表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蝸牛殺し  作者: くらげとパンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/5

カタツムリ→


二人の男は欄干から身を引いて、ふとどちらともなく相手の貌を横目に見た。

その汽水域の河川の下流は細くたなびく裾野を広げ、水蛇の尾とも口ともつかぬ行く先を撫でつけるように豊饒の海へと繋げている。

その柔らかな水音が遠ざかるほどに、互いは互いを見つめ、憎み嫌悪し、而してゾクリとするほど素晴らしく、互いの役割を強く求めた。

駆けつけた蒼装束の男女は皆一様に旭日章を胸に抱いて、俄に饐えて匂い立つ、なま白い柔肌の褥に爪を掛けている。

はだけられた乳房はぬるりと裂け、細い肋を掻き分けるように、最奥から水を孕んだ肺臓がごぽりと泡を立ててまろび溢れた。

彼らは互いを見つめている。

碓久辺都子を眼下に抱いて、ただ互いが互いを求めていた。



而してその言説の承服せざる点甚だ多く、会して話すと述べながら言葉を遮って思うがままをぶつける所作を鑑みるに、やはり眼前の軽薄極まる南京虫はその生の恥じ入るべくを知らず無知蒙昧を究めてきたこと最早僅かばかりとて疑う余地もなかった。

私を付き纏いののっぺらぼうだと言う。

事もあろうに私に死をもって償えなどと高説振って宣うのである。

何処からこのような下賤の物狂いが産まれてきたというのか、果たして人倫の産道を通ったものか、はたまた犬猫その他畜生などが人を孕ませて産ませたものか。

何れにせよ斯くして黙する道理も無くなったからには洗いざらい知る所全てを語るべきかと愚行する次第である。

さて、私は彼女に姿を見られ、事もあろうに下劣極まる男の笑いものにされ、後ろ指を指されて堪らず駅構内から退散した。

誓って述べるところには、私は断じて己が行いを恥じてその場を後にしたのではないということであって、その含意としてはつまり、私のことであの都子女史にたとえ何かしらの取るに足らない勘違いでこそあれ、如何なる誤解を与えることも胸を苛む慙愧の念に堪えないと即時に判断した為である。

それは言い換えれば、偏に私がその場にただ立ち尽くすうち、その隣に立つ薄気味悪い笑みを浮かべた下種がまたつらつらと非ぬ誹謗を声高に語り続け、万が一にも都子女史がその讒言に乗せられでもしまいかと強く懸念しての聡明な判断に他ならなかった。

まったく以て、都子女史からしてみても私を付き纏いの男などと推察した点においてはその冴えた炯眼も俄に輝きを失い、知恵の鏡も曇ってのことであろうと苦渋に熟慮を重ねる一方、皆それもこれも総ては眼前の院生の男の卑劣尚且つ狡猾な謀り事であって都子女史には些かの非も断じて無いであろうことも私はまた当然の心得として弁えている。

しかしそれにしたところで胸中の最奥を貫く視線に心痛を覚えること甚だ苦しく虚を揺さぶり、その千枚通しで指を突き通すが如き誤読に堪えかねて私は無念の撤退を選ばざるを得なかったと、単に事情はその一言で語り尽くせる程度の些末なものに過ぎないわけだった。

それにしたところで、果たしてこの男は、自宅の張り出でた露台の上から眼下の河水へ身を投げた都子女史のあられもない艶姿を見て何を感じたと抗弁してみせるつもりなのか、私は五臓六腑が皆捲れ上がらんばかりの激憤に身を捩らせること暫し、漸く辛うじて最低限の人道の矜持を保って会話の体を取り繕っていると何故伝わらないのかなどと思索を巡らすこと幾度かを数えて久しい程である。

冠を突き上げる怒髪天を衝くともまだ生ぬるい、文字通り断腸せんばかりの激怒を、僅かばかりにでもこの畜生に味わわせなければといっそ世々に憚る大義の忠誠に心を燃やす始末であった。

しかしまた、この畜生の自己憐憫と淫猥の入り混じること甚だしいナルシシズムが組み付けた脳回路の導線に誤接続されては成り立つものも霧と散る故、ここから先は努めて冷徹に、振り下ろすガベルの狙いを定めてただ一刀に斬り伏せ断罪を行わねばならないということも私は痛いほど了解していた。

さて、斯くして私はいかなる心境であれ動機であれ、駅構内から脱兎の如くに走り逃げ出すと終いにはただ只管に泣き濡れて、幾星霜とも知れぬ星の外海さながら、毳毳しく瞬くネオンに照らし映された夜街を当て所無く放浪する他に皆目すべきことも見当がつけられなくなっていた。

そのようにして歓楽街の外縁を遊離すること二回りほどの時、私はふと視界の端にて夕刻に電車から降りて都子女史と密会などしていたあの下賤の物狂いが下卑た安宿から足早に立ち去るのをしかと目撃した。

