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第6話 雨の夜の逃亡者

 雨が、森を白く煙らせていた。枝から落ちる雫が頬を打つ。

 ぬかるんだ地面へ足を取られ、エレノアは何度目か分からないほど転びかけた。

 左肩が熱い。矢は抜いた。だが、傷口から流れた血が雨に混じり、袖を濡らしている。

 それでも立ち止まることはできなかった。

「もう少しです」

 胸元へ抱いた小さな身体へ、エレノアは声をかけた。

 返事の代わりに、弱い唸り声がする。

 灰色の仔猫だった。まだ片腕で抱えられるほど小さい。

 雨に濡れた毛は身体へ張りつき、細い輪郭があらわになっている。

 耳の先では、青白い電光が断続的に弾けていた。

「大丈夫。今度こそ、安全な場所を見つけます」

 自分へ言い聞かせるための言葉でもあった。

 背後で、馬の嘶きが聞こえた。

 エレノアは息を止める。

 雨音の向こう。蹄が泥を踏む音。少なくとも三頭。

 まだ追ってきている。

「いたぞ!」

 遠くで男の声がした。

 森の中に魔法の光が上がる。

 探索用の照明弾。青白い光が木々の隙間を照らし、エレノアの濡れた外套を一瞬だけ浮かび上がらせる。

「北だ!」

「逃がすな!」

 声が近づいてくる。

 エレノアは歯を食いしばり、再び走った。

 胸元で仔猫が身じろぎする。

「だめ」

 エレノアは腕へ力を込めた。

「もう力を使わないで」

 仔猫は彼女を見上げた。

 濁った青色の瞳。苦しそうに息をしている。それでも背後へ顔を向け、耳を伏せた。

 電光が毛の間を走る。

「本当に、だめです」

 エレノアが言い終える前に、仔猫の身体から雷が放たれた。

 稲妻が森を横切る。追手の方角で馬が悲鳴を上げた。

 枝が砕け、地面が揺れる。

 その反動で、仔猫の身体が大きく痙攣した。

「ライ!」

 エレノアは立ち止まり、仔猫を抱き直す。

 ライは口を開けているが、鳴き声も出ない。

 耳の先から漏れていた電光が、急激に弱まった。

「なぜ……」

 自分を守ろうとしたのだ。分かっている。

 研究施設を出てから、ずっとそうだった。

 追手が近づくたび、ライは残った力を振り絞った。

 小さな身体で、エレノアの前へ出ようとした。

 そのたびに、呼吸は浅くなった。

「守らなくていいのです」

 エレノアの声が震える。

「あなたを助けるために、連れ出したのですから」

 ライは目を閉じかけた。

 追手の声がまた聞こえる。

「雷帝種だ! 殺すな!」

「令嬢も無傷で捕らえろ!」

 エレノアは自分の肩を見た。彼らにとって、この程度は傷に入らないらしい。

 捕らえられれば、ヴァレント侯爵のもとへ戻される。ライは再び研究施設へ。

 自分は父へ罪を認めさせるための道具として使われる。

 それだけは避けなければならない。

 エレノアは森の先を見た。

 雨の向こうに、淡い灯りがある。

 街だ。もう少し。

 あそこまで行けば、誰かに助けを求められる。

 誰を信用してよいのかは分からない。それでも、森の中で追いつかれるよりはいい。

 エレノアはライを抱き、再び走り出した。

     ◇

 リュネールの門は閉まりかけていた。

「待ってください!」

 エレノアが叫ぶ。

 門番がこちらを見る。

 泥だらけの女が仔猫を抱えて走ってくる。どう見ても不審だっただろう。

「止まれ!」

 門番が槍を構えた。

「身分を示せ!」

「旅の者です」

 嘘ではない。だが、十分な答えでもない。

「この時間に森から?」

「追われています」

 門番の表情が険しくなる。

 背後から、遠く馬の音がした。

「犯罪者か」

「違います」

「なら、誰に追われている」

