第5話 保護猫カフェ・万物堂
万物堂の正式な開店日は、三日後の日曜に決まった。
決めたのはバルドではない。
「店を開けるなら、日を決めて張り紙を出しな」
修理した鍋を受け取りに来たマルタが、入口の横に掛けられた板を見て言った。
猫がいます。
嫌がることはしないでください。
許可なく武器を抜かないでください。
「今も客は入れる」
「それは開店とは言わないよ。あんたが店にいて、扉が開いているだけだ」
「違うのか」
「大違いだね」
マルタは呆れたように息を吐いた。
手には、塩気の少ない干し魚がある。
窓辺に座るミケは、最初から袋だけを見ていた。
「料金表は?」
「まだない」
「営業時間は?」
「起きてから暗くなるまで」
「休みは?」
「疲れた日」
「それで商売ができると思っているのかい」
「昨日、銀貨一枚を稼いだ」
「その銀貨は開店祝い込みだよ」
マルタは干し魚を一匹、床へ置いた。
ミケはすぐには近づかない。魚とマルタを交互に見たあと、ゆっくり窓辺から下りた。
匂いを嗅ぎ、一口で食べる。
「覚えているらしいな」
「私じゃなくて、魚をね」
マルタは笑った。
「日曜は何人か連れてくる。食事も出すんだろう?」
「煮込みとパンなら」
「それでいい。明日、市場で食材を揃えな」
「修理屋なのに?」
「あんたが看板へ軽食と書いたんだろう」
入口には、確かにそう書いてある。
修理・軽食 万物堂。
バルドは削るつもりはなかった。
冒険者時代、傷ついた仲間が温かい食事を口にすると、少しだけ表情を取り戻した。
直すべきものは、剣や鎧だけではない。
「分かった」
「それと、猫の規則も増やしな。見たい客は来る。でも、猫を見世物にする店なら、私は誰も連れてこないよ」
バルドはミケを見た。
ミケには客を楽しませる義務はない。
眠りたければ眠る。隠れたければ隠れる。触られたくなければ逃げていい。
「規則を作る」
「ようやく店らしくなってきたね」
◇
開店前日。
入口の壁に、新しい板が掛けられた。
万物堂の約束。
一、猫が嫌がることをしない。
二、許可なく抱き上げない。
三、追いかけない。
四、食べ物を勝手に与えない。
五、武器と攻撃魔法は使わない。
最後に、
猫が姿を見せない日もあります。
と加えた。
「どうだ」
ミケは板を見上げている。
文字が読めるかは分からない。ただ、「抱き上げない」の辺りへ前脚を置き、板を押した。
「そこが重要か」
ミケはもう一度押す。
「分かった。抱き上げない」
満足したように離れていった。
店内にも手を入れた。
梁と棚の間に、ミケが客へ近づかず移動できる通路を作る。
客席の奥には、人間が入れない猫用の小部屋。
窓際には日当たりのよい台。暖炉のそばには毛布。
ミケは一通り確認したあと、どれも使わず、作業の邪魔になる梁の上へ座った。
「作った場所を使えばいいだろう」
ミケは尾だけを動かした。
料理は、鶏肉と根菜の煮込み、豆のスープ、平たいパン。
冒険者時代、限られた材料で大人数の食事を作ってきたため、味は悪くない。
問題は、一人分の量が分からないことだった。
鍋には、三十人が食べられそうな煮込みができている。
「客が来なければ、しばらく同じ物を食べることになるな」
ミケが鍋の匂いを嗅ぐ。
「お前の分は、味を付ける前に取ってある」
小皿へ鶏肉を置く。
ミケはすぐに食べ始めた。
どうやら味に問題はない。
◇
開店日の朝。
バルドが扉を開けると、店の前に十四人いた。
「多いな」
「何人か連れてくると言っただろう」
先頭のマルタが答える。
「十四人は何人かではない」
「細かい男だね」
その後ろには、鍛冶職人、肉屋、洗濯屋、鉱夫らしい男たち。子どもも四人いる。
全員が店ではなく、その奥を見ていた。
「最初に規則を読んでくれ」
バルドは入口の板を指した。
客たちは文字を追う。
「猫が姿を見せない日もあります、か」
肉屋が言う。
「今日はいるのか」
「いる」
「どこに?」
「本人が出てくるまで待て」
客たちは恐る恐る店へ入った。
最初の修理依頼は、木製の玩具だった。
小さな馬車。車輪が一つ外れている。
持ってきた少年が尋ねる。
