第9話 雷帝が頭を下げた日
夜が深くなっても、エレノアは眠れなかった。
明日までに、エレノア・アルヴェインを引き渡せ。拒否すれば、リュネールを反逆者の街として扱う。
侯爵に街を独断で反逆認定する権限はない。だが、交易許可を止め、補助金を凍結し、衛兵隊へ圧力をかけることはできる。
衰退した辺境都市には、それだけで十分な脅威だった。
エレノアは寝台から起き上がった。
今なら、誰にも気づかれずに出られる。自分が街を離れれば、追手も移動する。
万物堂まで襲われる理由はなくなる。
そう考え、外套を羽織った。
一階へ下りる。
ライは椅子の下で眠っている。連れていくべきか迷った。だが、侯爵の狙いは自分だけではない。
ライも研究施設へ戻される。
結局、一緒に逃げるしかない。
入口へ近づくと、扉の前にミケが座っていた。
「退いてください」
ミケは動かない。
「散歩ではありません」
金色の目が静かにエレノアを見た。
「私はここにいてはいけません」
「出ていくなら止めない」
背後から声がした。
バルドが作業台の横に座っていた。
「起きていたのですか」
「今夜、君が出ていくと思った」
「なら、なぜ止めないのです」
「止めても、別の夜に出ていくだろう」
エレノアの進路を塞いでいるのはミケだけだった。
「私がいなければ、侯爵はこの街へ手を出す理由を失います」
「本当にそうか」
「目的は私です」
「ライもだ」
椅子の下で、灰色の耳が動く。
「ライも連れていきます」
「ミケは残る」
エレノアは口を閉じた。
「黒炎の皇獣を欲しがる人間は、侯爵以外にもいる。君を捕らえたあと、万物堂を放置する保証はない」
「ですが、街への脅しは」
「君を渡した街だと知られれば、次も同じことをされる」
バルドは静かに続ける。
「力のある者が要求すれば、住民を引き渡す街になる」
「それでも、私一人で済むなら」
「一人で済むかどうかを、君一人で決めるのか」
エレノアは答えられなかった。
「出ていくなら止めない。ただ、自分が捕まることと、街が助かることが本当に同じか、考えた方がいい」
「では、どうすればよいのです」
「朝、街の人間に聞けばいい」
「私を差し出せと言われたら?」
「そのとき考える」
ミケが扉の前から動いた。
道が開く。
エレノアは扉を見た。次に、椅子の下のライを見る。
青い目が開き、こちらを見ていた。
エレノアは外套を脱いだ。
「朝まで待ちます」
◇
翌朝、万物堂の前には大勢の住民が集まっていた。
マルタや鍛冶職人、肉屋。店へ来たことのない商人や農夫。街の役人と衛兵たち。
「公爵令嬢を引き渡すべきだ」
交易商が声を上げた。
「侯爵家を敵に回して、街に何の得がある」
「得か損かの話なのかい」
マルタが睨む。
「街が潰れたら、正義も何もない」
「その女を匿う義理はない」
「反逆者の娘なんだろう」
視線がエレノアへ集まる。
「父は謀反を起こしていません」
エレノアは前へ出た。
「ヴァレント侯爵の魔獣兵器化へ反対したため、罪を着せられました」
「証拠はあるのか」
「今はありません」
ざわめきが強くなる。
「なら信じろという方が無理だ」
「公爵同士の争いへ、街を巻き込むな」
エレノアは反論できなかった。
実際、自分が争いを持ち込んだ。
そのとき、ミケに助けられた少女の母親が前へ出た。
「私は、万物堂を守ってほしい」
腕には娘を抱いている。
「あの黒猫がいなければ、この子は死んでいました」
「猫と公爵令嬢は別だ」
「私兵は、ライも連れていくと言っています」
母親は店内を見た。
「あの子も実験に使われていたのでしょう」
鍛冶職人も言う。
「昨日、私兵は店の中で剣を抜いた。客がいる前でだ」
「侯爵の命令だったんだろう」
「侯爵の命令なら、どこで剣を抜いても許されるのか」