 答えれば、公爵令嬢であることが露見する。ヴァレント侯爵の私兵が来れば、門番がどちらを信じるか分からない。

 エレノアは言葉に詰まった。

 胸元のライが低く唸る。

 門番は仔猫を見る。

 耳元で弾ける電光に気づき、槍を向け直した。

「その魔獣は何だ」

「怪我をしています」

「下へ置け」

「できません」

「危険種なら、街へ入れるわけにはいかない」

「この子は誰も襲いません」

 背後の蹄音が近づいている。

 エレノアは門番を見つめた。

「お願いします」

 門番は迷った。

 そのとき、街の外で再び雷鳴が響いた。

 追手が近い。

 門番は舌打ちし、門を少しだけ広げた。

「入れ。だが、騒ぎを起こしたら拘束する」

「ありがとうございます」

 エレノアは頭を下げ、門の中へ駆け込んだ。

 街は夜の雨に沈んでいた。ほとんどの店は閉まり、窓の灯りも少ない。

 どこへ行けばいい。

 宿屋。教会。衛兵詰所。

 どれも身元を確認される。侯爵の手が回っている可能性もある。

 ライの身体がまた震えた。

「分かっています」

 エレノアは濡れた前髪を払い、通りを見回した。

 街外れに、一軒だけ灯りのついた建物がある。

 二階建ての古い店。入口に看板が掛かっている。

 修理・軽食 万物堂。

 その横には、別の板。

 猫がいます。

 嫌がることはしないでください。

 エレノアは看板を見つめた。

 今は、そこに賭けるしかなかった。

 扉まで走り、拳で叩く。

「お願いします!」

 中で物音がする。

「誰か……」

 扉が開いた。

 大柄な男が立っていた。

 四十代ほど。生成り色のシャツと革のエプロン。

 腰に剣はない。だが、その立ち方には隙がなかった。

「どうした」

 低いが穏やかな声。

 エレノアは答えようとした。

「この子を……」

 そこで膝から力が抜けた。

 男が腕を伸ばす。

 身体を支えられる直前、胸元から青白い光が弾けた。

 雷が男の手を打つ。

 焦げた匂い。

「ライ、やめて……」

 エレノアは言ったつもりだった。

 声になったかは分からない。

 視界が暗くなる。

 最後に見えたのは、男の手へ爪を立て、必死に威嚇する小さな灰色の影だった。

     ◇

 扉の前で倒れた女を、バルドは片腕で支えた。

 同時に、右手へ雷が走る。

 指先から肩まで、鋭い痛みが突き抜けた。

 シャツの袖が少し焦げる。

 女の胸に抱かれていた灰色の仔猫が、毛を逆立てていた。

 身体は小さい。ひどく痩せている。

 それでも、女とバルドの間へ入ろうとしている。

「この人を守っているんだな」

 バルドが言う。

 仔猫は牙をむいた。耳の先で電光が弾ける。

 もう一度雷を放つつもりらしい。

 だが、力が足りていない。

 前脚が震え、立っていることすら難しそうだった。

「分かった。取らない」

 バルドは女の身体だけを支えた。

 仔猫を抱き上げようとはしない。

 女を店内の長椅子まで運ぶ間も、仔猫は胸元の外套へ爪を立てて離れなかった。

 ミケが梁の上から顔を出す。

 見慣れない人間と仔猫。

 さらに、店内へ漂う異常な魔力。

 三本の尾がうっすらと現れた。

「ミケ。近づくな」

 バルドが言う。

 ミケは不満そうに耳を動かしたが、梁から下りなかった。

 女を長椅子へ寝かせる。

 肩から血が流れている。

 外套をずらすと、矢傷があった。矢そのものは抜かれているが、傷口が裂けたままだ。

 出血も多い。

 バルドが手を近づけると、仔猫が唸った。

「この人を治す」

 言葉が通じるかは分からない。

「お前には触らない」

 仔猫は警戒を解かない。それでも、女の肩へ手を置くことまでは妨げなかった。

 バルドは《万物修繕》を使う。

