第8話 給仕用トレイは盾ではありません
エレノアが万物堂の帳簿を見たのは、店を手伝い始めた初日のことだった。
正確には、帳簿と呼べるものではなかった。作業台の端に置かれた一枚の板。
そこへ炭で、鍋。椅子。包丁。昼飯三人。と書かれている。
金額はない。依頼人の名前もない。修理が終わったのか、まだ預かっているのかも分からない。
「これは何ですか」
エレノアは板を持ち上げた。
「昨日の仕事だ」
バルドは厨房で豆のスープをかき混ぜている。
「記録ではなく、感想に近いのですが」
「何を直したかは分かる」
「誰から預かった物か分かりません」
「顔を見れば思い出す」
「料金は?」
「受け取った」
「いくらです」
バルドは考えた。
「鍋が銅貨五枚。椅子が三枚。包丁は一枚だったと思う」
「全部安すぎます」
「すぐ直った」
「作業時間だけで価格を決めてはいけません。技術料、材料費、魔力の消費、建物の維持費もあります」
「材料はほとんど使っていない」
「だから無料に近くてよいという話ではありません」
エレノアは板を裏返した。
そちらには、豆。鶏肉。パン。ミケの魚。と書かれていた。
「これは仕入れですか」
「ああ」
「金額がありません」
「肉屋に払った」
「いくらです」
バルドは再び考えた。
「銀貨二枚くらいだったか」
「くらいでは困ります」
「肉はもう食べたから、困らない」
「店が困るのです」
エレノアは額へ手を当てた。
公爵家の会計は、銅貨一枚まで記録された。
収入、支出、在庫、使用人の賃金。
庭の植木を一本入れ替えるにも、記録と承認が必要だった。
その厳密さを窮屈に感じたこともある。だが、万物堂を見たあとでは、公爵家の帳簿が文明そのものに思えた。
「ところで、営業時間は何時までですか」
「客がいなくなるまで」
「開店は?」
「起きて準備ができたら」
「定休日は?」
「疲れた日」
「それは営業規則ではありません」
窓辺で、ミケが尾を揺らしている。
客が持ってきた焼き魚を見ていた。
今朝来た鉱夫が、自分の朝食を机の端へ置いたまま、修理されたランタンを確認している。
ミケの前脚がゆっくり魚へ伸びた。
「ミケ」
エレノアが呼ぶ。
前脚が止まる。
「それはお客様の食事です」
ミケは魚を見る。次にエレノアを見る。
「駄目です」
ミケは不満そうに耳を伏せた。
鉱夫は笑いながら魚を一切れちぎろうとした。
「与えないでください」
「少しくらいなら」
「食事は店主が管理しています。塩分が強い物は身体によくありません」
鉱夫は魚を戻した。
「公爵様の屋敷みたいに厳しいな」
その言葉に、エレノアの身体が一瞬だけ固くなる。
自分の素性を知って言ったわけではない。単なる例えだ。
「猫の健康管理です」
平静を装って答える。
ミケはエレノアをじっと見たあと、鉱夫の魚へ背を向けた。
代わりに、作業台の上へ飛び乗る。
そこに置かれた炭筆を前脚で落とした。
「なぜ、私に抗議するのですか」
炭筆が床を転がる。
バルドが厨房から言った。
「言うことを聞いているだけ、気に入られているんじゃないか」
「これが好意なのですか」
ミケが二本目の炭筆を落とした。
「たぶん」
エレノアはため息をついた。
◇
昼までに、エレノアは新しい帳簿を作った。
紙を数枚まとめ、糸で綴じる。
修理依頼。依頼人。預かり日。予定料金。完了日。飲食の売上。仕入れ。
項目を分ける。
「今後、依頼を受けるときは、ここへ名前と品物を書いてください」
「覚えている」
「覚えているかどうかではありません」
「忘れたときのためか」
「あなた以外の人間にも分かるようにするためです」
バルドは帳簿を見た。
「君が見るのか」
「今は私が見ます」
口にしてから、エレノアは少し戸惑った。
今は。自分がいつまでここにいられるかは分からない。
追手は近くにいる。昨日、窓の外に人影を見た気もする。
それでも、目の前の店の混乱を放置できなかった。
「客席の配置も変えます」
「何か問題があるか」
「問題しかありません」
