第19話「狂乱――あるいは、世界一恐れを知らない者たちとの交渉について」
北への道が、塞がれていた。
狭い峡谷の入口。両側は切り立った崖。迂回は不可能。
そして、その入口に、一匹の動物が立っていた。
小さい。
体長六十センチほど。
背中は灰白色、腹部は黒色。顔にはV字型の白い模様。
短い脚。ずんぐりした体。
そして、異様に鋭い目つき。
「…………」
レオは、足を止めた。
「キウィ。あれは何だ」
「ラーテル。ミツアナグマ」
「アナグマ?」
「アナグマの仲間。だけど、普通のアナグマとは全然違う」
「どう違う」
「世界一恐れを知らない動物」
レオは、眉をひそめた。
「世界一恐れを知らない?」
「ギネスブックに載ってる——いや、この世界にギネスブックはないか。とにかく、ラーテルは『世界で最も恐れを知らない動物』として知られてる」
「どういう意味だ」
「ライオンに襲われても反撃する。ヒョウに噛まれても逃げない。コブラに噛まれても平気。毒への耐性があって、皮膚が厚くて、関節が柔らかくて、どんな体勢からでも反撃できる」
「…………」
「一度怒ると止まらない。相手がどれだけ大きくても、どれだけ強くても、絶対に退かない。そして、負けない」
※ラーテル(Mellivora capensis)は、実際に「世界で最も恐れを知らない動物」としてギネスブックに認定されている。体重は約十キログラムだが、ライオンやヒョウを撃退した記録がある。皮膚は非常に厚く弛んでおり、捕食者に噛まれても内臓に届かない。また、コブラの毒に対する耐性を持つ。
レオは、ラーテルを見つめた。
ラーテルも、レオを見つめていた。
体格差は歴然だった。
人間の騎士と、六十センチのアナグマ。
だが、ラーテルの目には、恐怖の欠片もなかった。
「……どかないな」
「どかないね」
「なぜだ」
「ここが自分の縄張りだから。入ってくるやつは、全員敵。相手が誰でも」
「俺たちも敵か」
「たぶん」
ゼノンが、前に出た。
「私が排除しよう」
「魔王様、待って」
キウィが制止した。
「ラーテルに手を出すのは危険だよ」
「危険? あの程度の小動物を」
「あの程度じゃない。ラーテルは、自分より大きな相手ほど攻撃的になる。そして、急所を狙う」
「急所?」
「睾丸」
「…………」
「ラーテルは、大型の敵と戦う時、必ず睾丸を狙う。そして、噛みちぎる」
ゼノンの顔が、引きつった。
「……噛みちぎる」
「うん。ライオンのオスでも、ラーテルに睾丸を噛みちぎられた記録がある」
「…………」
「だから、手を出さない方がいい」
ゼノンは、黙って後退した。
フェリクスが、猫耳をぴくりと動かした。
「……魔王様。戦略的撤退ですか」
「黙れ」
◇
一行は、ラーテルの前で立ち往生していた。
進めない。
戻れない——いや、戻れるが、大幅な迂回になる。
「……どうする」
レオが、キウィに聞いた。
「交渉するしかない」
「交渉? 動物と?」
「私がいれば、できる」
キウィは、レオの肩から飛び立った。
ラーテルの前に、降り立った。
「…………」
ラーテルが、キウィを見た。
小さな鳥と、小さなアナグマ。
体格は、ほぼ同じくらいだった。
「……キウィ、大丈夫か」
「大丈夫。たぶん」
キウィは、ラーテルに話しかけた。
動物の言葉で。
レオには、聞こえなかった。
だが、ラーテルは聞いていた。
そして、答えた。
低い、唸るような声で。
「…………」
キウィが、レオの方を振り返った。
「レオ。交渉の条件が出た」
「条件?」
「ラーテルは、ここを通してもいいと言ってる。ただし、対価が必要」
「対価? 何を要求している」
「おもちゃ」
「……おもちゃ?」
「噛み応えのあるおもちゃが欲しいって。ラーテルは、硬いものを噛むのが好きなの。でも、この辺りには適当なものがない」
「硬いもの……」
レオは、自分の袋を見た。
百九十八個の聖遺物が入った袋を。
「……まさか」
「うん。聖遺物がいいって」
「聖遺物を要求しているのか」
「正確には、『あの茶色くて四角い、硬そうなやつ』を要求してる。ラーテルには聖遺物の概念はない」
「…………」
レオは、葛藤した。
聖遺物を渡すか、渡さないか。
大切な聖遺物。百九十八個の宝。
だが、ここを通れなければ、北へ進めない。
「……何個要求している」
「三個」
「三個……」
「三個渡せば、通してくれるって」
レオは、袋に手を入れた。
聖遺物に触れた。
情報が流れ込んできた。
「『硬度3.8、密度1.6、五ヶ月前、メス』……これは保存用だな。投擲には向かない」
取り出した。
「『硬度3.7、密度1.5、六ヶ月前、オス』……これも保存用」
