第7話 触れない治療
ライは、朝になっても肉を食べなかった。水は少し減っている。それだけだった。
灰色の仔猫は、暖炉から離れた棚の下へ身体を隠していた。暗がりの中で丸くなり、青白い瞳だけを外へ向けている。
耳の先では、ときおり細い電光が弾けた。
昨夜より弱い。弱くなったことが、回復を意味していないのは明らかだった。
放つ力さえ失いつつある。
「まだ触らないのですか」
エレノアは尋ねた。
バルドは壊れた椅子を作業台へ載せていた。
背もたれの接合部が外れ、座面にもひびが入っている。修理を頼みに来た客が、事情を聞いて店先へ置いていったものだ。
「ああ」
「昨日より悪くなっています」
「分かっている」
「分かっていて、何もしないのですか」
バルドは椅子の脚へ手を当てた。
木材が小さく軋み、歪んだ接合部が元の位置へ戻っていく。
何事もないように作業を続ける姿が、エレノアには理解できなかった。
ライは死にかけている。バルドには、それを治せる力がある。それなのに、彼は椅子を直している。
「治療を拒んでいるのは、ライです」
エレノアは言った。
「でも、この子は自分の状態を正しく判断できません。怖がっているからといって、そのままにするのが正しいとは思えません」
バルドは作業の手を止めなかった。
「そうだな」
「では」
「君の言うことにも理由はある」
椅子の背もたれが固定される。
バルドは修繕の状態を確かめ、別の角度から木目を見た。
「だが、押さえつけて触れば、ライは抵抗する」
「私が抱きます」
「君にも爪を立てる」
「構いません」
「雷も使う」
「それでも、このまま弱っていくよりは」
エレノアは棚の下を見た。
ライは二人の会話を聞いている。
人間の言葉をどこまで理解しているかは分からない。ただ、視線はエレノアではなくバルドへ向けられていた。
警戒している。自分の身体に近づくかどうかを、一瞬も見逃すまいとしている。
「貴族の屋敷では」
エレノアは言った。
「治療できる者が、治療をしなければ責任を問われます」
「そうだろうな」
「領地で疫病が出たのに、薬を配らない。傷ついた兵士がいるのに、治癒術師を動かさない。それは怠慢です」
「ライは領民でも兵士でもない」
「命であることは同じです」
「同じだ」
バルドはあっさり同意した。
反論されると思っていたエレノアは言葉に詰まる。
「だから、本人の意思を無視したくない」
「死んでしまえば、意思も何もありません」
「そうだな」
また同じ返事。
否定はしない。だが、バルドは動かない。
エレノアの苛立ちは増した。
「あなたは、いつもこうなのですか」
「どういう意味だ」
「何を言われても怒らない。否定もしない。そのくせ、自分の考えは変えない」
バルドは椅子から手を離した。
「そう見えるなら、そうかもしれない」
「その返し方です」
「怒った方が話しやすいか」
「そうではありません」
エレノアは息を吐いた。
自分でも、バルドへ怒りをぶつけていることは分かっていた。
本当に怖いのは、彼の態度ではない。
ライが死ぬことだ。
自分が連れ出したせいで。
◇
バルドの対応は、徹底していた。
食事の皿は、毎回同じ位置へ置く。水も同じ場所。
ライのいる棚と入口の間には、何も置かない。
逃げようと思えば、いつでも外へ出られる。
バルドは店内を歩くときも、棚の前を横切らないよう遠回りした。
大きな音が出る作業は裏の工房へ運ぶ。
金槌を使うときは、先に低い声で、
「少し音がする」
と告げた。
言葉が通じるかどうかではない。突然の音を避けるためだ。
ライを見つめることもしなかった。視界の端で状態を確認しながら、正面から目を合わせない。
ミケが近づこうとしたときにも、
「今はそこまでにしてくれ」
と止めた。
ミケは不満そうだった。同じ猫型魔獣なら、自分が近くにいる方が安心させられると思っているのかもしれない。
それでもバルドの言葉に従い、暖炉の横へ座った。
ただし、目だけはライから離さなかった。
エレノアには、何もしていないように見えた。だが、よく観察すると、何もしていないわけではない。
バルドは店の中から危険を一つずつ減らしている。ライが自分で動ける道を残しながら。
触れないまま、触れられる日を待っている。
それでも、時間があるとは思えなかった。
昼を過ぎる頃、ライは一度立ち上がろうとして失敗した。
前脚へ力を入れた瞬間、身体から雷が漏れ、棚の板を焦がす。
ライは驚いたように自分の脚を見た。
もう一度立とうとする。
今度は身体が傾き、横へ倒れた。
「ライ」
エレノアが近づく。
仔猫は彼女にまで牙をむいた。
傷つけたくないのだ。自分から漏れる雷が、エレノアへ当たることを恐れている。
エレノアは足を止めた。
「大丈夫です。私は怖くありません」
ライはさらに棚の奥へ下がった。
エレノアの胸が痛んだ。
怖くないという言葉は、ライの恐怖を消さない。