住民の意見は割れた。
エレノアを引き渡すべきだという者。私兵の横暴を認めるべきではないという者。
街は一枚岩ではなかった。
やがて、衛兵隊長が前へ出た。
「正式な逮捕状は届いていない」
低い声が通りへ響く。
「私兵が持っているのは、身柄の引き渡し要求だ。王国法に基づく逮捕命令ではない」
「侯爵に逆らうのか」
「法律の話をしている」
隊長は住民たちを見る。
「彼女が無実だと決めたわけではない。だが、侯爵の私兵へ住民を勝手に渡す法律もない」
「住民ではないだろう」
「今、この街にいる者だ」
隊長の後ろへ衛兵たちが並ぶ。
「正式な命令が届くまでは、強制連行を認めない」
エレノアは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は早い」
隊長は街の入口を見る。
「相手が法律を気にするなら、最初から脅しには来ない」
◇
正午。
侯爵の私兵が十二人で現れた。
昨日の指揮官が先頭にいる。
「答えを聞こう」
「正式な逮捕状を提示してもらう」
衛兵隊長が答えた。
「侯爵閣下の命令書がある」
「王国法に基づくものではない」
指揮官は冷笑した。
「ならば、街ぐるみで反逆者を匿っていると判断する」
手が上がる。
私兵たちが剣を抜いた。
「店へ入れ」
バルドが住民へ告げる。
人々が万物堂へ逃げ込む。扉と窓が閉じ、壁に淡い光が走った。
私兵の一人が扉へ斧を振り下ろす。
傷一つ付かない。
二撃目の衝撃も壁と床へ逃がされ、兵士の腕だけが痺れた。
「裏へ回れ!」
バルドが床へ手を置く。
窓と裏口の結界が強まり、通りの石畳が変形して私兵の足を崩す。
「店主が戦っているのですか」
エレノアが尋ねた。
「住民を守っている」
バルドは建物から手を離さない。
ミケの三本の尾へ黒炎がまとわりつく。
「ミケ。街を燃やすな」
ミケは不満そうに耳を伏せた。それでも、ライの前へ立ち、外へは出ない。
窓から魔法が撃ち込まれる。
バルドが壁を変形させ、住民の前へ盾を作った。
その隙に、裏口の結界が強力な魔道具で破られた。
指揮官と二人の兵士が店内へ入る。
「エレノアを捕らえろ!」
バルドは住民を守る壁から手を離せない。
ミケが飛び出そうとした瞬間、指揮官が金属杭を床へ投げた。
雷を封じる結界が広がる。
ライの身体から、苦しそうに電光が漏れた。
別の兵士が魔力吸収網を投げ、ミケの動きを止める。
指揮官はエレノアの腕をつかんだ。
「離してください!」
「ようやく捕まえた」
ライが椅子の下から出てくる。
脚は震えている。それでも、エレノアへ近づこうとする。
「来ないで!」
ライの身体から雷が溢れた。
結界杭が押し返し、その力が仔猫自身を焼く。
指揮官が笑った。
「まだ動けたのか、施設番号十二」
ライが牙をむく。
「お前は守護獣ではない」
指揮官はエレノアの腕を締め上げた。
「命令にも従えず、自分の雷で傷つく。失敗した兵器だ」
ライの身体から雷が爆発した。
床板が焦げ、窓が震える。
「ライ、だめ!」
このままでは暴走する。
研究施設で見たのと同じだ。
恐怖と痛みが術式を起動し、力を無理に引き出している。
バルドはライを見た。
押さえつけない。魔力を封じようともしない。
「ライ」
雷鳴の中でも、声ははっきり届いた。
「どうしたい」
ライの耳が動く。
「君が決めていい」
命令ではない。戦えとも、止まれとも言わない。
ライはエレノアを見る。指揮官を見る。ミケを見る。
最後にバルドを見た。
身体を覆う雷が、一度弱まった。
暴走する光が内側へ集まっていく。
指揮官が結界杭へ魔力を流す。
「制御術式を起動しろ!」
ライの身体へ痛みが走る。
それでも、倒れなかった。
一歩、前へ出る。もう一歩。
エレノアを守るため。