 傷は深いが、骨や大きな血管までは損傷していない。鏃に毒もなかった。

 傷口を洗い、裂けた筋肉と皮膚をつなぐ。

 失った血までは戻せない。しばらく休む必要がある。

 修繕の間、仔猫は一度も目を逸らさなかった。

 バルドの指。女の傷。周囲。逃げ道。

 すべてを確認している。

 ミケが梁から棚へ移った。

 仔猫の視線がすぐに向く。

 背中の毛がさらに逆立った。

 ミケは棚の端へ座り、鼻を動かした。

 仔猫の身体から漏れる魔力を嗅いでいるらしい。

 やがて金色の目が細くなった。

「何か分かるか」

 バルドが尋ねる。

 ミケは仔猫を見たまま、尾を強く床へ打ちつけた。

 怒っている。仔猫自身にではない。その身体から感じる何かに。

 バルドにも分かった。

 雷の魔力が不自然だった。

 本来、体内を循環するはずの魔力が、決められた経路へ無理に押し込まれている。

 皮膚の下には、細い術式の痕跡。

 自然に生まれたものではない。誰かが、この仔猫の身体へ手を加えている。

 仔猫がミケへ雷を放った。弱い電撃。

 棚の手前で消える。

 ミケは避けもしなかった。

 怒ることもなく、棚から下りる。

 仔猫が再び身構える。

 ミケは三歩ほど離れた床へ座った。

 それ以上は近づかない。

「分かるんだな」

 バルドが言う。

 ミケは答えない。ただ、仔猫を刺激しない距離を保っている。

 バルドは女へ毛布を掛けた。

 暖炉へ薪を足す。

 仔猫は女の胸元から離れない。

 呼吸が浅い。身体の周囲では、青白い雷が不規則に漏れている。

 治療が必要なのは明らかだった。

 だが、今触れれば激しく抵抗する。

 ミケのときと同じだった。いや、ミケより警戒が強い。

 仔猫は自分のためではなく、この女を守るために残っている。

 それがさらに無理をさせていた。

「まず、この人が目を覚ますのを待つか」

 バルドは少し離れた椅子へ座った。

 仔猫は彼を睨み続けた。

     ◇

 女が目を覚ましたのは、夜が深くなってからだった。

「ここは……」

「万物堂だ」

 バルドは厨房で湯を沸かしていた。

 女は跳ね起きようとする。肩を押さえ、顔を歪める。

「傷は塞いだが、血が足りない。急に動かない方がいい」

「ライは?」

 灰色の仔猫が、長椅子の脇から顔を出す。

 女の表情が緩んだ。

「よかった」

 仔猫は長椅子へ飛び乗ろうとした。

 だが後脚に力が入らず、途中で落ちかける。

 女が慌てて抱き上げた。

 ライは胸元へ潜り込み、バルドを警戒する。

「あなたが治療を?」

「ああ」

「ありがとうございます」

 女は頭を下げた。

「お名前を伺っても?」

「バルドだ」

 女は一瞬、目を見開いた。

 その名を知っているらしい。だが、何も言わなかった。

「あなたは?」

 バルドが尋ねる。

 女の指がわずかに強くライを抱く。

「エレナと申します」

 明らかに本名ではない。

 貴族風の言葉遣い。質のよい外套。泥に汚れていても分かる仕立て。

 追手から逃げている理由も、普通の旅人ではないのだろう。

 バルドはそれ以上聞かなかった。

「しばらく、ここへ置いていただけませんか」

「構わない」

 女は意外そうに顔を上げた。

「理由を聞かないのですか」

「話したくなったら話せばいい」

「追われているかもしれません」

「そうだろうな」

 矢傷がある。森を夜中に走ってきた。仔猫は人間を極端に警戒している。

 追われていない方がおかしい。

「ご迷惑をおかけします」

「もう店の扉は焦げた」

 バルドは雷を受けた手を見せた。

「今さらだ」

 女は言葉に詰まった。

 そのとき、ライの身体から強い雷が漏れた。

 長椅子の金具へ電撃が走る。

