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江戸に立つ、龍の麺  作者: 八島唯
第1章 江戸時代にラーメン屋をつくるためには

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騏驎も老いては駑馬に劣る

 蕎麦つゆの小さな徳利をそっと指でつまむ。中には黒い液体。典型的な”この時代”の蕎麦つゆである。江戸のこの時期、醤油は上方より輸送された「下り物」の醤油よりも関東周辺で作られた「地廻り物」が圧倒的に主流になっていた。現代にまで続く関西と関東の基本的な味の違いはここに始まるのかもしれない。令和の”保坂恭子”は関東生まれで、基本そこから外に出たことはない。高校の時の修学旅行で大阪のうどんの汁の薄さに驚いたことを思い出す。その割には様々なうまみを感じる透明な汁。

 どちらが優れているというわけではない。

 ラーメンでも調味料は何よりの決定的な要素である。

 もしこの時代の醤油でラーメンを作るとするならば、麺と具材の相性を考えて調整すれば間違いないものができるはずだ。

 問題は―――箸で蕎麦を手繰る。麺である。

 時は初夏。蕎麦を鼻の側に寄せる。香りは―――ほとんどしない。香りで食うはずの蕎麦にほとんど香りを感じられないのだ。

『江戸の時代の素材は完全国産!オーガニック!贅沢極まりない!』

 そんなグルメ漫画を敬忠は思い出す。確かにそうかもしれない。しかしそれは―――科学技術があればこその話である。

 収穫した蕎麦を産地から消費地まで迅速に運ぶ流通網。その蕎麦を低温で暗所に補完できる倉庫。手早くそば粉にしてそれを真空パックに詰める工場。

 令和の時代にはそれらがすべてそろっていた。

『夏蕎麦は犬も食わぬ』はずなのに一年を通じて平均的な味を楽しむことができたのである。また蕎麦の旬を夏に楽しめるように南半球で育てた蕎麦を輸入するなどという方法すら―――

 この時代には全くそのような技術はない。ただただあるものを味わうという、それだけの方法。

 これはそばに限った話ではなく、他の食材すべてに言えることだ。醤油などの調味料ですら―――

 初鰹で盛り上がる初夏。大金を積んで手に入れても、かなり匂いの強い鰹に出会うことは珍しくない。それで腹を壊すことも。しょうがないことなのだ。氷を日常的に供給できない文明でそもそも生魚を食べるということ自体がかなり無理のある話なのだから。

(一つの方向性は見えてきたかな?)

 敬忠は蕎麦を平らげながら、感じたことをまとめる。

1.この時代にラーメンを作ろうとしたら、まずもって食材の”足の速さ”

”に留意すべし。

2.いついかなる時でも平均的な味を楽しめるのがラーメンの一番の楽しみ。それを忘れるなかれ。

3.なお調味料もまた、令和の世とは違いあっという間に悪くなる。

 この時代、『腐っても鯛』は通用しない。『騏驎も老いては駑馬に劣る』―――新鮮なこと自体がおいしさに通じることを敬忠は身をもって感じていた。

 それらをさらさらと、書きつけに記録する。

 敬忠が作りたいのは―――稀なる一品でなく―――いつでも、江戸のどこでも、そして誰でも同じ値段で楽しめる―――そういう”ラーメン”の姿であった―――

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