命じられたからではない。自分で選んで。
ライが前脚を床へ置いた。
青白い雷が店内を走る。
金属が砕ける音。短い悲鳴。焦げた匂い。
エレノアの身体には痛みがない。
目を開ける。
私兵たちは床へ倒れていた。
剣は刃と柄に分かれ、鎧の留め具だけが焼き切れている。
結界杭も砕けていた。
誰一人、火傷を負っていない。雷は武器と防具、術式だけを壊していた。
指揮官の手から力が抜ける。
エレノアは腕を振りほどいた。
ライは彼女の前に立っている。
小さな背中。耳の先から煙が上がっている。
敵が動かないことを確認すると、身体が揺れた。
「ライ」
エレノアが呼ぶ。
ライは倒れまいと踏ん張っている。
バルドが一歩進むと、電光が反射的に弾けた。
バルドは足を止めた。
その場へ座り、手を床へ置く。
呼ばない。触ろうとしない。
ライは震えている。
今度こそ治療が必要だ。
それでも、バルドは待った。ライが自分で決めるまで。
ライが一歩進む。
止まる。
バルドの手を見る。
もう一歩。
鼻先を近づけ、指の匂いを嗅ぐ。
以前なら、そこで戻った。
だが、今回は違った。
ライは頭を下げた。
灰色の額を、バルドの指先へ押しつける。
淡い光が広がった。
《万物修繕・再構成》。
初めて、ライの身体全体へ力が届く。
皮膚の下に刻まれた増幅術式。痛みで従わせる回路。逃走を防ぐ刻印。雷を無理に一方向へ流す導線。
どれも、ライ本来の身体を無視して組み込まれている。
バルドの顔が苦痛に歪んだ。
ライが受けた痛みが流れ込んでいるのだ。
それでも、手を離さない。
「全部壊せば、君の力まで弱くなる」
バルドはライへ言う。
「だから、つなぎ直す」
術式を消すのではない。命令へ従うための回路を、ライ自身の意思に反応する形へ変える。
増幅の力を残したまま、身体を傷つけない流れへ組み替える。
雷を奪わない。暴走だけを止める。
青白い光が、ライの身体の内側へ収まっていく。
耳の先の電光が、穏やかな明滅へ変わった。
ライの身体から力が抜ける。
バルドの手へ頭を預けた。
「終わった」
ライは逃げなかった。
額を指先へ押しつけたまま、小さく喉を鳴らした。
エレノアの目から涙が落ちる。
ライが服従したのではない。自分で、この人間へ触れることを選んだのだ。
◇
私兵たちは武器を失い、街の衛兵に囲まれた。
指揮官は壊れた鎧のまま、バルドを睨む。
「これで終わったと思うな」
「今日は終わりだ」
「侯爵閣下は必ず、お前たちを国家の敵として裁く」
「正式な書類を持ってくれば読む」
指揮官はエレノアへ視線を向けた。
「お前の父親も、もう長くはもたない」
エレノアの胸が締めつけられる。それでも目を逸らさなかった。
「父は謀反人ではありません」
「何を言っても同じだ」
「同じにはしません」
エレノアは一歩前へ出た。
「逃げ続けるのは、もうやめます」
指揮官の顔から、わずかに余裕が消えた。
「父の罪が偽造されたこと。侯爵が魔獣を兵器化していること。ライへ何をしたのか。すべて明らかにします」
「お前一人に何ができる」
「一人ではありません」
エレノアは万物堂を見る。
バルド。ミケ。ライ。街の衛兵。不安を抱えながらも、引き渡さないと決めた住民たち。
全員が同じ考えではない。それでも、ここには自分で選んだ立場がある。
「私は逃げてここへ来ました」
エレノアは言った。
「ですが、ここから先は、自分で進みます」
指揮官は何も答えず、部下を連れて街を去った。
戦いは終わっていない。本当の争いは、これから始まる。
万物堂の中では、ライがバルドの手のそばで眠っている。
ミケはその様子を見てから、バルドの膝へ乗った。
「重い」
ミケは気にしない。
ライは目を閉じたまま前脚を伸ばし、バルドの指へ触れた。
今度は、治療のためではなかった。




