恵美押延の半生
霧が出始める甲板の上。和船のそれとは違い、ワックスが塗り込められた甲板が鈍く光る。
吸い終わったタバコを、海に放り捨てる恵美押延。長い黒髪が舞う。そのふるまいは到底、江戸の日本人のものとは思えなかった。
「......多分あなた方も、『令和』の人間なのでしょうね。ここまでたどり着けるというのは」
自嘲気味にそう恵美押延はつぶやく。『令和』。その単語をこの時代の人間から聞くのは瞬以来の敬忠であった。
「当然、私もそうですが――私は物心ついたときからその記憶がありました」
敬忠が『令和』の記憶に目覚めたのは、成人してから。瞬に至っては具体的な記憶を取り戻したのは最近のことである。
「江戸から遠く離れた寒村の――貧しい農家の家に生まれました。ただ食べることだけに日々を費やしていた――『令和』の残飯のほうがよっぽどマシでした。このままでは終われない――『令和』の記憶でなんとかこの窮状を抜け出してやる――それが現実のものとなったのが十六歳の頃でした」
恵まれた出生。敬忠は恵美押延の生まれと自分の生まれを比較してそう感じた。曲がりなりにも家老の家の武士として生を受けた自分は幸せだったのだろう――瞬は――そんな疑問を感じ、瞬の方を見つめる敬忠。瞬はじっと恵美押延の話を聞いていた。
「米を積む船の煮炊き係の子供がほしいという噂を聞き、志願しました。きつい仕事だとはわかっていましたが、『令和』の記憶もあり料理はできました。チャンスがあればどこぞの港で逃げ出すつもりだったのですが――このような海の上で――嵐が起きました。漂流です」
もう一本タバコをくわえる恵美押延。目ははるか遠くを眺めて。
「小さな小舟に三人の漂流者。最初は一番年若い私が殺されそうになりました。食べ物が尽きたのでね。もっとも、調理用に隠し持っていた刃物で返り討ちにしましたが。そのお陰でさらに数日生きながらえることができました」
ふうん、と対馬守が合いの手を入れる。
「目が覚めると――甲板の上にいました。外国の船。私は動けない体で、大きく叫びました。助けてと。『フランス語』で」
瞬と同じく恵美押延は外国語のできる素養の持ち主であったらしい。言葉が通じることが、この時代どれだけの武器になったのかは考えるまでもない。
「どうやら日本近海に出没していたロシア船の一隻だったようです。日本人と思っていた漂流者が、聞いたことのある外国語を話したわけですからね。ロシア人たちも驚いたでしょう。本来ならば奴隷にされてもおかしくない状況でしたが、厚遇を持って私は迎えられました。そして大陸を経て、私は赴きました。ロシア帝国の都――サンクトペテルブルクへ」
話は未だ終わりをつげない。恵美押延自身、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。『令和』の記憶を持った人間の半生の物語を――




