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女性の手首を、そうつかむものではない

「まあ。王太子殿下、そのように仰っていたのですね」


 わたしは、胸の前で両手を合わせた。


 「よかった。本当に、よかったですわ。それほど想い合っていらっしゃるのなら、わたし、安心してお任せできます」


 心の底から、そう思った。そう思ったから、そう言った。


 リゼットさまの顎が、上がったまま、固まった。


 ランドルフ殿下は白い顔のまま、口を開けて止まっていた。泣き崩れる元婚約者を見下ろすつもりだったのだろう。お二人とも、その顔の用意しかしていらっしゃらなかったらしい。


 お気の毒だとは思う。けれど、うれしいものは、うれしいのである。


 「それでは、失礼いたします。どうぞ、お幸せに!」


 わたしは、もう一度礼をして、背を向けた。


 扉までの道が、きらきらして見えた。足がひとりでに軽くなる。落ち着いて、と思うのに、一歩ごとにかかとが弾んでしまう。今夜のうちに何をしよう。明日は何をしよう。まずは寝坊。それから、それから——


 「待て!」


 手首を、乱暴につかまれた。


 「い、痛い」


 ぐい、と引かれて、体が半分うしろへ持っていかれる。振り向くと、ランドルフ殿下の顔がすぐそこにあった。赤い。怒りで、耳まで赤い。


 「話は、まだ終わっていない! 貴様、この私を、笑いものに——」


 つかまれた手首が、痛かった。指が、骨のところに食いこんでいる。


 「……王太子殿下、お放しくださ——」


 言い終わる前に、ランドルフ殿下の手首を、別の手がつかんだ。


 横から、音もなく伸びてきた手だった。


 次の瞬間、ランドルフ殿下の体が、宙に浮いた。


 何が起きたのか、わたしには見えなかった。見えたのは、仕立てのいい上着の裾が翻ったことと、その体が横の卓へ向かって飛んでいったことだけである。


 がっしゃあああん!


 卓の上に積んであった菓子の塔が、崩れた。グラスが、次々に床へ落ちて割れた。


 「キャアアアッ!」


 「王太子殿下!」


 悲鳴が、広間じゅうから上がった。楽団の太鼓が誰かの肘に当たって、どおん、と間の抜けた音を立てた。ご婦人が一人、扇を取り落としてその場にへたりこんだ。


 「ランドルフさまぁっ!」


 リゼットさまが、芝居がかった態度で、裾をつまんで駆け寄っていく。


 崩れた菓子の山のなかで、ランドルフ殿下が、クリームだらけになって仰向けに転がっていた。


 「兄上」


 低い声だった。


 「女性の手首を、そうつかむものではない。それでも王族か」


 第二王子の、リオネル殿下。


 背の高い方だった。見上げると、首が少し疲れるくらいに。黒に近い紺色の髪が、シャンデリアの光を受けてところどころ青く光っている。その下の目は、金色だった。怒鳴りもせず、息ひとつ乱さずに、床の兄君を見下ろしている。


 「……リオネル殿下が」


 「今の、見えまして?」


 「あの、氷みたいな方が……?」


 ささやきが、さっきとはまるで違う調子で、広間を渡っていった。若いご令嬢たちが、頬を染めている。


 「な、何をなさいますの、リオネル殿下!」


 リゼットさまが、ランドルフ殿下の腕にすがりながら、きっと眉をつり上げた。


 リオネル殿下は、そちらを見もしなかった。


 こちらへ体を向けて、つかまれていた手首に目を落とす。


 赤く、指の跡がついていた。


 その目が、ほんの少しだけ細くなった。怒っている、と分かった。わたしに、ではない。兄君に、である。けれど、わたしに向けられた声は、驚くほどやわらかかった。


 「痛むか」


 「……いえ。少しだけ」


 「そうか」


 それだけ仰って、殿下はご自分の手袋を外した。外した手で、わたしの手首を包むように持ち上げる。あたたかかった。じんじんしていたところが、すうっと静かになっていく気がした。


 うつむいた殿下の襟もとで、何かが、ちかりと光った。


 カメオだった。襟を留める、卵形の小さなカメオ。貝を彫って、女の人の横顔を浮かせてある。ずいぶん古いものだ。彫りの線が、長いあいだ指でなでられて、角がまるくなっている。