取り出した。
「『硬度3.9、密度1.7、四ヶ月前、メス』……これも保存用」
取り出した。
三個の聖遺物を、手のひらに乗せた。
「……これを渡す」
「いいの?」
「いい。保存用だ。投擲には向かない品質。おもちゃにするには、ちょうどいいだろう」
レオは、三個の聖遺物をキウィに渡した。
キウィは、それをラーテルの前に置いた。
ラーテルが、聖遺物を嗅いだ。
そして、一個を口に咥えた。
ガリッ。
噛んだ。
ラーテルの目が、輝いた。
「…………」
「気に入ったみたい」
「気に入ったか」
「うん。『最高の噛み応えだ』って。こんなに良い歯応えのおもちゃは初めてだって」
「…………」
レオは、複雑な表情をした。
自分の聖遺物が「おもちゃ」として評価されている。
嬉しいような、悲しいような。
ラーテルは、三個の聖遺物を全て咥えて、脇にどけた。
そして、道を開けた。
「……通っていいみたい」
「通っていいのか」
「うん。取引成立」
レオは、ラーテルを見た。
ラーテルも、レオを見た。
そして、小さく唸った。
キウィが翻訳した。
「『また来い。もっと持ってこい』って」
「……リピーターを求めているのか」
「みたいだね」
「…………」
レオは、ラーテルの横を通り過ぎた。
一行も、続いた。
ゴートが通る時、ラーテルは少しだけ道を広げた。
ゴートには、敬意を払っているようだった。
「ぬ」
ゴートが鳴いた。
ラーテルが、小さく唸り返した。
何かの挨拶だったのかもしれない。
◇
峡谷を抜けた後、レオは聖遺物を数え直した。
「百九十五個。三個減った」
「仕方ないよ。通行料だと思えば」
「通行料か……」
「でも、投擲用は減ってないでしょ?」
「減っていない。百二十三個、そのまま」
「なら、いいじゃん」
「いいのか……」
レオは、袋を見つめた。
三個減った。
だが、戦力は維持されている。
「……そうだな。いいのかもしれない」
「うん」
「必要な時に、必要なものを、必要な相手に渡す。それも、聖遺物の使い方だ」
「そうだね」
「ラーテルは、聖遺物を『最高の噛み応えのおもちゃ』と評価した」
「うん」
「それは、聖遺物の新しい価値だ。投擲武器でもなく、コレクションでもなく、おもちゃとしての価値」
「……レオ、ポジティブすぎない?」
「ポジティブではない。事実を述べている」
「…………」
キウィは、何も言わなかった。
レオが幸せなら、それでいい。
聖遺物がおもちゃになっても、幸せなら、それでいい。
◇
その夜、野営地で。
レオは、残りの聖遺物を並べていた。
百九十五個。
「三個減ったが、まだ百九十五個ある」
「うん」
「投擲用が百二十三個、保存用が六十四個、切り札用が八個」
「保存用が三個減ったんだね」
「そうだ。保存用は、今後もこういう交渉に使えるかもしれない」
「交渉用ストックってこと?」
「そうだ。戦闘ではなく、交渉で使う聖遺物。新しいカテゴリだ」
レオは、聖遺物を分類し直した。
投擲用、切り札用、そして交渉用。
「……聖遺物の用途が、広がっている」
「広がってるね」
「俺は成長している」
「……してるのかな」
「している。間違いない」
レオの目は、真剣だった。
ピンク色の肌で、聖遺物を並べながら、真剣に成長を語っている。
狂気と正気の境界線が、どんどん曖昧になっていた。
◇
遠くの丘で、カインが見ていた。
「……あいつ、ラーテルに糞を渡して通行許可を得やがった」
機械化ハシビロコウが、首を傾げた。
「ラーテルにも臆せず交渉するのか。度胸だけは認める」
カインは、レオを見つめた。
「だが、あいつは変わりつつある。肌がピンクになって、糞と話せるようになって……人間じゃなくなりつつある」
機械化ハシビロコウが、動かない目でレオを見た。
「……俺の魔王様は、あいつをどうするつもりなんだろうな」
答えは、なかった。
カインは、闇の中に消えた。
第19話「狂乱――あるいは、世界一恐れを知らない者たちとの交渉について」
――終――
【次回予告】
「……魔王殿。明日から、我々の旅の方針を変更する」
「何をする気だ」
「聖遺物を背景とした、経済外交だ」
「経済外交?」
「ラーテルとの取引で、聖遺物の交換価値が確定した。保存用一個につき、峡谷の通行権に相当する。つまり、この袋の中には——」
「やめろ。その先を言うな」
「——小国の国家予算に匹敵する交渉力が詰まっている」
「言ったな……」
次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』
【幕間】第19.5話「流通――あるいは、噛み応えがもたらす経済革命について」
お楽しみに。