はてさて何事だろうかなどと、忸怩たる不快の念を胸のうちにどうにか押し込めて安宿の出入り口を注視していたところ、なんとその重苦しい濃朽葉の扉をザラリと解き放って、あの、あの都子女史がただでさえ和人形の如くに仄白い顔を一層青く褪色させて暗がりの奥からふらりと足を出したではないか。

殊にその刹那、私は地に踏ん張った足先がポロリともげ落ちてしまったかと錯覚するほどに身体の統御を失い、ただ涙を堪えてその場に崩れ落ちるより他に取るべき手立ても見当たらず、込み上げる嗚咽が脳髄を侵して頭痛に変わるのを益々の惨憺の念の中ただ耐え伏せることだけに注力せざるを得なかった。

ふらふらと、寧ろこちらこそ糸の切れた人形のように前へ一歩、二歩足を進める私は最早異端の果に石打ち磔刑を待つ使徒である他に何者でもないほど打ちひしがれ、気付けば彼女の前に立ち尽くして断罪の言葉を待ち頭を垂れていた。

恐る恐る前を向くと、都子女史は僅かに視線を傾けて、自嘲気味に嗤うこと暫くの後、徐に私にこう切り出した。

曰く、何をしに現れたのか、と。

私は返すべき答を失っていた。

瞳が潰れ、暗がりで餌を待つ土竜もかくやという悶えようで、私はただじっと黙りこくって彼女の前に立ち続けた。

あり得べからざる狼藉、彼女の柔肌に触れ、生物学上の妊み袋へとその聖体を貶むなど何人たりとも赦されぬ悪逆非道。

冒瀆。

彼女を遠ざけねばなるまい。

そこが知の牢獄といえど論理の迷宮といえど、その鋭利な知恵を持って未開を切り開くなら今この時よりはまだしもよい結果が先々に待つだろうと心から信じて、私は彼女にやっとの思いでこう申し出た。

私とお付き合いをしてくださいませんか、と。

彼女をあの南京虫から遠ざけるために、泥を踏むと言うなら寧ろ受けて立つ所存であった。

私は泣きそうになりながら彼女が生み出す得も言えない沈黙の刹那を待ち続けた。

永劫とも知れぬ果て、彼女はひとことこう返した。

曰く、宿に戻って獣のごとくに交わるなら、或るいは望みを叶えると。

否、否否否。

都子女史はこう言ったのだ。

「ふふっ。さっきまで友達だった人に穢されちゃったからね。君で口直しにしよっか。もし私と付き合いたいなら、ほら、まずはホテル行こ。」

耳鳴りがした。

喉を胃液が伝った。

私は、嘔吐した。

夜道が私の吐瀉物でグズグズに汚れた。

私は再び走り逃げ去った。

生きていてこれほどの辛酸を味わったことは前にも先にも一度として無かった。

夜通し歩いて、泣き疲れて、明け方のこと。

思い悩むほどに答えは単一に絞られていき、遂にはいっそ身を投げし淵の波でも耽溺し五体掻き消えて散逸すれば係る輪廻転生の行き着く永劫の果てにはまた再び彼女を垣間見ることもあり得るだろうかなどと思案を繰り返すこと行きつ惑いつ流離っていた。

それでもようやっと心を決めて彼女の住む川辺りの荒屋の前に迷い出でたところ、折しも雲霞の如くに集う人集りの蛆を目の当たりにすると同時に、その欄干の眼下に据えられて、さながら川辺に打ち上げられた海豚のように、なま白く且つ柔らかく水を孕んで静かに膨らみ浮かび上がる都子女史その人の脹相そのものを目の当たりにしたという経緯なのだった。

さて、斯くして語るべきことは語り尽くしたが、と同時にこの事実はまた一方である疑いようのない真実を強く導き出している。

そう。眼前にいる男、つまりお前が、彼女を直截に死に追いやる契機を生み出したということだ。

否、ともすれば彼女は経緯はどうあれ私と付き合うとすら口にした。

彼女から事の次第が漏れることを恐れてお前が都子女史を殺害したことすら十分客観的に考えられる推論ですらある。

さて、私も回りくどい言葉を避け直に伝えるべきことを伝えねばなるまい。

何処へともなく、誰にも看取られることなく、一人迷惑をかけず、山奥でも水底にでも行って死に至って貰いたい。

お前は生まれてはいけなかったのである。

この世に生を受けて、今日に至る何もかも間違いであった。

迷い出た蛞蝓には塩を振りかけるのが古来より世の習わしである。

死んで都子女史に詫びるとも、而して二度と彼女と会わない無間地獄の底の底まで永劫が霞むほどの時間、永遠に千歳に過ごすが宜しい。

寧ろお前こそ、絶えて一族諸共晴れて断種してくれれば私としてもこの上なく本望である。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