 そして、縁が欠けていた。


 横顔の、ちょうど額のあたりから、縁が小さく三日月のかたちに欠けている。欠けたところだけ、貝の白さがほかより新しかった。


 ……あら。


 どこかで、見たことがあるような気がした。どこでだったかは、出てこない。


 王子さまの襟もとである。夜会の正装である。新しいものなら、いくらでもお持ちのはずの方である。それなのに、欠けたカメオ。欠けたまま、磨いて、いちばん目立つところに留めてある。


 気になった。どうしようもなく、気になった。手首の痛みのことも、王太子殿下のことも、一瞬、頭から飛んでしまうくらいに。


 あの欠け方なら、貝の粉を練って埋めて、上から彫りを足してやれば——


 いけない。今は、それどころではない。


 この方とは、ろくにお話ししたこともない。夜会でお見かけしても、いつも柱にもたれて、面白くもなさそうに広間を眺めていらした。どなたとも踊らない、誰にも笑いかけない、と皆さまがうわさしていた方である。


 その方が、わたしの手首を確かめてから、顔を上げた。


 目が合った瞬間、胸がどきんと大きく鳴った。


 「——お待ちくださいいいいっ!」


 広間の奥から、悲鳴のような声が上がった。


 文官の方々だった。夜会を取り仕切っていたのだろう、黒い上着の男の人が五人、六人、上着の裾をひるがえして、転がるようにこちらへ駆けてくる。どの顔も、真っ青である。


 先頭の方が、わたしの足もとに、がばっと膝をついた。


 「ヴィオレッタ様! 行かないでください! 行かないでくださいぃ!」


 「ヴィオレッタ様がいらっしゃらなくなったら、明日の決裁は、どなたが……!」


 「西の領地への返書も、まだ下書きのままで……!」


 「わたくし、今夜こそ家に帰れると思っておりましたのに……!」


 「陛下へのご報告書は、いつもヴィオレッタ様が、王太子殿下のお名前で……!」


 広間が、ざわめいた。


 「……まあ」


 「王太子殿下の、ご報告書を……?」


 「では、これまでの采配は、全部……」


 扇がぱちぱちと閉じられていった。貴族の方々が顔を見合わせて、それから、そろってランドルフ殿下のほうを見た。


 「ち、ちがう! それは、それは……!」


 ランドルフ殿下の叫びを、誰も聞いていなかった。


 リゼットさまが、ランドルフ殿下の腕から手を離して、その顔をまじまじと見た。


 「……ランドルフさま?」


 わたしは、足もとの文官の方々を見た。目の下にくまのある方ばかりである。毎晩遅くまで、わたしと一緒に書類の山と格闘してきた方々だ。この方々には、本当に申し訳ないと思う。


 「ご心配なく」


 わたしは、にっこり笑った。


 「当面必要な書類は、王太子殿下の机の、右のいちばん下の引き出しにまとめてございます。明日からは、どうぞご本人か、リゼットさまにお願いなさいませ。わたし、もう婚約者ではございませんので!」


 文官の方々の顔が、いっそう青くなった。


 「王太子殿下、ご本人に……」


 「リゼットなどという、ただの男爵令嬢ごときには、到底無理です……」


 膝をついていた方が、そのままぱたりと横に倒れた。隣の方が「しっかりなさい!」と揺すっている。揺すっている方も、泣いていた。


 あら。安心していただこうと思ったのだけれど。


 「今夜は」


 わたしの隣で、静かな声がした。


 「彼女を、休ませてやれ」


 リオネル殿下だった。大きな声ではない。むしろ、穏やかなくらいの声である。けれど、文官の方々はぴたりと口を閉じた。


 「話は、明日だ。侯爵家に、礼を尽くしてからにしろ。……今夜、これ以上、彼女を引き止める者がいたら、俺が相手をする」


 誰も、何も言わなかった。


 文官の方々が、道の脇へ下がっていく。下がりながら、何度も頭を下げている。わたしにではなく、わたしの隣の方に。


 リオネル殿下が、わたしに向かって、肘を軽く曲げた。


 「お送りしましょう、ヴィオレッタ嬢」

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