宣戦布告
敬忠は人の多い大通りを行く。すでに陽は傾き始めていたが、それでも温度は高い。汗を手で拭うと、じっとりとした感触がまとわりつく。
(令和の頃よりは......全然、涼しいはずなのだがな......)
温暖化があまり進んでいない”文化”の世である。アスファルトで道が舗装されているわけでもなく、クーラーの室外機からの熱風もこの世界には、存在しない。
夕暮れをひかえて、店先では丁稚が通行人に気を使いつつ水打ちを始める。水売りの売り声もまた、涼しさを感じさせる――はずなのだが――
(どうも、慣れというのは怖いな。この程度の暑さで参ってしまうのは。令和の世でも、何度か熱中症になりかけたことがあったが)
令和の世では『保坂恭子』という名を持つ女性だった、敬忠。あの時代の東京の暑さは殺人的であった。それに比べれば、この江戸の暑さなど全くもって可愛いものなのだが――どうも体がそれを受け付けない。特に、『令和』の記憶を取り戻してから、感覚が戻ってしまったような気がしていた。
甘酒の露店が客を呼ぶ。この時代、甘酒は最も優秀なスポーツドリンクである。
しかし、敬忠はそれに目もくれない。
(こんな日の夕方は......ビールだろう......!)
ビール。当然、江戸の世には存在しない飲み物である。ヨーロッパにおいても、それを冷やして飲むのようになったのは二〇世紀以降、冷蔵技術が確立した後の話であった。
足を止め、空の彼方を敬忠見つめる。思い出す『極喰無尽』の宴の夜のことを。
最後に出されたデザートが『口直しの氷菓子』であった。このような暑さの中、そのようなものを振る舞われたら――
「確かに、喜んで入会してしまうかもしれんな」
ため息をつく、敬忠。
そんな『極喰無尽』に命を狙われたのもあの宴の後であった。そのことについては、南町同心本宮佐之丞が探ってくれているはずである。
今わかっていることは
『極喰無尽』はこの時代には不似合いな、そして挑戦的な料理を出すということ。
そして、自分に対して明らかな殺意を持っているということ
その二点であった。
「正直、戸惑うところもあるが......」
ぐっと拳を握る敬忠。
もう『柳橋弾正敬忠』としてのこの世界でのつとめは終わった。与えられた仕事はすべて区切りをつけ、あとは何年続くかわからない隠居生活が待っているだけだ。ならば――
目の前の本屋の軒先が目に入る。特に目を引くのは蔦屋版元、『笈川月町』の新作戯作である。内容は――未来に異世界転生した主人公が『龍麺』という料理をそこで学び、過去の江戸に持ち込むというものである。当然、瞬の作ったまさに『龍麺』そのものである。
売れ行きは上々。数週間後には、蔦屋の手づるで『龍麺』を実際に外食として提供する店ができる予定だ。令和風に言うところの、『コラボカフェ』みたいなものであった。作品の中の料理が食べられる――物見高い江戸っ子であれば、多分食いつくであろうことは予測できた。
一方で『極喰無尽』にも、注目されることは間違いない。
一つのかけであるようにも思えた。餌をぶら下げて、それに食いつくのを待つという策である。
当然、リスクは高い。この間のように命を狙われることもあるだろう。
敬忠は腰のものの柄に手をやる。これからおこるであろう出来事に、備えるかのように――




