しなかったが、糞には屈した。私の八百年は、糞三個以下だ」


「魔王様、自己評価が低すぎます」


「低くない。事実だ」


「…………」


 フェリクスは、黙った。


 魔王のアイデンティティ・クライシスは、深刻だった。



   ◇



 レオは、焚き火の明かりで、残りの百九十五個の聖遺物を検品していた。


 ピンク色の指先が、一つ一つの表面をなぞる。


 情報が流れ込んでくる。


 硬度。密度。製造年月。製造者。


「…………」


 レオは、ある計算をしていた。


 ラーテルとの取引で、聖遺物の「交換価値」が確定した。


 保存用聖遺物一個で、峡谷の通行権。


 つまり、保存用聖遺物一個は、大型魔獣二体分の停戦協定に相当する戦略的価値を持つ。


 レオは、騎士団長時代の軍事予算編成の経験を呼び覚ました。


「……魔王殿」


「何だ」


「明日から、我々の旅の方針を一部変更する」


「変更?」


「これまでの方針は『隠密進軍』だった。敵を避け、目立たず、ゴート様を守りながら北へ進む」


「そうだ」


「それを変える。聖遺物を背景とした、威圧的経済外交への移行だ」


「…………」


「我々はもう、ただの旅人ではない。百九十五個の聖遺物を保有する、大陸有数の資産家だ。この『資本』を外交に使えば、戦闘を回避しつつ、あらゆる障害を突破できる」


「お前は、糞で世界を買うつもりか」


「聖遺物で世界と交渉するつもりです」


「同じことだ」


「同じではありません。交渉と購入は違います。交渉は双方にとっての利益を——」


「もういい」


 ゼノンは、手を振った。


「好きにしろ。だが、一つだけ言っておく」


「何ですか」


「お前のその肌の色と、糞を数えている姿を見れば、誰だって『大悪党』だと思う。交渉以前の問題だ」


「…………」


「見た目が、すでに犯罪的だ」


「犯罪的ではありません。カピバラ色です」


「カピバラ色の犯罪者だ」


「犯罪者ではありません」


「犯罪者だ」


「犯罪者ではありません」


 不毛な言い合いが、夜の荒野に響いた。



   ◇



 同じ頃。


 世界のどこか——地上からは見えない場所——で、一つのプログラムが起動していた。


 エラーログ。


 キウィが、無意識のうちに送信していたレポート。



 【エラー報告:ID-LEO_VAL】


 被験体レオが、非正規オブジェクト(聖遺物)を貨幣として流通させ、

 エリア内の生態系ヒエラルキーを崩壊させています。

 被験体の肌色が「癒やし」の過剰摂取により規定値を超過。

 聖遺物との共鳴能力(未実装機能)が発現。

 

 ――警告。このままでは大陸の「絶望値」が維持できません。



 このログを受信した「何か」は、面倒そうに一つのコマンドを実行した。


 それが、翌日、空から降ってくることになる「指名手配書」の自動生成プロセスだった。



   ◇



 夜。


 全員が眠りについた後、キウィだけが起きていた。


 レオの肩の上で。


「…………」


 キウィは、レオの寝顔を見ていた。


 ピンク色の肌。穏やかな寝息。


 聖遺物を抱きしめて眠っている。


「……レオ」


 小さな声で、呟いた。


「あなたのやってることは、たぶん正しい。聖遺物で交渉して、戦闘を避けて、誰も傷つけずに進む。それは、正しいことだと思う」


「…………」


「でも、この世界は……『癒やし』を許さない設計になってる。あなたが穏やかに問題を解決するたびに、世界は『絶望値が足りない』ってエラーを出す」


「…………」


「あなたが優しくなるほど、世界はあなたを排除しようとする。それが、この大陸のルール」


 キウィは、空を見上げた。


 星が、いくつか欠けていた。


 テクスチャの欠損。


 世界が、少しずつ壊れ始めている。


「……でも、私は」


 キウィは、レオの髪に顔を埋めた。


「私は、あなたの味方でいたい。報告プログラムなんかじゃなくて、あなたの翻訳者として」


 レオは、寝息を立てていた。


 聞こえていなかった。


 キウィの小さな告白は、夜の風に溶けて消えた。



【幕間】第19.5話「流通――あるいは、噛み応えがもたらす経済革命について」


――終――



【次回予告】


「……レオ。大変だよ」


「何がだ」


「あなた、指名手配されてる」


「指名手配?」


「『世界を滅ぼす大悪党』として。懸賞金がかかってる」


「なぜ俺が世界を滅ぼすことになっているんだ」


「わからない。でも、あちこちに手配書が貼られてる」


「手配書……」


「しかも、絵がすごくかわいく描かれてる。ピンク肌で、カピバラを抱いてて、笑顔で」


「……それは俺なのか」


「たぶん」


次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』


第20話「懸賞――あるいは、癒やしという名の組織犯罪について」


お楽しみに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