 仔猫が苦しそうに身体を丸める。

「ライ!」

 女は抱きしめようとする。

 ライは痛みで爪を立て、彼女の腕を引っかいた。

 それでも女は離さない。

「下ろした方がいい」

 バルドが言う。

「でも」

「身体の魔力が暴れている」

 女は床へ毛布を敷き、ライを下ろした。

 仔猫は立とうとするが、脚が震える。

 青白い電光が身体のあちこちから漏れ、床板を焦がした。

 バルドが近づく。

 ライは即座に威嚇した。

 先ほどより激しい。

 耳を伏せ、牙をむき、残った力で雷を放つ。

 バルドは一歩手前で止まった。

「触れれば、状態を見られる」

「では、お願いします」

 女が言う。

 バルドは手を伸ばさない。

 ライの目には、明確な恐怖がある。治療されると理解していない。

 人間に触れられれば、また何かをされると思っている。

「近づくぞ」

 バルドが声をかける。

 ライの雷が強くなる。

 身体そのものが苦しんでいるのに、なお抵抗しようとしている。

 バルドはその場へしゃがんだ。それ以上進まない。

「なぜ止まるのです」

 女の声に焦りが混じる。

「このままでは危険なのでしょう」

「ああ」

「あなたなら治せるのではありませんか」

「触れれば、治せる可能性はある」

「なら!」

 女が声を上げる。

 ライが驚き、さらに身体を固くした。

 バルドは仔猫を見たまま答えた。

「今は、俺に触られる方がこの子にはつらい」

「死んでしまったら意味がありません」

「無理に押さえつければ、残った力を全部使って抵抗する」

「それでも治療を」

「身体を直すために、もう一度怖がらせるのか」

 女は口を閉じた。

 バルドは責めるつもりはなかった。

 焦る理由も分かる。大切だからこそ、今すぐ治したい。だが、治療する側の都合だけで触れてよいとは思えなかった。

「何もしないのですか」

「今はな」

 バルドは立ち上がり、厨房へ向かった。

 柔らかく煮た鶏肉を、小さくほぐす。塩も香草も入れていない。

 浅い皿へ水を入れる。

 ライから十分に離れた場所へ置いた。

「食べられるときに食べればいい」

 ライは皿を見ない。バルドだけを睨んでいる。

「俺は向こうにいる」

 作業台の椅子へ戻る。

 ミケも近づかず、暖炉のそばへ座った。

 女は納得していない顔をしている。それでも、ライを抱き上げようとはしなかった。

 夜は静かに過ぎていった。

     ◇

 万物堂の向かい。

 雨に濡れた路地の影から、一人の男が店を見ていた。

 暗い外套の下には、ヴァレント侯爵家の徽章。

 斥候は二階の窓と裏口を確認する。それから、小さな紙片へ記す。

 対象、万物堂へ侵入。同行していた雷帝種も確認。

 店主はバルド・グレイン。

 男は紙を丸め、小さな筒へ入れた。

 魔力を通すと、筒は青い鳥の形へ変わり、雨の中へ飛び去った。

     ◇

 翌朝。

 エレノアは長椅子の上で目を覚ました。

 暖炉の火は弱く残っている。

 バルドは作業台へ腕を組み、座ったまま眠っていた。

 ミケは窓辺。

 ライは昨夜と同じ場所で身体を丸めている。

 肉の皿には、手がついていない。

 エレノアの胸が沈む。だが、水皿の位置だけが少し動いていた。

 元の場所から、仔猫の身体一つ分だけ近い。

 水面も、わずかに減っている。

 エレノアはライを見た。

 仔猫は目を閉じている。眠っているのか、眠ったふりをしているのかは分からない。

 バルドが目を開けた。

 水皿を見る。

 何も言わず、ほんの少しだけ頷いた。

 昨夜と変わらないように見えても、ライは自分で一歩だけ動いていた。



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