第16話「投擲――あるいは、聖遺物という名の運動エネルギーについて」
三日が経った。
一行は北へ進み続けていた。
黒い平原を抜け、荒野を越え、岩場を登り、また荒野を歩いた。
カインは姿を見せなかった。
だが、レオには感じられた。
視線。
丘の影から。岩の陰から。地平線の向こうから。
誰かが、ずっと見ている。
「……また見られてる」
「うん」
キウィが、低い声で答えた。
「カインだね。ずっとついてきてる」
「なぜ襲ってこない」
「わからない。でも、何かを待ってるんだと思う」
「何を」
「……たぶん、ゴートが動くのを」
レオは、ゴートを見た。
ゴートは、いつもと変わらず歩いていた。
半開きの目。虚無の表情。時速三キロの巡航速度。
子カピバラたちが、その後を追っている。
ナマケモノが、ゴートの背中に乗っている。
クオッカが、子カピバラの群れの中に紛れている。
平和な光景だった。
だが、その平和の外側に、影が張り付いていた。
◇
四日目の夕方。
一行が岩陰で休憩を取っていた時、それは起きた。
カインが、姿を現した。
正面から。
堂々と。
機械化ハシビロコウを連れて。
「よう、団長」
カインの声は、軽かった。
三日前の警告の時とは、違う調子。
嘲笑が、混じっていた。
「……また来たか」
レオは、聖剣の柄に手をかけた。
「言っただろう。次に会う時は『処理』すると」
「ああ、言った。でも、その前に一つ聞きたいことがあってな」
カインは、レオの背負い袋を見た。
「それ、まだ持ち歩いてるのか」
「…………」
「ウォンバットの糞。あんたが『聖遺物』と呼んでる、あれ」
レオの手が、背負い袋を掴んだ。
「聖遺物だ」
「糞だろ」
「聖遺物だと言っている」
「団長。俺は、あんたの部下だった」
カインの声が、少しだけ真剣になった。
「三年間、一緒に戦った。あんたの剣技を見てきた。あんたの指揮を見てきた。あんたは、本物の騎士だった」
「…………」
「それが今、何をしてる? 動物の糞を集めて、洗って、並べて、『聖遺物』と呼んでる。正気か?」
「正気だ」
「正気じゃねえよ」
カインが、一歩近づいた。
「あんたは壊れてる。記憶を失って、目的を失って、自分を保つために糞にすがってる。それを『聖遺物』と呼ぶことで、自分を騙してる」
「黙れ」
「黙らねえよ。俺は、あんたに本当のことを言う義務がある。部下として」
「お前は、もう俺の部下じゃない」
「ああ、そうだな。今は別の主に仕えてる。でも、だからこそ言える」
カインが、レオの目を見た。
「団長。その袋の中身は、ただの汚物だ」
「…………」
「聖なんかじゃない。遺物でもない。ウォンバットの、糞だ。あんたが何と呼ぼうと、それは変わらない。糞は糞だ。いくら洗っても、いくら並べても、いくら名前をつけても——」
「黙れと言っている」
レオの声が、低くなった。
「——それは、ただの、汚物だ」
カインが、笑った。
嘲笑。
純粋な、嘲笑。
「団長。いい加減、目を覚ませ。あんたが大事にしてるのは、動物の排泄物だ。それを抱えて旅をして、それを守るために命を賭けて——馬鹿じゃねえのか?」
レオの中で、何かが切れた。
◇
レオは、背負い袋に手を入れた。
聖遺物を、一つ掴んだ。
ウォンバットの糞。
キューブ状。硬い。角が立っている。
レオが丁寧に洗浄し、乾燥させ、保存してきた、聖なる遺物。
それを、握りしめた。
「……団長?」
カインが、怪訝な顔をした。
「何を——」
レオの腕が、振りかぶった。
そして、投げた。
全力で。
聖遺物が、カインの顔面に向かって飛んだ。
キューブ状の物体。角が立っている。硬い。
投擲武器として見れば、それなりに有効な形状だった。
カインは、反射的に顔を庇った。
聖遺物が、カインの腕に当たった。
鈍い音がした。
「っ——!」
カインが、よろめいた。
思った以上に、衝撃があった。
「……何しやがる」
「汚物だと言ったな」
レオは、二個目の聖遺物を掴んだ。
「汚物だと。糞だと。馬鹿だと」
「団長、待て——」
二個目が、飛んだ。
カインが避けた。
聖遺物は、カインの横を通り過ぎ、後ろの岩に当たって砕けた。
「聞けよ、話を——」
三個目。
「待て——」
四個目。
「落ち着け——」
五個目。
レオは、聖遺物を投げ続けた。