修理品を置く棚と客席が近すぎる。食事の客が工具へ手を伸ばせる。
ミケの逃げ道を塞ぐ位置に椅子が置かれている。
入口から厨房までの動線も悪く、料理を運ぶたびに客の間を縫わなければならない。
エレノアは机と椅子を移動した。
修理受付は入口の右。客席は左。厨房から客席まで、中央に通路を作る。
壁際と梁の下には、人間が座らない空間を残す。ミケが移動できる道だ。
ライは、暖炉から少し離れた椅子の下にいた。
まだバルドにもエレノアにも触らせない。だが、棚の奥からは出てくるようになった。
ミケが近くにいるときは、身体の力も少し抜ける。
バルドが同じ部屋で作業をしていても逃げない。
ただし、バルドが立ち上がると、必ず目で追う。
「この机を動かします」
エレノアが声をかける。
ライの耳が動く。
驚かせないよう、ゆっくり机を引く。
床を擦る音が出ると、ライの身体に青白い電光が走った。
「大丈夫です。こちらへは動かしません」
エレノアは机を途中で止めた。
ライが落ち着くまで待つ。
数日前なら、そんなことはできなかった。
急いで配置を変え、あとから安心させようとしただろう。
しかし今は、ライが見て、理解できる時間を取る。
バルドのやり方が、少しずつ分かってきた。
店の配置を終えると、客席は一つ減った。だが、修理受付と食事の場所が明確に分かれた。
ミケも客の頭上を通らず、窓辺から猫用の小部屋へ移動できる。
「狭くなったな」
バルドが言う。
「安全になりました」
「客が増えたら座れない」
「そのときは増築を考えてください。今は、椅子を詰め込む段階ではありません」
「増築ならできる」
「すぐやらなくて結構です」
バルドは少し残念そうだった。
この男は、直したり作ったりする理由があると、すぐ大がかりになる。
◇
午後、エレノアは給仕用の木製トレイを見つけた。
倉庫に残されていた物を、バルドが修繕したらしい。
表面は滑らかで、縁には持ちやすいよう丸みが付いている。
料理を運ぶにはちょうどよい。
「これを使います」
「ああ」
エレノアは煮込みとパンを載せた。
持ち上げる。
見た目より軽い。片手でも安定している。
客の机へ運び、空いた皿を回収する。
屋敷で給仕をした経験はないが、使用人の動きは見てきた。
店内の配置を変えたことで、客へぶつからずに歩ける。
「便利ですね」
「持ち手の重心を少し直した」
「これくらいの修繕なら、普通ですね」
「普通か」
「少なくとも、建物を一軒再生するよりは」
厨房へ戻る途中、ミケが足元を横切った。
「ミケ、危ないです」
エレノアは足を止めた。
トレイが手から滑る。床へ落ちた。
皿はすでに下げたあとだった。
大きな音がすると思い、エレノアは身構えた。
トレイは床へ落ち、縁で一度跳ねた。
それだけだった。
割れない。ひびも入らない。床にも傷がない。
エレノアは拾い上げた。
「丈夫ですね」
「少し補強した」
「木ですよね」
「ああ」
エレノアは両手で縁を押した。しならない。
机の角へ軽く当ててみる。傷一つ付かない。
「どの程度、補強したのですか」
「給仕中に落としても壊れない程度だ」
「今、落としました」
「壊れなかっただろう」
「そういう確認ではありません」
エレノアはトレイを作業台へ置き、近くにあった小槌を取った。
「何をする」
「確かめます」
軽く叩く。乾いた音。
少し強く叩く。小槌の方が跳ね返された。
「……少し?」
「少しだ」
エレノアの中で、少しという言葉の意味が崩れていった。
「これで魔獣の攻撃も防げるのではありませんか」
「試していない」
「試さないでください」
ミケがトレイへ前脚を伸ばす。
「あなたも叩かないでください」
ミケは不満そうに前脚を引いた。
椅子の下で、ライがそのやり取りを見ている。
電光は出ていない。ほんの少しだけ、耳が前へ向いていた。
◇
夕方、子どもが二人、母親と一緒に店へ来た。
トーマとは別の、まだ幼い兄妹だった。
二人はミケを見るなり、目を輝かせる。
「黒い猫!」
「触りたい!」
