第15話「相対――あるいは、最遅の者が創り出す絶対空間について」
カインが消えた後、一行は地下施設の探索を続けた。
ラグ空間を抜け、通常の時間が流れるエリアに戻ると、壁に何かが貼られているのが見えた。
紙。
黄ばんで、端が破れかけているが、まだ読める状態の紙。
レオは近づいた。
聖遺物の緑色の光で照らす。
文字が浮かび上がった。
【重要なお知らせ】
ご利用いただいておりました当サービスは、
運営方針の変更により、まもなく終了いたします。
長らくのご愛顧、誠にありがとうございました。
※データの引き継ぎは行われません。
※払い戻しには応じかねます。
——運営
「…………」
レオの顔が、青ざめた。
「……サービス終了」
「なに?」
「サービス終了のお知らせだ。この世界の運営が、サービスを終了すると告知している」
「レオ。それはただの古い張り紙で——」
「おい運営!!」
レオが叫んだ。
壁に向かって。
誰もいない壁に向かって。
「まだコンプリートしてないぞ!! 聖遺物の洗浄も、子カピバラたちの個体識別登記も、まだ申請の途中だ!! 事前告知なしの強制終了は利用規約違反だろう!!」
「レオ。落ち着け」
「落ち着けるか!! この世界が終わったら、ゴート様はどうなる!? 子カピバラたちはどうなる!? 俺の聖遺物コレクションはどうなる!?」
「聖遺物コレクションはウォンバットの糞だ。終わっても問題ない」
「問題ある!! あれは俺が一つ一つ丁寧に洗浄して、モース硬度で分類して、格子状に配置した神聖な——」
「落ち着け、飼育係」
ゼノンが、レオの肩を掴んだ。
「行政手続法を異世界に持ち込むな。それは単なる古い張り紙だ。この施設が稼働していた時代の、何かの告知の残骸だろう」
「ですが——」
「待て」
ゼノンの目が、張り紙の下部に向いた。
手書きの文字が追加されていた。
赤い顔料。荒い筆跡。
改札口の壁で見たものと、同じ筆跡。
『もう手遅れだ。——カイン』
「……カインの署名がある」
レオの声が、低くなった。
「あいつが、この告知に追記している」
ゼノンが張り紙に手を触れた。
魔力が、かすかに反応した。
「……この追記は、ただの落書きではない。この施設の基盤システム——お前の言葉で言えば『カーネル』か——に近い階層から発信された情報を、書き換えた形跡がある」
「書き換えた?」
「元の告知は、この施設の自動システムが生成したものだ。だが、カインはそれに上書きで追記した。この世界の基盤に、外部から干渉できる権限を持っているということだ」
「……あいつは、運営側の人間なのか」
「わからん。だが、少なくとも、私よりも深い階層にアクセスできる」
レオは、張り紙をもう一度見た。
『もう手遅れだ』
何が手遅れなのか。
この世界の終了が?
レオの記憶の回復が?
それとも、別の何かが?
◇
一行は、ラグ空間を迂回して進むことにした。
あの空間を通過するには時間がかかりすぎる。別のルートを探す方が効率的だった。
だが、ナマケモノがついてきた。
天井の配管をゆっくりと移動しながら、一行の後を追っている。
一分間に二メートルの速度で。
「……あのナマケモノ、ついてきてるね」
「ついてきている、というより、たまたま同じ方向に移動しているだけでは」
「いや、明らかに追跡してる。ゴートの方を見てる」
ナマケモノの目が、確かにゴートを追っていた。
半開きの、穏やかな目。
だが、その視線には、何かの意図があるように見えた。
レオの騎士脳が、回転した。
「……あのナマケモノは、ゴート様を認識している」
「認識?」
「ラグ空間で、ゴート様だけが通常速度で動けた。それを見ていた。だから、ゴート様に興味を持っている」
「興味というか……」
キウィが首を傾げた。
「……同類だと思ってるのかも」
「同類?」
「ナマケモノにとって、世界はいつもスローモーション。ゴートにとって、世界は何があっても変わらない虚無。二人とも、『世界のテンポに合わせない』という点では同じ」
「…………」
ナマケモノが、配管から手を離した。
ゆっくりと。
五秒前に動き始めた腕が、ようやく完全に配管から離れた。
落下が始まった。
スローモーション。
だが、今回は違った。
ナマケモノの体の周囲に、何かが発生していた。
空気の歪み。光の屈折。