分かっている。それでも、何か言わずにはいられなかった。
◇
「ライは、どこで傷ついた」
夕方、バルドが尋ねた。
店は休業の札を出している。
修理品だけを受け取り、食事の客は断っていた。
エレノアは長椅子へ座り、手の中で冷めた薬草茶を見つめていた。
話すべきか迷った。
本名さえ偽っている。相手が誰かも、まだ完全には分からない。
バルド・グレイン。元S級冒険者。銀剣の黎明を支えた修繕士。
その名は知っていた。
公爵家の晩餐でも、何度か話題に上がったことがある。
だが、名声が人格を保証するわけではない。
それでも、昨夜からバルドは何も要求していない。身分も、報酬も、追手の正体も。
エレノアとライが逃げられる道すら塞いでいない。
「研究施設です」
エレノアは答えた。
バルドは黙って続きを待つ。
「ヴァレント侯爵家が管理している施設です。表向きは、魔獣による被害を防ぐための研究所となっています」
「実際には?」
「魔獣を兵器として使う研究をしています」
言葉にすると、改めて吐き気がした。
地下の冷たい廊下。鉄の扉。鳴き声。薬品の匂い。
「ライは、雷帝種と呼ばれていました」
エレノアは続けた。
「成長すれば、一国の軍隊に匹敵する力を持つと。幼いうちから術式を刻めば、人間の命令に従う兵器にできると考えられていたのです」
ライの皮膚の下には、細い術式が何本も埋め込まれている。
魔力を増幅する術式。
痛みによって命令へ従わせる術式。
逃走を防ぐ術式。
本来の力を育てるためではない。人間が使いやすい形へ歪めるためのものだ。
「私は、その施設へ連れていかれました」
「侯爵の研究を見るためか」
「違います」
エレノアは指を強く握った。
「私の血が必要だったのです」
バルドの目がわずかに細くなる。
「アルヴェイン家の血には、魔獣の魔力へ干渉する性質があると、侯爵は考えています」
本名を口にしてしまった。もう隠せない。
「私は、エレノア・アルヴェインです」
「公爵令嬢か」
「ご存じなのですか」
「名前くらいは」
驚きは見せない。態度も変わらない。
「父は現在、謀反の疑いで拘束されています」
「事実なのか」
「違います」
声が強くなった。
「父は、侯爵が進める魔獣の軍事利用へ反対しました。その直後、謀反の証拠が見つかったのです。あまりにも都合がよすぎます」
「それで君も捕らえられた」
「保護という名目でした」
エレノアは苦く笑った。
「侯爵家は、私を丁重に扱いました。部屋も食事も用意されました。ただし、扉には鍵が掛かっていました」
研究施設へ移された夜。
地下から聞こえた声に導かれ、エレノアはライを見つけた。
小さな檻。身体へつながれた導線。何度も雷を引き出され、立つ力も失っていた。
「目が合いました」
エレノアは棚の下を見る。
「助けを求められたわけではありません。むしろ、人間すべてを憎んでいる目でした」
それでも、置いていくことができなかった。
警備の隙を見て檻を開けた。
ライは最初、エレノアにも噛みついた。
それでも外套へ包み、研究施設から逃げた。
「私が連れ出したせいで、追われています」
「君が連れ出さなければ、どうなっていた」
「次の実験が行われていました」
「なら、逃げたこと自体は間違っていない」
「でも、この子は今、死にかけています」
エレノアは立ち上がった。
「私にもっと知識があれば。もっと早く安全な場所へ着けていれば。追手からうまく隠れられていれば」
「全部、君の責任か」
「私が連れ出したのです」
「助けた責任と、相手の全部を背負うことは違う」
バルドの言葉は穏やかだった。だが、簡単に受け入れられない。
「違いません」
「違う」
初めて、バルドがはっきり否定した。
エレノアは顔を上げる。
「君は、ライを檻から出した。だが、ライが受けた傷を作ったのは君じゃない。追ってきたのも君じゃない。今、怖がっていることまで君の失敗にしたら、この子が自分で感じていることまで奪うことになる」
「奪う?」
「ライは君の責任を証明するために苦しんでいるんじゃない」
エレノアは何も言えなかった。
助けなければならない。死なせてはいけない。
その思いは、いつの間にか自分の罪を減らすための焦りにもなっていたのかもしれない。
「では、私は何をすればいいのです」
「そばにいればいい」
「それだけですか」
「それだけしかできないときもある」
バルドは棚の下へ視線を向けた。
「それは、何もしないこととは違う」
◇
夜になった。
ライは肉を食べない。水は、昼間に一度だけ口を付けた。
それだけで、バルドは皿の位置も中身も変えなかった。
新しい肉へ替え、同じ場所へ置く。
古いものはライが見ていないときに下げた。
「なぜ、あの魔獣が怖くないのですか」
エレノアは尋ねた。
バルドは作業台で、小さな木箱を直していた。
客から預かった裁縫箱だ。
「ミケのことか」
「ミケもです。ライも」
「怖くないわけじゃない」