兄が走り出そうとした。
エレノアはすぐ前へ出る。
「走らないでください」
兄妹が足を止めた。
「猫が驚きます。まず、入口の規則を読んでください」
「字が全部読めない」
「では、説明します」
エレノアは目線を合わせるためにしゃがんだ。
「追いかけない。勝手に触らない。食べ物をあげない。猫が近づいてきても、すぐに抱こうとしない」
「でも、猫の店なんでしょう?」
「猫に触る店ではありません。猫と同じ場所で過ごす店です」
言ってから、自分の言葉に少し驚いた。
数日前まで、エレノア自身もライを治すためなら、押さえつけても触るべきだと思っていた。
今は、猫の意思を優先する規則を、他人へ説明している。
兄妹は不満そうだったが、母親に促されて席へ座った。
ミケは窓辺から二人を見ている。
近づかない。兄妹も追わない。
しばらくすると、ミケは窓辺から棚へ移った。
その動きを見られただけで、二人は小声で喜んだ。
椅子の下にはライがいる。
妹が灰色の耳に気づいた。
「あそこにもいる」
近づこうと身体を傾ける。
エレノアは静かに手で止めた。
「あの子は、人に近づかれるのがまだ怖いのです」
「病気?」
「怪我をしています」
「触ったら治る?」
エレノアは少し考えた。
「触ることで悪くなることもあります」
妹はライを見た。
「じゃあ、見ない方がいい?」
「見ても構いません。でも、逃げたいときに逃げられるようにしてあげてください」
妹は椅子を少し後ろへ引いた。
ライの前にある通路が広がる。
ライは動かなかった。だが、目を閉じた。
それは、少しだけ警戒を緩めたということかもしれない。
◇
日が傾き、客が少なくなった頃。三人の男が店へ入ってきた。
旅人を装っている。
色の違う外套。腰の剣も、革袋で柄を隠していた。だが、歩き方が揃っている。
扉を入った瞬間、店内の出口と窓を確認した。
エレノアには分かった。
兵士だ。しかも、見覚えがある。
研究施設の警備にいた男たちではない。だが、外套の下に着ている革鎧は同じ形式だった。
ヴァレント侯爵の私兵。
心臓が強く打った。それでも、エレノアはトレイを持ったまま表情を変えなかった。
「いらっしゃいませ」
三人のうち、中央の男が店内を見回す。
「食事はできるか」
「煮込みとパンがございます」
「それを三人分」
「承知しました」
声が震えないよう注意する。
背を向けたくはない。だが、露骨に警戒すれば正体を認めることになる。
エレノアは厨房へ向かった。
バルドは作業台で古い時計を直している。
一度だけ、彼と目が合った。バルドは何も言わない。しかし、三人が普通の客ではないことには気づいている。
ミケは梁の上。ライは椅子の下。
三人の男の視線が、店内を探っている。
やがて一人が、椅子の下の灰色の仔猫を見つけた。
「いたぞ」
小さく呟く。
エレノアの手が止まりかけた。
「何か?」
「珍しい猫だと思ってな」
男は席を立つ。
「お客様。店内では、猫へ勝手に近づかないようお願いします」
「猫?」
男は笑った。
「それを猫と呼んでいるのか」
ライの耳先に電光が走る。
男は革袋から、小さな金属片を出した。
術式検査具。
ライの魔力に反応し、赤く光る。
「確認した。侯爵家の雷帝種だ」
エレノアはトレイを置いた。
「違います」
「施設番号十二。右耳の内側に識別術式がある」
男はライへ近づく。
ライが椅子の下で身体を低くした。
「近づかないでください」
「侯爵家の所有物を回収するだけだ」
所有物。その言葉に、エレノアの中で恐怖より先に怒りが湧いた。
「この子は物ではありません」
男の視線がエレノアへ移る。
「やはり、あなたでしたか」
別の男が扉の前へ立つ。
三人目は窓を塞いだ。
「エレノア・アルヴェイン公爵令嬢。侯爵閣下がお待ちです」
店内に残っていた客たちが息を呑む。
エレノアはもう、否定しなかった。
「父を陥れ、私を監禁した方のもとへ戻るつもりはありません」
「あなたは保護されていた」
「鍵の掛かった部屋を、私は保護とは呼びません」
