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もったいないからね

差し出された腕を、わたしはしばらく見ていた。


 婚約者として、何度もランドルフ殿下の腕を借りてきた。夜会でも、式典でも。けれど、借りた腕のほうが、わたしを気にかけてくれたことは、一度もなかった。


 この方の腕は、今、わたしの手が来るのを待っている。


 そっと、手をかけた。


 歩きだすと、人垣が左右へさあっと道を空けていった。さっきまで、わたしの涙を見物するつもりで集まっていた方々である。


 「……素敵」


 どこかのご令嬢が、ため息まじりにつぶやいた。


 扉の手前で、一度だけ振り返った。


 ランドルフ殿下が、給仕の方々に引き起こされているところだった。その横で、リゼットさまが、苛立ったように足を踏み鳴らした。


 「ランドルフさま! どうして、さっさと立ってくださらないの!」


 甘い声は、どこにも残っていなかった。


 大きな扉が、背中で閉まった。


  *


 廊下は、ひんやりとしていた。


 扉を一枚へだてただけで、広間の騒ぎはずっと遠くなった。聞こえるのは、ろうそく立ての火がかすかに揺れる音くらいだった。


 わたしは、殿下の腕に手をかけたまま、三歩歩いて、止まった。


 止まったら、もう、だめだった。


 「……ふ」


 こらえていた笑いが、ついに口から出てきた。


 「ふふ、ふふふ……っ」


 抑えようとして、両手で口をふさいだ。それでも、指のあいだから、こぼれてくる。肩が震える。目の端が熱くなる。泣いているのか笑っているのか、もう、どちらでもよかった。


 「自由……」


 声に出したら、あとはもう、あふれるばかりだった。


 「自由ですわ! わたし、自由になりましたの! 明日の朝、寝坊してもいいのです! 刺しゅうの図案を、自分で選んでいいのです! 町の古道具屋さんに、一日じゅういてもいいのです! 古いものを、ぜんぶ、ぜんぶ、わたしが直していいのですわ!」


 くるりと、その場で一回まわった。ドレスの裾がふわりと広がった。はしたない、と八年かけてたたきこまれた教えが、頭の隅をよぎった。気にしないことにした。


 廊下の窓ガラスが、夜の暗さで鏡のようになっていた。そこに、わたしが映っていた。


 一目で紫と分かる、すみれ色の髪。今夜のためにきっちりとまとめたのが、いまのひとまわりで、ひと房ほどけて肩に落ちている。金糸を織りこんだドレスに、真珠の粒。こはく色の目。


