婚約を、破棄してくださるのですね
「ヴィオレッタ! 貴様との婚約は、この場で破棄する!」
王太子殿下の声が、夜会の広間に響きわたった。
楽団の弓が、ぎいっと妙な音を立てて止まった。笑い声も、グラスの触れ合う音も、すうっと消えていく。広間いっぱいの着飾った方々が、いっせいにこちらを向いた。
「まあ……」
「とうとう、なさったわ」
「本当に、この場で?」
扇の陰で、あちこちから小さなささやきが上がった。
正面には、ランドルフ殿下。この国の王太子で、わたしの婚約者——だった方。その腕には、淡い桃色の髪を高く結い上げた小柄な令嬢が、すがりつくようにして立っている。男爵家のリゼットさま。このところランドルフ殿下が、たいそうお気に召しているという方だ。
今夜は、王太子殿下が主催なさった夜会である。陛下もお出ましにならず、わたしの父と母も招かれていない。ご自分のお好きな方ばかりが集められた広間で、ランドルフ殿下はいちばん見栄えのする場所を選んで、いちばん大きな声を出したのだと思う。
「リゼットへの数々の嫌がらせ、もはや見過ごせん!」
「ランドルフさま……もう、よろしいのです」
リゼットさまが、潤んだ目でランドルフ殿下を見上げた。
「わたくしが、ヴィオレッタさまに何度も冷たくされたことも、階段で突き飛ばされたことも……わたくしさえ我慢すれば、それで……」
言いながら、白い指先でそっと目もとを押さえる。押さえた指は、頬紅にもまつげにも、きれいに触れていなかった。
「聞いたか! このように健気なリゼットを、貴様は! 貴様のような冷たい女は、王太子妃にふさわしくない!」
身に覚えは、ひとつもなかった。
そう申し上げようとして、口を開きかけた、そのときだった。
頭の奥で、ぱちん、と何かがはじけた。
はじけたところから、知らない景色がどっと流れこんでくる。古道具の並んだ棚。値札のついた器や、糸のほつれた帯。持ちこまれた品を一つずつ手に取って、底をのぞいて、値をつけていく手。休みの日には、その手でほつれを繕い、欠けを継いでいた。
——もったいないねえ。モノにも神様がいらっしゃるんよ。
しわだらけの手で頭をなでてくれた、祖母の声。
それから、帰り道。直すつもりで引き取った古い布を、胸いっぱいに抱えていた。明日からこれを縫い直すのだと、わくわくしながら歩いていた。そこへ、まぶしい光が飛びこんできて——
……ああ。わたし、あのとき、死んだのだ。
抱えていた布は、一枚も直してやれなかった。
思い出したのは、それだけではなかった。今のわたしのことも、いっぺんに別の目で見えはじめた。
ヴィオレッタ・エーレンフェルト。侯爵家の娘。八つのとき、王命で王太子殿下の婚約者に決められた。それからずっと、朝は日の出前から夜遅くまで、妃になるための教育を受けてきた。笑い方も歩き方も扇の持ち方も、全部、誰かに決められたとおりに。そのうえ、王太子殿下が放り出した仕事まで、代わりにやってきた。
……それが、全部。
今夜で、全部、終わる。
婚約がなくなれば、妃にならなくていい。日の出前に起きなくていい。王太子殿下の仕事をしなくていい。笑いたくないときに笑わなくていい。
古道具屋さんに、行きたい。
欠けた器を、好きなだけ継ぎたい。ほつれた布を、好きなだけ繕いたい。誰にも「妃候補の娘が、はしたない」なんて言われずに!
自由。
自由だ。
わたし、自由なのだわ!
胸の奥から、何かがぶわっと込みあげてきた。喉のところまで来て、止まらない。頬が勝手に持ち上がっていく。だめ、と思った。ここは断罪の場で、わたしは断罪されている側で、ここで笑ったら、きっととんでもないことになる。
とんでもないことになっても、いいのでは?
