↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/20

第9話 雷帝が頭を下げた日

 夜が深くなっても、エレノアは眠れなかった。

 明日までに、エレノア・アルヴェインを引き渡せ。拒否すれば、リュネールを反逆者の街として扱う。

 侯爵に街を独断で反逆認定する権限はない。だが、交易許可を止め、補助金を凍結し、衛兵隊へ圧力をかけることはできる。

 衰退した辺境都市には、それだけで十分な脅威だった。

 エレノアは寝台から起き上がった。

 今なら、誰にも気づかれずに出られる。自分が街を離れれば、追手も移動する。

 万物堂まで襲われる理由はなくなる。

 そう考え、外套を羽織った。

 一階へ下りる。

 ライは椅子の下で眠っている。連れていくべきか迷った。だが、侯爵の狙いは自分だけではない。

 ライも研究施設へ戻される。

 結局、一緒に逃げるしかない。

 入口へ近づくと、扉の前にミケが座っていた。

「退いてください」

 ミケは動かない。

「散歩ではありません」

 金色の目が静かにエレノアを見た。

「私はここにいてはいけません」

「出ていくなら止めない」

 背後から声がした。

 バルドが作業台の横に座っていた。

「起きていたのですか」

「今夜、君が出ていくと思った」

「なら、なぜ止めないのです」

「止めても、別の夜に出ていくだろう」

 エレノアの進路を塞いでいるのはミケだけだった。

「私がいなければ、侯爵はこの街へ手を出す理由を失います」

「本当にそうか」

「目的は私です」

「ライもだ」

 椅子の下で、灰色の耳が動く。

「ライも連れていきます」

「ミケは残る」

 エレノアは口を閉じた。

「黒炎の皇獣を欲しがる人間は、侯爵以外にもいる。君を捕らえたあと、万物堂を放置する保証はない」

「ですが、街への脅しは」

「君を渡した街だと知られれば、次も同じことをされる」

 バルドは静かに続ける。

「力のある者が要求すれば、住民を引き渡す街になる」

「それでも、私一人で済むなら」

「一人で済むかどうかを、君一人で決めるのか」

 エレノアは答えられなかった。

「出ていくなら止めない。ただ、自分が捕まることと、街が助かることが本当に同じか、考えた方がいい」

「では、どうすればよいのです」

「朝、街の人間に聞けばいい」

「私を差し出せと言われたら?」

「そのとき考える」

 ミケが扉の前から動いた。

 道が開く。

 エレノアは扉を見た。次に、椅子の下のライを見る。

 青い目が開き、こちらを見ていた。

 エレノアは外套を脱いだ。

「朝まで待ちます」

     ◇

 翌朝、万物堂の前には大勢の住民が集まっていた。

 マルタや鍛冶職人、肉屋。店へ来たことのない商人や農夫。街の役人と衛兵たち。

「公爵令嬢を引き渡すべきだ」

 交易商が声を上げた。

「侯爵家を敵に回して、街に何の得がある」

「得か損かの話なのかい」

 マルタが睨む。

「街が潰れたら、正義も何もない」

「その女を匿う義理はない」

「反逆者の娘なんだろう」

 視線がエレノアへ集まる。

「父は謀反を起こしていません」

 エレノアは前へ出た。

「ヴァレント侯爵の魔獣兵器化へ反対したため、罪を着せられました」

「証拠はあるのか」

「今はありません」

 ざわめきが強くなる。

「なら信じろという方が無理だ」

「公爵同士の争いへ、街を巻き込むな」

 エレノアは反論できなかった。

 実際、自分が争いを持ち込んだ。

 そのとき、ミケに助けられた少女の母親が前へ出た。

「私は、万物堂を守ってほしい」

 腕には娘を抱いている。

「あの黒猫がいなければ、この子は死んでいました」

「猫と公爵令嬢は別だ」

「私兵は、ライも連れていくと言っています」

 母親は店内を見た。

「あの子も実験に使われていたのでしょう」

 鍛冶職人も言う。

「昨日、私兵は店の中で剣を抜いた。客がいる前でだ」

「侯爵の命令だったんだろう」

「侯爵の命令なら、どこで剣を抜いても許されるのか」

