【幕間】第15.5話「帰還――あるいは、犬と猫の停戦協定について」
地下施設を出ると、空が赤かった。
夕焼け。
地下にいる間に、半日以上が経過していたらしい。
一行は、来た道を戻り、ベンチの並ぶ黒い平原——レオが「バス停」と呼んでいる場所——に帰還した。
「……疲れた」
レオは、ベンチに腰を下ろした。
ゴートも、ベンチの横に座った。香箱座りで。茶色い餅が、夕日に照らされている。
子カピバラたちは、ゴートの周囲に団子状に固まった。十二匹の小さな餅が、大きな餅を囲んでいる。
ナマケモノは、ベンチの背もたれによじ登り、逆さまにぶら下がった。ゆっくりと。五分かけて。
フェリクスは、ベンチの端に座った。猫座りで。膝の上に子カピバラが一匹乗っている。
ゼノンだけが、立っていた。
「……座らないのですか、魔王様」
「座らん」
「もう意地を張らなくても」
「意地ではない。私が座ると、このベンチが『魔王の玉座』として登録される可能性がある。そうなると、城の玉座との二重登録で行政上の問題が発生する」
「…………」
「冗談だ」
「冗談に聞こえませんでした」
キウィは、ベンチの上に降り立った。
レオの肩ではなく、ベンチの端。
少しだけ、距離を置いていた。
◇
「そういえば、フェリクス」
レオが思い出したように言った。
「城の様子はどうなっている。お前が脱出してから、何か変化はあったのか」
「ああ、それですが」
フェリクスの猫耳が、ぺたんと寝た。
「最悪です」
「最悪?」
「犬が玉座に座ったまま動きません」
「それは前から聞いている」
「いえ、状況が進化しました」
フェリクスは、遠い目をした。
「犬の周囲に、猫が三匹集まっています」
「……猫? 城に猫はいなかったはずだが」
「野良です。どこからか侵入してきた野良猫が、犬の体温に引き寄せられて、玉座の周囲で丸くなっています」
「…………」
「兵士たちは、その光景を『神聖なる共存』と呼んで崇めています」
ゼノンの額に、青筋が浮かんだ。
「……神聖なる共存」
「はい。犬と猫が同じ空間で平和に共存している様子を、兵士たちは『奇跡』と解釈しました。現在、玉座の間は『聖域』として立ち入りが制限されており、一日三回の『お参り』が義務化されています」
「誰が義務化した」
「兵士たちが自主的に」
「…………」
「お参りの内容は、『犬の腹を三回撫でる』『猫の顎を三回撫でる』『玉座に向かって一礼する』です。所要時間は一人あたり約十五分。待ち時間を含めると、兵士一人あたり一日二時間がお参りに消費されています」
「軍事訓練は」
「ありません」
「巡回は」
「ありません」
「食事の配給は」
「犬と猫への配給は完璧です。兵士への配給は『各自で何とかしろ』になっています」
「…………」
ゼノンは、深く、長く、息を吐いた。
「……フェリクス」
「はい」
「城は、もう駄目だな」
「はい。完全に駄目です」
「お前が戻っても、状況は改善しないな」
「しません。私が戻った瞬間、『猫族の代表が帰還した』として、お参りの対象に追加される可能性が高いです」
「…………」
「私の顎を撫でる列ができます」
「想像したくない」
レオが口を挟んだ。
「魔王殿。城を放棄するのですか」
「放棄ではない。戦略的保留だ。犬と猫の停戦協定が自然消滅するまで、介入を控える」
「自然消滅するのですか」
「わからん。だが、介入すれば悪化する。それだけは確かだ」
ゼノンは、夕焼けを見上げた。
「……八百年かけて築いた魔王城が、犬と猫に乗っ取られるとはな」
「乗っ取られたのではなく、平和的に移譲されたのでは」
「黙れ」
◇
夕日が沈み始めた。
空が、赤から紫に変わっていく。
レオは、背負い袋から聖遺物を取り出した。
ウォンバットの糞。
