母なる味
涙を流すフェドセーエフに高田屋すら驚きの色を隠せない。瞬だけがじっとフェドセーエフを見つめていた。
「懐かしい味だ......この地に派遣されてからは全く忘れていたよ。イルクーツクに戻った時も、これを食べることはかなわなかった......」
うなずく瞬。敬忠が目配せをする。それに察した瞬が、口を開く。
「パスチラ――というロシアのお菓子です。ロシアの宮廷でもよく食べられたと。高田屋様にこの出港の前に聞きました。誰に会うのかと。もちろん教えてはいただけませんでしたが、なんとなくそれで察しました。会えない、あってはいけない人と会うのだなと。だとすれば――異人、蝦夷地であればロシアの方だろうと。なれば、何かの役に立つかと思い事前から作っておきました」
小さな小箱を取り出す瞬。木箱で中には砂糖らしき白い粉がついていた。
「リンゴが主な材料です。西洋リンゴが日本に持ち込まれるのは明治以降ですが、この時代でも中国から伝わった和リンゴという種があります。さすがは高田屋様。探していただいたら、数個見つけることができました。原始的な種なので生で食べるのにはあまりに酸っぱいですが、お菓子に使うのには最高です――リンゴは寒い地域でも取れる貴重な栄養源です。そのリンゴをすりつぶし。酸っぱい木の実、本当はベリーなどがいいのですが、をまぜはちみつと少々の卵白で練って低温でゆっくりと焼き上げます。ペチカ、という炉でロシアでは焼くのですが」
『ロシアに仕事でいたことがある』という瞬の話を思い出す敬忠。多分、その時に覚えたものだろう。
「先のフランス料理――女帝陛下はロシアを近代化するために導入したものでしょう。それ自体は珍しくても、それ以上の感動はないかと思います。むしろ、フェドセーエフ様が求めていたのはパスチラのような味なのでは。我々が味噌汁がないと落ち着かないように――」
「ポチョムキン様もよく食べれていた」
じっと手を見つめながらフェドセーエフは回想する。
「晩年、酒が受け付けなくなったポチョムキン様は陣中で作戦図を練りながら、パルセラを。懐かしい味だ。言葉では表せない、味の思い出だ」
「『極喰無尽』はそのような思い出を破壊しようとしています」
瞬は続ける。
「われわれにはわれわれの母なる味があります。そのパルセラのように。彼らは我が国に、ありえない珍しい料理を持ち込み、食の歴史を破壊しようとしています。そのことをどうかご理解いただきたく、このような真似をいたしましたことどうかご容赦のほど」
そういいながら頭を下げる瞬。フェドセーエフはそんな瞬をじっと見つめる。
そして、引き出しを開け中から便箋を一枚取り出し、羽のついた筆で文字を走らせる。
わずかの後に、フェドセーエフはその紙をそっと瞬に手渡した。
そこに書かれていたもの――それは敬忠が望んでやまない――フランス船の情報であった――