一個、また一個。
カインに向かって。
「これが汚物か!」
投げた。
「これが糞か!」
投げた。
「これが馬鹿のすることか!」
投げた。
「俺の聖遺物を——俺の宝を——俺の心の支えを——汚物と呼ぶな!!」
レオの目に、涙が浮かんでいた。
怒りの涙。
悔しさの涙。
そして、何かを守ろうとする、必死さの涙。
カインは、聖遺物の雨を避けながら、後退していた。
機械化ハシビロコウが、カインを庇うように前に出た。
聖遺物が、ハシビロコウの金属フレームに当たって弾かれた。
だが、レオは投げるのをやめなかった。
「六個! 七個! 八個! 九個! 十個!」
カウントしながら投げた。
「これが俺の武器だ! これが俺の誇りだ! これが——」
十一個目を投げようとした時、レオの手が空を掴んだ。
袋が、空になっていた。
「…………」
レオは、空の袋を見下ろした。
聖遺物が、全部なくなっていた。
十個全部、カインに向かって投げてしまった。
「…………あ」
我に返った。
足元を見た。
聖遺物が、散乱していた。
砕けたもの。転がっているもの。岩に当たって欠けたもの。
レオが丁寧に収集し、洗浄し、分類し、保管してきた聖遺物が、無残な姿で散らばっていた。
「…………」
レオの顔から、血の気が引いた。
「……俺の、聖遺物……」
◇
カインは、岩陰に隠れていた。
聖遺物の雨が止んだことを確認して、顔を出した。
「……終わったか」
「…………」
レオは、膝をついていた。
散らばった聖遺物を、一つ一つ拾い集めていた。
「ああ……砕けてる……これは欠けてる……こっちは傷が……」
涙声だった。
「何で投げたんだ俺は……何で……」
ゼノンが、呆れた顔で見ていた。
「……お前は、自分で自分の聖遺物を破壊したぞ」
「わかってます……わかってますけど……止まらなかったんです……」
「止まらなかった?」
「カインが……汚物って……言うから……」
「だから投げたのか」
「だから投げました……」
「…………」
ゼノンは、額に手を当てた。
「……お前の行動原理は、私には理解できん」
フェリクスが、聖遺物を一つ拾い上げた。
「……これ、意外と硬いですね」
「モース硬度四から五だ。石英より柔らかいが、蛍石より硬い」
「投擲武器としては、それなりに有効な硬度ですね」
「投擲武器じゃない。聖遺物だ」
「でも、今投げましたよね」
「投げた……投げてしまった……」
レオは、崩れ落ちた。
カインが、岩陰から出てきた。
警戒しながら。
「……団長。一つ聞いていいか」
「…………」
「今の、本気だったのか」
「本気だった」
「俺を、糞で攻撃しようとしたのか」
「聖遺物だ」
「いや、糞だろ」
「聖遺物だと言っている!!」
レオが叫んだ。
カインは、一歩後退した。
「……わかった、わかった。聖遺物だ。聖遺物でいい」
「よくない! お前が汚物と言ったから、俺は全部投げてしまった! 責任を取れ!」
「責任?」
「新しい聖遺物を調達する手伝いをしろ!」
「嫌だよ」
「副官だろう!」
「元副官だ。今は別の主に仕えてる」
「知るか! お前のせいで俺の聖遺物が! 十個が! 全部が!」
レオは、地面を叩いた。
子供のように。
キウィが、レオの肩に降りた。
「……落ち着いて、レオ」
「落ち着けるか! 俺の聖遺物が……俺の宝が……」
「拾えば、また使えるよ。砕けたのは三個だけ。残りの七個は無事」
「……本当か」
「本当。ほら、これとこれとこれ。ちょっと傷がついてるけど、形は保ってる」
レオは、キウィが示す聖遺物を見た。
確かに、七個は原形を留めていた。
「……七個……」
「うん。七個は助かった」
「……七個……」
レオの目に、光が戻った。
「七個あれば……まだ……」
「まだ大丈夫。ゼロじゃない」
「ゼロじゃない……」
レオは、聖遺物を抱きしめた。
七個の、生き残った聖遺物を。
泣きながら。
◇
カインは、その光景を見ていた。
元上官が、動物の糞を抱きしめて泣いている光景を。
「…………」
言葉が、出なかった。
「……団長」
「なんだ」
「俺は、今日のところは引く」
「逃げるのか」
「逃げるんじゃない。……なんか、攻撃する気が失せた」
「失せた?」
「ああ」
カインは、頭を掻いた。