「直せる?」
「ああ」
「いくら?」
「銅貨一枚」
マルタが咳払いする。
「二枚」
マルタはまだ不満そうだったが、黙った。
軸の折れた部分をつなぎ、歪みを直す。車輪が滑らかに回るようになった。
「できた」
少年は玩具を床へ置き、走らせた。
「前より速い!」
「少し軸を整えた」
「ありがとう!」
少年の声に反応し、梁の上で黒い尾が動いた。
客たちが一斉に見上げる。
ミケがいた。いつからそこにいたのか、梁の影から全員を見下ろしている。
店内が静まり返った。
「普通にしていればいい」
バルドが言う。
「普通って何だ」
「急に立たない。追わない。目を合わせ続けない」
「それで大丈夫なのか」
「今までのところは」
安心できる説明ではなかったらしい。
客たちは不自然なほどゆっくり動き始めた。
煮込みとパンの注文が入る。
修理品も次々に作業台へ置かれた。
折れた包丁。取っ手の外れた桶。音の出ない古いオルゴール。
バルドは厨房と作業台を行き来する。
一人で両方を担当するのは、思った以上に忙しい。
煮込みをよそっている間に修理の説明を求められ、鍋を火へ戻すとパンが焦げかける。
「修理屋か食堂か、どちらかにした方がいいんじゃないか」
鍛冶職人が言う。
「両方やると看板に書いた」
「書いたからって、一人でできるとは限らないだろう」
「今のところはできている」
その直後、パンから煙が上がった。
客席から笑いが起きる。
バルドは焦げた部分を削り、残った部分を修繕して戻した。
「料理まで直すのか」
「焦げる前の部分は残っている」
「便利すぎるだろう」
笑い声が広がる。
張り詰めていた店内の空気が、少しずつほどけていった。
ミケは梁の上から、それを見ていた。
◇
客の中に、一人だけ店へ入れない少年がいた。
十歳くらいか。入口の外に立ち、ミケを見上げている。
「トーマ」
マルタが呼ぶ。
「入らないのかい」
少年は首を振った。
「猫が怖い」
「なら、無理に入らなくていい」
バルドが言う。
「でも見たい」
幼い頃、野良猫を無理に抱こうとして、顔を引っかかれたらしい。
それ以来、猫が近づくと身体が動かなくなるという。
「触りたいのか」
「分からない」
「なら、触らなくていい」
バルドは入口近くの床へ座った。
「ここで見ているだけにするか」
「来たらどうするの」
「嫌なら外へ出る。動けなければ、俺が止める」
トーマはしばらく迷ったあと、敷居を越えた。
バルドの隣へ座る。
「目を合わせ続けなくていい。玩具で遊んでいろ」
直した木の馬車を床へ置く。
トーマが車輪を動かす。木の玩具が床を走る。
梁の上で、ミケの耳が動いた。
棚へ移り、そこから床へ下りる。
トーマの手が止まった。
「嫌なら外へ出るか」
トーマは入口を見たあと、首を横へ振る。
もう一度、玩具を走らせる。
ミケは少年から三歩ほど離れた位置で止まった。
手。玩具。靴。
順番に見ている。
トーマは震えていた。それでも手を伸ばさない。
ミケが一歩近づき、靴の匂いを嗅ぐ。
少年は息を止めた。
バルドは何も言わない。
ミケは匂いを嗅ぎ終えると、トーマの隣へ座った。
触れない。ただ、同じ方向を向いて座る。
トーマの震えが少しずつ止まっていく。
「触っていい?」
「ミケに聞け」
「どうやって」
「手を近づけず、床へ置いてみろ」
トーマは、ミケから少し離れた床へ手を置いた。
ミケはその手を見た。
近づかない。
やがて興味を失ったように毛づくろいを始める。
「今日はここまでだな」
トーマは少し残念そうだったが、頷いた。
「次は触れるかな」
「次に、お前とミケがどうしたいかによる」
「また来てもいい?」
ミケは毛づくろいを続けている。
「嫌とは言っていないようだ」
トーマは笑った。
「本当に猫の店みたいだな」
鍛冶職人が言う。
「修理屋だ」
「飯も出る」
肉屋が続ける。
「猫もいる」
マルタが言った。
「それなら、保護猫カフェというやつじゃないかい」
「何だ、それは」
「王都にあるらしいよ。行き場のない猫を保護して、客が茶を飲みながら一緒に過ごす店だって」
バルドはミケを見た。
「ミケは店の道具ではない」