 住民の意見は割れた。

 エレノアを引き渡すべきだという者。私兵の横暴を認めるべきではないという者。

 街は一枚岩ではなかった。

 やがて、衛兵隊長が前へ出た。

「正式な逮捕状は届いていない」

 低い声が通りへ響く。

「私兵が持っているのは、身柄の引き渡し要求だ。王国法に基づく逮捕命令ではない」

「侯爵に逆らうのか」

「法律の話をしている」

 隊長は住民たちを見る。

「彼女が無実だと決めたわけではない。だが、侯爵の私兵へ住民を勝手に渡す法律もない」

「住民ではないだろう」

「今、この街にいる者だ」

 隊長の後ろへ衛兵たちが並ぶ。

「正式な命令が届くまでは、強制連行を認めない」

 エレノアは深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

「礼は早い」

 隊長は街の入口を見る。

「相手が法律を気にするなら、最初から脅しには来ない」

     ◇

 正午。

 侯爵の私兵が十二人で現れた。

 昨日の指揮官が先頭にいる。

「答えを聞こう」

「正式な逮捕状を提示してもらう」

 衛兵隊長が答えた。

「侯爵閣下の命令書がある」

「王国法に基づくものではない」

 指揮官は冷笑した。

「ならば、街ぐるみで反逆者を匿っていると判断する」

 手が上がる。

 私兵たちが剣を抜いた。

「店へ入れ」

 バルドが住民へ告げる。

 人々が万物堂へ逃げ込む。扉と窓が閉じ、壁に淡い光が走った。

 私兵の一人が扉へ斧を振り下ろす。

 傷一つ付かない。

 二撃目の衝撃も壁と床へ逃がされ、兵士の腕だけが痺れた。

「裏へ回れ!」

 バルドが床へ手を置く。

 窓と裏口の結界が強まり、通りの石畳が変形して私兵の足を崩す。

「店主が戦っているのですか」

 エレノアが尋ねた。

「住民を守っている」

 バルドは建物から手を離さない。

 ミケの三本の尾へ黒炎がまとわりつく。

「ミケ。街を燃やすな」

 ミケは不満そうに耳を伏せた。それでも、ライの前へ立ち、外へは出ない。

 窓から魔法が撃ち込まれる。

 バルドが壁を変形させ、住民の前へ盾を作った。

 その隙に、裏口の結界が強力な魔道具で破られた。

 指揮官と二人の兵士が店内へ入る。

「エレノアを捕らえろ!」

 バルドは住民を守る壁から手を離せない。

 ミケが飛び出そうとした瞬間、指揮官が金属杭を床へ投げた。

 雷を封じる結界が広がる。

 ライの身体から、苦しそうに電光が漏れた。

 別の兵士が魔力吸収網を投げ、ミケの動きを止める。

 指揮官はエレノアの腕をつかんだ。

「離してください!」

「ようやく捕まえた」

 ライが椅子の下から出てくる。

 脚は震えている。それでも、エレノアへ近づこうとする。

「来ないで!」

 ライの身体から雷が溢れた。

 結界杭が押し返し、その力が仔猫自身を焼く。

 指揮官が笑った。

「まだ動けたのか、施設番号十二」

 ライが牙をむく。

「お前は守護獣ではない」

 指揮官はエレノアの腕を締め上げた。

「命令にも従えず、自分の雷で傷つく。失敗した兵器だ」

 ライの身体から雷が爆発した。

 床板が焦げ、窓が震える。

「ライ、だめ!」

 このままでは暴走する。

 研究施設で見たのと同じだ。

 恐怖と痛みが術式を起動し、力を無理に引き出している。

 バルドはライを見た。

 押さえつけない。魔力を封じようともしない。

「ライ」

 雷鳴の中でも、声ははっきり届いた。

「どうしたい」

 ライの耳が動く。

「君が決めていい」

 命令ではない。戦えとも、止まれとも言わない。

 ライはエレノアを見る。指揮官を見る。ミケを見る。

 最後にバルドを見た。

 身体を覆う雷が、一度弱まった。

 暴走する光が内側へ集まっていく。

 指揮官が結界杭へ魔力を流す。

「制御術式を起動しろ!」

 ライの身体へ痛みが走る。

 それでも、倒れなかった。

 一歩、前へ出る。もう一歩。

 エレノアを守るため。

 命じられたからではない。自分で選んで。