 可愛げがない、とランドルフ殿下に言われつづけた顔が、頬を真っ赤にして、子どものような、くしゃくしゃの笑顔になっていた。


 「……あ」


 隣に殿下がいらっしゃることを、忘れていた。


 顔から、火が出た。


 「……た、大変、失礼いたしました」


 隣で、ふっと息のもれる音がした。


 おそるおそる横を見ると、リオネル殿下が笑っていらした。広間では、表情ひとつ動かさなかった方である。その方が、口もとをゆるめて、肩を小さく揺らしている。


 笑うと、ずいぶん印象が違う方だった。金色の目が、やわらかい色になっていた。


 「ふふっ、婚約を破棄されて、礼を言って、踊りだした令嬢は、はじめて見た」


 「お、踊ってはおりません。少し、まわっただけです」


 「そうだね」


 殿下は、まだ笑っていた。


 「あれほど面白いものは、久しぶりに見たよ」


 褒められたのかどうか、よく分からなかった。分からないのに、顔がじわじわと熱くなってきた。


 「……手首は、大丈夫か」


 「はい。殿下のおかげで」


 「それならよかった」


 「あの……どうして、助けてくださったのですか。殿下とは、ご挨拶くらいしか、したことがございませんのに」


 「まぁ、お礼のようなものだよ」


 「わたし、殿下に何か、いたしましたかしら」


 殿下は、それには答えずに、少し黙られた。何か言おうとして、言葉を選んでいらっしゃる、というふうに見えた。兄君を放り投げた方とは、とても思えない黙り方だった。


 「ヴィオレッタ嬢」


 「はい」


 「明日、あなたに会いに行ってもいいか」


 心臓が、また、どきんと鳴った。


 「……わたしに、ですか」


 「あぁ、そうだよ」


 まっすぐな目だった。からかっている目ではなかった。


 どうお返事をすればいいのか、見当もつかなかった。婚約者がいたあいだ、殿方にこんなふうに聞かれたことなど、なかった。聞かれてはいけない立場だったのだ。


 でも、今夜からは違う。


 「……はい」


 小さな声しか、出なかった。


 殿下は、それで十分だというふうに、うなずかれた。


 並んで歩くうちに、また襟もとのカメオが目に入った。灯りが、欠けた縁のところでちらちらと揺れている。


 聞いては、いけない。殿方の身につけているものに、あれこれ口を出すのは、行儀の悪いことだ。ずっと、そう教わってきた。


 ……けれど、もう、叱る人はいない。


 「あの。殿下」


 「なんだい」


 「その、襟のカメオ」


 殿下の足が、わずかに遅くなった。


 「縁が、欠けておりますでしょう。額のところ。……新しいものに、お替えにならないのですか」


 口に出したとたん、しまった、と思った。助けていただいたお礼より先に、襟もとの欠けの話をする令嬢が、どこにいるだろう。


 けれど殿下は、怒りもせず、笑いもしなかった。欠けたカメオに指を当てて、欠けたところを親指でなぞった。


 「あぁ、気になってしまった? そうだね、これは替えないよ」


 「……なぜ、ですの」


 「もったいないからね」


 あっさりと、そう仰った。


 わたしは、足を止めてしまった。


 もったいない。


 前のわたしの祖母が、しわだらけの手で繰り返していた言葉と、同じだった。この世界で、誰かの口からそれを聞いたのは、はじめてだった。


 「欠けたくらいで捨てたら、これまでの年月まで捨てることになる。……と、昔、教わったんだよ」


 殿下は、それだけ言って、立ち止まったわたしを見た。


 「おかしいかい」


 「いいえ」


 声が、少しふるえた。


 「いいえ。……ちっとも」


 うれしかった。どうしてこんなにうれしいのか、わたしにも説明がつかないくらいに。この広いお城の、あれだけ人のいた広間のなかに、たった一人、同じことを思っている方がいたのだ。


 殿下は、わたしの顔をしばらくご覧になって、それから、すいと目をそらした。わたしの歩幅に合わせて、ゆっくりと歩きだす。


 わたしは、その横顔と、襟もとの欠けたカメオを、代わるがわる見ていた。あの欠けは、埋められる。彫りを足して、縁を整えて、それでいて欠けていたことが分かるように。……いつか、直させていただけたら。


 前のわたしは、直すつもりで抱えた布を、一枚も直せずに終わってしまった。


 ……今度こそ。


 今度こそ、思いきり、直したい。この世界の古い道具を、心ゆくまで、この手で。


 隣を歩く方の腕に、そっと力をこめた。殿下がちらりとこちらを見て、何も聞かずにまた前を向いた。


 明日が、待ち遠しかった。


 廊下の角を曲がったところで、向こうから足音が駆けてきた。王家の紋を胸につけた侍従の方が、息を切らして、わたしたちの前で膝を折る。


 「ヴィオレッタ・エーレンフェルト様。陛下より、お言葉でございます。明朝、侯爵閣下とご一緒に、陛下の御前へ、と」


 今夜の騒ぎは、もう、陛下のお耳に届いているのだ。背すじが、すっと冷たくなった。


 隣で、リオネル殿下が、小さく肩をすくめた。


 「父上は、耳が早いな」


 それから、こちらへ顔を向けて、口の端だけで笑った。


 「明日、会いに行くと言ったろう? 場所が、父上の前になっただけだよ」


 どういうわけか、それで、怖くなくなった。

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