カインに「ただの排泄物だ」と言われた、あれ。
レオは、糞を手のひらに乗せ、じっと見つめた。
「……どうしたの」
キウィが聞いた。
「いや」
レオは、糞を袋に戻した。
「カインの言ったこと、考えていた」
「気にしてるの?」
「気にしていない。……いや、気にしている」
「…………」
「だが、間違っていることは確かだ」
「なにが?」
「聖遺物は、ただの糞じゃない。……いや、糞だ。糞だが、俺にとっては意味がある」
レオは、夕焼けを見上げた。
「王国が滅びて、騎士団が壊滅して、仲間が全員いなくなった後、俺は何も持っていなかった。記憶も、目的も、生きる理由も。全部、霧の中だった」
「…………」
「でも、ゴート様に会って、ウォンバットの糞を拾って、それを洗って、並べて、名前をつけて。そうしているうちに、俺は『やること』ができた。やることがあると、人間は生きていける」
「……うん」
「だから、これは聖遺物だ。俺にとっては。カインが何と言おうと」
キウィは、何も言わなかった。
しばらく、沈黙が続いた。
それから、キウィは小さく言った。
「……知ってる」
「え?」
「レオがそういう人だってこと。知ってる」
「…………」
「だから、大丈夫。折れないでしょ、レオは」
レオは、キウィを見た。
キウィは、夕焼けの方を見ていた。
小さな体が、赤い光に照らされている。
「……キウィ」
「なに」
「お前は、カインを知っているのか」
キウィは、答えなかった。
長い沈黙。
夕日が、地平線に沈んでいく。
「…………」
「……キウィ?」
「……ごめん。今は、答えられない」
キウィは、飛び立った。
ベンチの上から、夕焼けの空へ。
高く。
レオの手が届かない高さへ。
また、逃げた。
レオは、その背中を見送った。
◇
夜になった。
星が出た。
一行は、ベンチの周囲で眠りについた。
ゴートは香箱座りのまま、目を閉じた。
子カピバラたちは、ゴートの周囲で団子になった。
ナマケモノは、ベンチの背もたれで逆さまのまま、眠った。ナマケモノは一日二十時間眠るので、これが通常営業だった。
フェリクスは、ベンチの端で丸くなった。猫の習性で、端っこが落ち着くらしい。
ゼノンは、ベンチに背を預けて立ったまま、目を閉じた。魔王は座らない。最後の矜持だった。
レオは、ゴートの横に座り、背中を預けた。
温かかった。
聖遺物よりも、記憶よりも、温かかった。
キウィは、いつの間にか戻ってきていた。
レオの肩ではなく、ゴートの背中の上に。
小さな体が、茶色い毛の中に沈んでいる。
眠っているのか、起きているのか、わからなかった。
レオは、目を閉じた。
明日は、また歩く。
カインがどこにいるのか。もう一人の「魔王様」が何者なのか。この世界が本当に終わるのか。
答えは、まだない。
だが、今夜は眠れる。
ゴート様の横で。
仲間たちと一緒に。
それだけで、十分だった。
【幕間】第15.5話「帰還――あるいは、犬と猫の停戦協定について」
――終――
【次回予告】
「よう、団長」
「……カイン」
「また会ったな。言っただろう、次は『処理』すると」
「ああ。で、その前に一つ聞きたい。お前はまだ、俺の聖遺物を『汚物』と呼ぶのか」
「呼ぶに決まってるだろう。それはただの糞だ」
「…………」
「団長。いい加減、目を覚ませ。あんたが大事にしてるのは、動物の排泄物だ」
「……ッ——言うな」
「糞は糞だ。いくら洗っても、いくら並べても——ただの、汚物だ」
「黙れェェェェ!!」
次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』
第16話「投擲――あるいは、聖遺物という名の運動エネルギーについて」
お楽しみに。