だって、もう、婚約者ではなくなるのだから!
「……えっ」
気がついたら、声が出ていた。
「……よろしいのですか?」
ランドルフ殿下の眉が、ぴくりと動いた。
「……は?」
「婚約を、破棄してくださるのですね。本当に? 撤回は、なさいませんね?」
「な、なにを……そ、そうだ! 何度も言わせるな、貴様との婚約は——」
「ありがとうございます!」
わたしは深々と頭を下げた。これまでの人生でいちばん深く、いちばん心をこめて。顔を上げたとき、自分でも分かるくらい、満面の笑みになっていた。
それから、リゼットさまのほうへ向き直った。
「リゼットさまも、本当に、ありがとうございます! 王太子殿下のこと、どうか末永く、よろしくお願いいたしますね!」
リゼットさまの手が、目もとで止まった。
「……え?」
潤んでいたはずの目が、まんまるになっている。
「え、ちょっと……泣かない、んですの……?」
言ってしまってから、リゼットさまは、はっと口を押さえた。
広間が、しんとした。
「……えっ」
「えっ」
「……今、お礼を……?」
「聞き間違いかしら」
「泣かないの、って……いま、あの方……」
あちらでも、こちらでも。柱のそばで、窓ぎわで、給仕の盆の向こうで。広間じゅうの「えっ」が、ぽこぽこと上がった。給仕の方が一人、盆の上のグラスをかちゃかちゃと鳴らして、慌てて押さえている。
リゼットさまが、はっとしたように顔を上げた。慌てて目もとに指を戻して、ふたたびか細い声を出す。
「ヴィオレッタさま……そんな、やせ我慢をなさらなくても、よろしいのですよ」
「やせ我慢では、ございませんけれど」
「いいえ、分かっております。だって、ランドルフさまはいつも仰っていましたもの」
リゼットさまは、ランドルフ殿下の腕に、ぎゅっと頬を寄せた。
「あの可愛げのないヴィオレッタより、わたくしのほうが、何倍も可愛いって。リゼット、どうか私の王妃になってくれ、って。……ねえ、ランドルフさま?」
のろけているつもり、らしかった。
広間の空気が、ぴしりと凍った。
「……王妃に、ですって?」
「ご婚約中に、そのようなお約束を……?」
「陛下のお許しもなく……?」
扇が、またあちこちで止まった。今度は、さっきのような小さなささやきではない。ひそひそと低く長く、広間の端から端まで渡っていく。
「リ、リゼット、それは、いま言うことでは……!」
ランドルフ殿下の顔色が、赤から白へ変わっていった。リゼットさまはそれにも気づかず、わたしのほうへ勝ち誇ったように顎を上げた。
「それだけでは、ございませんのよ。ランドルフさまは、わたくしの家も、侯爵家にしてくださるって、お約束してくださいましたの」
「リ、リゼット……!」
「王になれば、何でもできる。そう仰ってくださいましたわ。ねえ、ランドルフさま?」
広間が、大きくどよめいた。
「こ、侯爵家に、ですって?」
「男爵家が、侯爵家になどなれるはずなかろう。正気か……?」
「王になれば何でも、とは……陛下が、いまもご健在であらせられるのに……!」
年配の貴族の方が、つえを握りしめたままぶるぶると震えていた。そのお隣のご婦人は、扇で口もとを覆ったきり目を白黒させている。給仕の方の盆の上で、とうとうグラスが一つ、ころりと倒れた。
「リゼット! 黙れ、黙っていろ!」
ランドルフ殿下が、裏返った声で叫んだ。叫んだけれど、もう遅かった。出てしまった言葉は、居合わせた全員の耳にしっかりと入ってしまっている。
リゼットさまだけが、何がいけなかったのか分からないという顔で、きょとんと首をかしげていた。それから、気を取り直したように胸を張った。
「ですから、今さら後悔なさっても、もう遅いのですわ」
わたしは、少し考えた。
後悔する理由が、どこを探しても、ひとつも見つからなかった。
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