ラグ空間で見たものとは、逆の現象。
ナマケモノが落下する軌道の周囲、半径三メートルほどの空間が——滑らかになった。
「……何だ、これは」
フェリクスが、猫の目を見開いた。
「私の演算速度が……上がっている?」
「上がってる。というか、元に戻ってる。いや、元以上に……」
キウィが翼を広げた。
羽ばたきが、いつもより軽い。
「……ラグが消えてる。ナマケモノの周囲だけ、ラグが完全にゼロになってる」
「ゼロ?」
「いや、ゼロ以下。マイナスラグ。処理速度が、通常よりも速くなってる」
ナマケモノは、ゆっくりと床に着地した。
着地の瞬間、周囲の空間が波打った。
そして、ゴートの横に、ゆっくりと歩み寄った。
一分間に二メートルの速度で。
だが、ゴートの周囲三メートルに入った瞬間——空間が安定した。
完全に。
揺らぎなく。
ラグ空間でさえゴートは通常速度だった。だが今、ゴートの周囲は「通常以上」の滑らかさで動いていた。
フェリクスが、声を震わせた。
「……わかりました。ナマケモノが『遅延』を自らに固定したんです」
「固定?」
「あのナマケモノは、ラグ空間で長時間を過ごすうちに、『遅さ』を自分の属性として取り込んだ。今、その『遅さ』を外部に放出するのをやめ、自分の内部に閉じ込めている。結果、周囲の空間からラグが消失した」
「…………」
「外部ブースターです。ナマケモノを外部装置として接続し、エリア内の処理負荷をナマケモノ自身に押し付けることで、周囲の演算速度を最適化した」
フェリクスの猫耳が、ぴんと立った。
「ゴート様——オーバークロックを開始したんですね。処理速度が……通常の三倍、推定、に跳ね上がっています」
「三倍?」
レオがゴートを見た。
ゴートは、いつもと変わらなかった。
半開きの目。虚無の表情。
ナマケモノが横にいることを、特に気にしていないようだった。
ナマケモノも、ゴートの横にいることを、特に気にしていないようだった。
二匹の「世界のテンポに合わせない」動物が、並んでいる。
一匹は最遅。一匹は虚無。
その二匹が重なった空間は、この世界のルールから完全に切り離された「絶対空間」になっていた。
「……ラグ・キャンセラー」
レオが、名付けた。
「ナマケモノが自身に遅延を固定することで、周囲の遅延を相殺する。最遅の存在が、逆説的に、最速の空間を生み出す。これが——絶対空間」
「ナマケモノが遅いから周りが速く感じるだけだよ」
「違う。相対性だ。ナマケモノが『遅さ』の基準点になることで、それ以外の全てが相対的に『速く』なる。アインシュタインが聞いたら泣いて喜ぶ」
「アインシュタインって誰」
「……わからない。今、口から出た。知らない名前なのに、知っている名前だ」
レオは、また一つ、記憶の霧の向こうから言葉を拾った。
アインシュタイン。相対性。
この世界の言葉ではない。だが、レオの中にある。
◇
絶対空間の中を歩いていると、体が軽かった。
思考が速い。反射が鋭い。動作に淀みがない。
まるで、世界の方がレオに合わせているような感覚。
「……この空間にいる間は、戦闘力が上がるな」
ゼノンが言った。
「私の魔力展開速度も、通常の一・五倍ほどに上昇している。ナマケモノが『遅延吸収装置』として機能している以上、この空間内ではあらゆる行動が最適化される」
「ゴート様の周囲にいれば、常にこの状態を維持できるということですか」
「理論上は。だが、ナマケモノの『容量』に限界があるはずだ。吸収できる遅延量を超えれば、効果は薄れる」
ナマケモノは、ゴートの横を歩いていた。
一分間に二メートルの速度で。
だが、ゴートも急いでいなかった。
二匹は、同じ速度で歩いていた。
最遅と虚無が、並んで歩いている。
奇妙に、美しい光景だった。
◇
通路の先に、広い空間があった。
地下駐車場の跡地のようだった。コンクリートの柱が等間隔に並び、天井は低く、床には白い線で区画が引かれている。
そして、霧が出ていた。
地下なのに、霧。
配管から漏れ出した水蒸気か、あるいは別の何かか。
視界が悪い。
「……警戒しろ」
ゼノンが、低い声で言った。
「敵がいる」
フェリクスの猫耳が、ぴくりと動いた。
「……気配を感知。前方三十メートル。人型、一体。そして——」
フェリクスの声が、震えた。