 ライが前脚を床へ置いた。

 青白い雷が店内を走る。

 金属が砕ける音。短い悲鳴。焦げた匂い。

 エレノアの身体には痛みがない。

 目を開ける。

 私兵たちは床へ倒れていた。

 剣は刃と柄に分かれ、鎧の留め具だけが焼き切れている。

 結界杭も砕けていた。

 誰一人、火傷を負っていない。雷は武器と防具、術式だけを壊していた。

 指揮官の手から力が抜ける。

 エレノアは腕を振りほどいた。

 ライは彼女の前に立っている。

 小さな背中。耳の先から煙が上がっている。

 敵が動かないことを確認すると、身体が揺れた。

「ライ」

 エレノアが呼ぶ。

 ライは倒れまいと踏ん張っている。

 バルドが一歩進むと、電光が反射的に弾けた。

 バルドは足を止めた。

 その場へ座り、手を床へ置く。

 呼ばない。触ろうとしない。

 ライは震えている。

 今度こそ治療が必要だ。

 それでも、バルドは待った。ライが自分で決めるまで。

 ライが一歩進む。

 止まる。

 バルドの手を見る。

 もう一歩。

 鼻先を近づけ、指の匂いを嗅ぐ。

 以前なら、そこで戻った。

 だが、今回は違った。

 ライは頭を下げた。

 灰色の額を、バルドの指先へ押しつける。

 淡い光が広がった。

 《万物修繕・再構成》。

 初めて、ライの身体全体へ力が届く。

 皮膚の下に刻まれた増幅術式。痛みで従わせる回路。逃走を防ぐ刻印。雷を無理に一方向へ流す導線。

 どれも、ライ本来の身体を無視して組み込まれている。

 バルドの顔が苦痛に歪んだ。

 ライが受けた痛みが流れ込んでいるのだ。

 それでも、手を離さない。

「全部壊せば、君の力まで弱くなる」

 バルドはライへ言う。

「だから、つなぎ直す」

 術式を消すのではない。命令へ従うための回路を、ライ自身の意思に反応する形へ変える。

 増幅の力を残したまま、身体を傷つけない流れへ組み替える。

 雷を奪わない。暴走だけを止める。

 青白い光が、ライの身体の内側へ収まっていく。

 耳の先の電光が、穏やかな明滅へ変わった。

 ライの身体から力が抜ける。

 バルドの手へ頭を預けた。

「終わった」

 ライは逃げなかった。

 額を指先へ押しつけたまま、小さく喉を鳴らした。

 エレノアの目から涙が落ちる。

 ライが服従したのではない。自分で、この人間へ触れることを選んだのだ。

     ◇

 私兵たちは武器を失い、街の衛兵に囲まれた。

 指揮官は壊れた鎧のまま、バルドを睨む。

「これで終わったと思うな」

「今日は終わりだ」

「侯爵閣下は必ず、お前たちを国家の敵として裁く」

「正式な書類を持ってくれば読む」

 指揮官はエレノアへ視線を向けた。

「お前の父親も、もう長くはもたない」

 エレノアの胸が締めつけられる。それでも目を逸らさなかった。

「父は謀反人ではありません」

「何を言っても同じだ」

「同じにはしません」

 エレノアは一歩前へ出た。

「逃げ続けるのは、もうやめます」

 指揮官の顔から、わずかに余裕が消えた。

「父の罪が偽造されたこと。侯爵が魔獣を兵器化していること。ライへ何をしたのか。すべて明らかにします」

「お前一人に何ができる」

「一人ではありません」

 エレノアは万物堂を見る。

 バルド。ミケ。ライ。街の衛兵。不安を抱えながらも、引き渡さないと決めた住民たち。

 全員が同じ考えではない。それでも、ここには自分で選んだ立場がある。

「私は逃げてここへ来ました」

 エレノアは言った。

「ですが、ここから先は、自分で進みます」

 指揮官は何も答えず、部下を連れて街を去った。

 戦いは終わっていない。本当の争いは、これから始まる。

 万物堂の中では、ライがバルドの手のそばで眠っている。

 ミケはその様子を見てから、バルドの膝へ乗った。

「重い」

 ミケは気にしない。

 ライは目を閉じたまま前脚を伸ばし、バルドの指へ触れた。

 今度は、治療のためではなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。