中央の男がため息をつく。
「公爵令嬢。おとなしくしていただければ、街へ迷惑は掛かりません」
「すでに掛けています」
バルドが言った。
男たちが作業台を見る。
バルドは時計から手を離した。
「客を怖がらせている。帰ってくれ」
「これは侯爵家の命令だ」
「この店では、店の規則が先だ」
「平民が侯爵家へ逆らうのか」
「今は店主だ」
バルドは立ち上がる。
「それに、ライは誰の所有物でもない」
中央の男が剣の柄へ手を掛けた。
「抵抗すれば、反逆者と見なす」
「武器を抜けば、客ではなくなる」
「最初から客ではない」
剣が抜かれた。
男はバルドへ踏み込む。
「危ない!」
エレノアは反射的にトレイを持ち上げた。
守ろうとしたのか。投げようとしたのか。
自分でも分からない。
手から滑ったトレイが、バルドと剣の間へ飛び込んだ。
刃が木製のトレイへ直撃する。
甲高い音。
剣が止まった。トレイは割れない。刃も通っていない。
「なっ……」
男が力を込める。
トレイはわずかにも曲がらない。
エレノアは目を見開いた。
「本当に盾になるではありませんか!」
「試していないと言った」
バルドは冷静に答えた。
別の兵士が横から踏み込む。
客席の椅子を蹴飛ばし、バルドへ剣を振るう。
椅子が床へ倒れる。その背もたれが剣を受けた。
木製の椅子は壊れず、逆に衝撃を吸収する。
兵士の腕だけが大きく跳ね返された。
「椅子まで!」
「客が転んでも壊れないようにした」
「程度がおかしいのです!」
三人目の兵士がエレノアへ向かう。
床板が小さく光った。
男の靴が床へ沈む。正確には、床板が足の形に変形し、靴を固定している。
「動かない!」
男が足を引く。
床は離さない。
外で待機していたらしい兵士たちが扉へ近づく。
その瞬間、扉が自動的に閉まった。
錠が掛かる。
外から強く叩かれるが、扉はびくともしない。
「扉まで勝手に!」
エレノアは店内を見回した。
トレイ。椅子。床。扉。どれもバルドが修繕した物だ。
単に元の形へ戻したのではない。この店で人が安全に過ごせるよう、すべての構造を調整している。
「これは店ではなく要塞です!」
「店だ」
「要塞です!」
梁の上で、ミケが三本の尾を現した。
黒炎がゆらめく。
ライも椅子の下で雷をまとっている。
兵士たちの顔が強張る。
バルドは一歩前へ出た。
「今日は帰れ」
「侯爵家を敵に回すことになるぞ」
「先に店で剣を抜いたのはそちらだ」
中央の男は周囲を見た。
剣はトレイに止められている。仲間の一人は床から動けない。
扉も開かない。
さらに、災厄級魔獣が頭上にいる。
勝てないと判断したらしい。
「分かった。今日は退く」
バルドが床へ触れる。兵士の足が解放される。扉の錠も外れた。
男たちはゆっくり後退した。
外へ出る直前、指揮官がエレノアを見た。
「明日までだ」
店の外には、さらに六人ほどの私兵がいた。
通りには住民が集まっている。
指揮官は、彼らにも聞こえる声で告げた。
「明日までに、エレノア・アルヴェイン公爵令嬢と侯爵家の魔獣を引き渡せ」
住民たちがざわめく。
「拒否した場合、万物堂だけではない」
指揮官は街全体を見回した。
「リュネールは反逆者を匿った街として扱われる」
エレノアの胸が冷たくなる。
自分が恐れていたこと。自分だけではなく、街を巻き込む。
指揮官は最後にバルドへ向けて言った。
「明日、答えを聞きに来る」
私兵たちは通りを去っていった。
誰も追わない。
店の中も外も、重い沈黙に包まれる。
住民たちの視線が、エレノアへ集まっている。
逃亡者。公爵令嬢。反逆者の娘。
どの顔で見られているのか、分からなかった。
エレノアはトレイを胸元へ抱えた。傷一つ付いていない。
先ほどまで可笑しく思えた規格外の修繕も、今は笑えなかった。
「バルドさん」
声が掠れる。
「私は、出ていくべきです」
バルドは答えなかった。
椅子の下から、ライがエレノアを見ている。
その耳元では、青白い雷が静かに光っていた。