「——鳥型、一体。動いていません」
霧の奥から、影が現れた。
長身。痩せ型。右頬の古い刀傷。
カイン。
そして、その横に。
銀色の光を反射する、巨大な鳥。
機械化ハシビロコウ。
金属のフレームが翼を支え、歯車が関節を補強し、首の後ろには細い管が走っている。
そして——動かない。
完全に、動かない。
瞬きすらしない。
第7話で出会った野生のハシビロコウは、三時間動かなかった。だが、あれは「動かないことを選んでいる」動物だった。
この機械化ハシビロコウは違う。
動かないのではなく、「動くことを禁じられている」ように見えた。
レオの背筋に、冷たいものが走った。
「……カイン。また会ったな」
「ああ。今度は警告に来た」
カインの声は、低かった。
さっきの軽さがない。
「団長。そのカピバラを連れていても、もう未来はありませんよ」
「未来がない?」
「この世界は終わる。サービス終了の告知、見たでしょう。あれは冗談じゃない。俺の魔王様は『外』に脱出するつもりだ。そのためには、あのカピバラが邪魔なんだ」
カインの目が、ゴートに向いた。
「あのカピバラは、この世界のルールに縛られていない。削除できない。定義できない。ラグも効かない。俺の魔王様の計画にとって、最大のイレギュラーだ」
「だから、ゴート様を排除すると?」
「排除じゃない。説得だ」
カインが、レオの背負い袋を指差した。
「……まだそんなものを集めているのですか」
「そんなもの?」
「その『石』をいくら洗っても、王国は戻りません。それはただの、ウォンバットの排泄物だ」
レオの手が、震えた。
「……聖遺物だ」
「違う。糞だ。あんたは、ウォンバットの糞を集めて、洗って、並べて、『聖遺物』と呼んでいる。そうしないと、正気を保てないから」
「黙れ」
「王国は滅びた。騎士団は壊滅した。あんたの仲間は、俺以外、全員死んだ。それが現実だ。あんたは、その現実から逃げるために——」
「黙れと言っている」
レオの声が、低くなった。
手が、聖剣の柄にかかった。
「……俺がゴート様に仕えているのは、逃げているからじゃない。ゴート様が、俺を救ってくれたからだ」
「救った? あのカピバラは何も救っていない。ただそこにいただけだ」
「…………」
「それでいいなら、好きにしろ。だが、覚えておけ。この世界が終わる時、あのカピバラは何もしない。何も言わない。ただ、そこにいるだけだ。それでも、あんたはついていくのか?」
レオは、答えなかった。
答えの代わりに、聖剣を抜いた。
「……お前の『正しさ』を、俺が否定してやる」
カインは、笑わなかった。
「……変わらないな、団長」
カインが、背を向けた。
「今日はここまでだ。次に会う時は——」
機械化ハシビロコウが、動いた。
首だけが。
ゆっくりと、レオの方を向いた。
金属のフレームに囲まれた目が、レオを見た。
動かない目。
だが、その奥に、何かがあった。
「——次に会う時は、私が直接『処理』します」
カインの声が、霧の中に消えた。
足音が遠ざかる。
機械化ハシビロコウの姿が、霧に溶けていく。
最後まで、あの鳥は動かなかった。
歩いていたはずなのに、「動いている」ようには見えなかった。
まるで、景色が移動して、鳥だけがその場に留まっているような。
逆説的な静止。
それが、レオの恐怖を煽った。
「…………」
レオは、拳を握りしめた。
「……待ってろ、カイン」
霧の向こうを睨んだ。
「お前の『正しさ』を、俺が否定してやる」
ゴートが、レオの横に来た。
鼻を、レオの手に押し当てた。
「ぬ」
温かかった。
聖遺物よりも、温かかった。
第15話「相対――あるいは、最遅の者が創り出す絶対空間について」
――終――
【次回予告】
「……フェリクス。城の様子は」
「最悪です。犬が玉座に座ったまま動きません」
「それは前から聞いている」
「いえ、状況が進化しました。犬の周囲に猫が三匹集まっています」
「猫? 城に猫はいなかったはずだが」
「野良です。犬の体温に引き寄せられて、玉座の周囲で丸くなっています。兵士たちは『神聖なる共存』と呼んで崇めています」
「…………」
次回、『絶望の暗黒大陸で、俺だけがカピバラ(時速50km)に乗っている』
【幕間】第15.5話「帰還――あるいは、犬と猫の停戦協定について」
お楽しみに。