「分かっているよ」
マルタが答える。
「嫌なら隠れられる。触るかどうかも猫が決める。そういう店ならいいんじゃないかい」
「名前を変える必要はあるのか」
「万物堂のままでいい。街の連中が勝手にそう呼ぶだけさ」
保護猫カフェ・万物堂。
客たちはその呼び名を気に入ったらしい。
バルドは止めなかった。
◇
昼過ぎ、店の外で馬の嘶きが聞こえた。続いて悲鳴。
通りを走っていた荷馬車の馬が、制御を失っている。
荷物を満載した車を引きずり、万物堂の前へ向かっていた。
道の中央には、小さな女の子が立っている。
恐怖で動けない。
「下がれ!」
バルドは店を飛び出した。
だが距離がある。
黒い影が、彼の横を抜けた。
ミケだった。
地面を蹴り、馬車の前へ飛び出す。
三本の尾が一瞬だけ広がった。
金色の瞳が馬を捉える。災厄級魔獣の威圧。
馬は前脚を上げ、嘶いた。
荷車が傾く。
バルドは女の子を抱え、道の端へ飛ぶ。
ミケが前脚を地面へ打ちつけた。
衝撃で土が盛り上がり、低い壁となって車輪を止める。
積み荷がいくつか落ちたが、人には当たらなかった。
通りが静まり返る。
女の子の母親が駆け寄り、娘を抱きしめる。
「ありがとうございます!」
「礼なら、あいつに」
バルドが指す。
ミケは馬車の前で、前脚を舐めている。
何事もなかったような顔だ。
「黒い魔獣が助けたのか」
「馬を襲ったんじゃない」
「止めたんだ」
住民たちの声が広がる。
ミケは褒められるのを待たず、万物堂の窓辺へ戻った。
昨日までは、街を焼くかもしれない災厄。
今日からは、子どもを助けた黒猫でもある。
◇
閉店後。
バルドは窓辺から少し離れた椅子へ座った。
「客が来たな」
ミケの尾が動く。
「人間が多いのは嫌か」
返事はない。
「ここにいる必要はない」
ミケが振り向く。
「怪我はもう治っている。森へ戻りたいなら戻っていい」
バルドは窓を開けた。
外へ出られるだけの幅がある。
「嫌になったら、いつでも行け」
夕方の風が店内へ入る。
ミケは窓枠へ前脚を置き、外を見た。
バルドは止めない。
しばらくして、ミケは窓枠から下りた。
外へではない。店の中へ。
バルドの足元まで歩き、膝へ飛び乗る。
「重い」
ミケは腹を踏み、居心地のよい位置を探す。
やがて丸くなり、喉を鳴らした。
「ここにいるのか」
ミケは目を閉じる。
それが返事だった。
◇
同じ頃。
王都の冒険者ギルドでは、銀剣の黎明が次の遠征準備を進めていた。
「魔力石は六個です」
若い補助職人が報告する。
セシリアが眉を寄せた。
「足りないわ。前回は十個持っていったでしょう」
「記録には六個と」
「残りはバルドが現地で再調整していたのよ」
部屋が静かになる。
「必要なら追加で買えばいい」
レオンが言った。
「すでに予算を超えている」
ディーンが答える。
「保存食も前より倍近く重い。おっさんが量と配置を調整してたんだ」
「いつまでもバルドの話をするな」
レオンの声が鋭くなる。
そのとき、腰の聖剣が鞘の中で音を立てた。
剣を抜く。
刃の根元に細い亀裂がある。
「明日までに直せ」
若い職人へ渡す。
職人は刃を確認し、顔を曇らせた。
「内部まで傷んでいます。明日までには」
「バルドなら一晩で直した」
言ってから、レオンは黙った。
そこへギルド職員が報告書を持ってくる。
「辺境都市リュネールからです。黒炎の皇獣について」
レオンは書類を受け取った。
元S級冒険者バルド・グレインが災厄級魔獣を保護。
死傷者なし。荷馬車事故から住民を救助。万物堂という修理店に滞在。
街での通称は、保護猫カフェ・万物堂。
「猫を拾って、店を始めた?」
「かなり評判になっているようです」
ディーンが小さく笑った。
「おっさんらしいな」
レオンは報告書を机へ置く。
「災厄級を一匹飼い慣らしただけだ」
誰も答えなかった。
「そんなものが何になる」
聖剣の亀裂が、また小さく鳴った。
レオンは舌打ちした。
「遠征準備を続けろ」
報告書は机の端へ押しやられた。
それでも、そこに記された万物堂という名前は、いつまでもレオンの視界から消えなかった。