「俺は、あんたを『処理』しに来た。俺の魔王様の命令で。でも、今のあんたを見てたら……なんか……」
「なんだ」
「……可哀想になってきた」
「…………」
「だから、今日は帰る。また来る」
カインは、背を向けた。
機械化ハシビロコウが、カインの後に続いた。
「待て、カイン」
「何だ」
「お前、次に来る時は……」
「ああ」
「聖遺物を、汚物と呼ぶな」
「…………」
「呼んだら、また投げる」
カインは、振り返らなかった。
だが、声だけが返ってきた。
「……わかった。聖遺物と呼ぶ」
そして、霧の中に消えていった。
◇
カインが去った後、レオは聖遺物を数え直していた。
「一、二、三、四、五、六、七……七個だ」
「うん。七個」
「三個失った……」
「でも、七個残った」
「七個……」
レオは、聖遺物を袋に戻した。
大切に。
丁寧に。
「……キウィ」
「なに」
「俺は、間違っていたのか」
「何が」
「聖遺物を、投げたこと」
キウィは、少し考えた。
「……間違ってない、と思う」
「本当か」
「うん。レオは、自分の大切なものを守ろうとした。それは、間違ってない」
「でも、投げた結果、三個壊れた」
「壊れた。でも、カインは引いた」
「引いた……」
「投げたから、カインは引いたんだよ。レオの怒りが、本気だってわかったから」
「…………」
「だから、間違ってない」
レオは、空を見上げた。
夕焼けが、荒野を赤く染めていた。
「……キウィ」
「なに」
「聖遺物を、補充しないと」
「うん」
「七個じゃ、足りない」
「うん」
「もっと集めないと」
「……どこで?」
「わからない。でも、探す」
レオの目に、決意が宿っていた。
「聖遺物を。もっと。たくさん」
ゼノンが、ため息をついた。
「……また糞集めか」
「聖遺物集めです」
「同じことだ」
「同じじゃありません。聖遺物です。俺の宝です。俺の武器です」
「武器……」
ゼノンは、レオを見た。
「お前、さっき投げていた時、なかなかの速度が出ていたぞ」
「速度?」
「カインが避けるのに苦労していた。あの投擲精度は、素人のものではない」
「俺は騎士団長だった。投擲訓練も受けている」
「つまり、お前は聖遺物を武器として使えるということだ」
「武器として……」
レオは、袋の中の聖遺物を見た。
七個の、キューブ状の物体。
硬い。角がある。投げやすい形状。
「……聖遺物は、投擲武器になる」
「そうだ」
「俺の聖遺物は、攻撃手段になる」
「そうだ」
「つまり……」
レオの目が、輝いた。
「……聖遺物は、聖なる遺物であると同時に、聖なる武器でもある」
「そこまでは言っていない」
「聖なる投擲武器。ホーリー・プロジェクタイル」
「待て」
「聖遺物投擲術。セイクリッド・スロー」
「待て」
「これは……新しい戦術の誕生だ……」
「待て。私はそこまで言っていない」
レオは、聖遺物を一つ取り出した。
構えた。
投擲のフォームで。
「……よし。投げる練習をしよう」
「するな」
「なぜ」
「残り七個しかないのに、練習で使ってどうする」
「…………」
レオの手が、止まった。
「そうだ……残り七個……」
「そうだ」
「練習できない……」
「そうだ」
「補充しないと……」
「そうだ」
レオは、聖遺物を袋に戻した。
「……聖遺物を、探しに行かないと」
「好きにしろ」
「ゴート様。北に、ウォンバットはいますか」
「ぬ」
「いるんですね」
「ぬ」
「行きましょう。聖遺物の補充に」
レオは、立ち上がった。
北を向いた。
聖遺物を求めて。
新たな旅が、始まろうとしていた。
第16話「投擲――あるいは、聖遺物という名の運動エネルギーについて」
――終――
【次回予告】
「……何だ、ここは」
「市場だね。闇市」
「闘市? 闇の市?」
「魔族や魔物が、非合法な品物を取引する場所。ここなら、何でも手に入る」
「何でも?」
「うん。何でも」
「……聖遺物も?」
「…………」
「キウィ?」
「……あるよ。あそこの店。見て」
「『ウォンバットの糞 高価買取・販売』……?」
「…………」
「聖遺物の、再販市場……だと……?」
次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』
第17話「市場――あるいは、糞の価値が暴騰する日について」
お楽しみに。