「そうは見えません」
「ミケに初めて会ったときは、黒炎を浴びた」
「それで、猫だと思ったのですか」
「腹が減っていたからな」
「普通は、先に災厄級魔獣だと思います」
「騎士団もそう言っていた」
バルドは木箱の蓋を開閉し、具合を確かめた。
「怖いからこそ、怖がらせない方がいい」
「なぜ、そこまで分かるのです」
バルドの手が止まった。ほんの一瞬。
視線が、作業台の脇に置かれた古い工具箱へ向く。
「怖がらせて何かが良くなったことは、これまで一度もなかったからね」
それ以上は話さなかった。
だが、その言葉は考えだけから出たものではない。
経験。失敗。後悔。
エレノアには、そう聞こえた。
「以前にも、傷ついた魔獣を?」
バルドは木箱を閉じた。
「今日は休んだ方がいい」
答えになっていない。答えたくないのだろう。
エレノアは追及しなかった。
ライを急かすべきではないと言われたばかりで、今度はバルドを急かすことはできなかった。
◇
夜半を過ぎた頃。
バルドは作業台へ腕を組み、座ったまま眠っていた。
長椅子で横になっていたエレノアは、眠れずに天井を見ていた。
ライの呼吸が気になる。少し音が変わるだけで、身体を起こしてしまう。
暖炉の火が小さく揺れている。ミケは窓辺で眠っている。
静かな夜だった。
やがて、棚の下で布が擦れる音がした。
エレノアは顔だけを向ける。
ライが出てきた。前脚を一本ずつ確認するように置き、ゆっくり歩いている。
まだ足元は不安定。それでも、自分の力で棚の外へ出た。
水皿ではない。肉の皿でもない。ライは作業台へ向かっている。
眠っているバルドの右手が、椅子の横へ垂れていた。
昨夜、雷を受けた手。袖には焦げた跡が残っている。
ライは何度も立ち止まった。
バルドの呼吸。手。逃げ道。ミケの位置。
すべてを確かめながら近づく。
エレノアは声を出さなかった。
起き上がりもしない。ただ、見ていた。
ライがバルドの指先まで、あと一歩のところへ来る。
首を伸ばす。鼻先が、手の匂いを嗅ぐ。触れはしない。
少しでもバルドが動けば逃げられるよう、後脚へ力を残している。
バルドは眠ったままだった。
ライはしばらく匂いを嗅いだあと、ゆっくり後退した。
エレノアは胸の奥に、小さな安堵を感じた。
治療を受け入れたわけではない。信じたわけでもない。ただ、確認しに来た。
自分を傷つけない人間かもしれないと。
ライは肉の皿へ向かった。
匂いを嗅ぐ。一切れを口へ入れる。
飲み込むまでに時間がかかった。
それでも、もう一切れ食べた。
エレノアの目に涙が浮かんだ。声を出せば、すべてが壊れる気がした。
口元を手で押さえる。
ライは三切れ食べたところで皿を離れた。
棚の下へ戻る途中、ミケの前で立ち止まる。
ミケは目を閉じたまま、尾だけを一度動かした。
ライも何もせず、その横を通り過ぎた。
小さな灰色の身体が、暗がりへ消える。
エレノアはようやく息を吐いた。
何もしていないように見えた一日。だが、ライは自分で外へ出た。
自分でバルドへ近づいた。自分で食べた。
誰にも命令されずに。
◇
翌朝。
バルドは空になりかけた皿を見た。
「食べたな」
エレノアは頷いた。
「あなたの手の匂いも嗅いでいました」
「そうか」
「起きていたのですか」
「寝ていた」
本当に気づいていなかったらしい。
「触れませんでした。でも、近くまで」
「十分だ」
バルドは新しい水を用意した。昨日と同じ位置へ置く。
「昨日は、申し訳ありませんでした」
エレノアは頭を下げた。
「治せるのに治さないと、あなたを責めました」
「君の考えも間違ってはいない」
「ですが、私はライを助けることより、自分の焦りを優先していました」
バルドは少し考えた。
「急ぐのは悪いことじゃない」
水皿から手を離す。
「大事だから焦るんだ」
「それでも、急かしてよい理由にはなりません」
「次に分かっていればいい」
責めない。慰めすぎもしない。
ただ、そのまま受け止める。
エレノアは棚の下を見た。
ライの青い目が、こちらを見ている。
昨日までより、ほんの少しだけ身体が入口へ近い。
バルドは椅子の修理を再開した。
いつもどおりの音。いつもどおりの位置。
ライが見ていられる距離で。
◇
同じ朝。
リュネールの宿屋へ、五人の男が到着した。
雨具の下には、統一された革鎧。胸元にはヴァレント侯爵家の紋章が隠されている。
指揮官は宿の主人へ、一枚の紙を広げた。
そこには、肩までの金髪を持つ若い女の顔が描かれている。
「この女を見なかったか」
宿の主人は絵を見つめた。
「知らないね」
「公爵家から逃げた重罪人だ。匿えば、この街にも責任が及ぶ」
男は銀貨を机へ置く。
「昨夜、森から入った女がいるはずだ。灰色の魔獣を連れている」
宿の主人の目が、わずかに動いた。
指揮官はそれを見逃さなかった。
「街外れの店について聞きたい」
男は言った。
「万物堂という名らしいな」




