第4話 災厄猫、一発だけ殴る
ミケは、釘を落とすのが好きらしい。
バルドが作業台の上へ並べた釘を、前脚で一本ずつ床へ落としていく。
右端の一本を落とす。音を聞く。
次の一本を落とす。また音を聞く。
「それは遊び道具じゃない」
バルドが言うと、ミケは金色の目で彼を見た。
前脚が止まる。
「分かったなら、よし」
ミケは視線を外し、残っていた釘を三本まとめて落とした。
乾いた金属音が床へ響く。
「分かっていないな」
バルドが拾おうと屈むと、ミケは作業台の中央へ座った。
ちょうど、直そうとしていた木箱の上だった。
「そこも使う」
ミケは動かない。
昨日、死にかけていた災厄級魔獣とは思えないほど堂々としている。
怪我はほぼ治っていた。左後脚の骨もつながり、歩き方に不自然さはない。脇腹の傷も毛に隠れて見えなくなっている。
ただし、魔力核の古い傷は残っている。
生きるための修繕は終えたが、完全に元の状態へ戻ったわけではない。
無理に力を使わせない方がいい。
そのはずなのだが、ミケは店の中で最も高い棚へ飛び乗り、梁を歩き、今は作業の邪魔をしている。
「元気になったのはいいことだ」
バルドは木箱を諦め、別の椅子を引き寄せた。
ミケはその様子を見てから、木箱の上で丸くなった。
どうやら場所を譲る気はないらしい。
万物堂の開店準備は、思ったほど進んでいなかった。
建物そのものは直した。
厨房も使える。客席には机と椅子がある。だが、看板を掛けただけでは店にならない。
修理を受け付ける場所。預かった品物を置く棚。料金表。食事の献立。
必要なものは多い。
何より、この店には災厄級魔獣がいる。
それを知らずに客が入ってくれば、大騒ぎになるだろう。
バルドは入口の横に、小さな板を掛けることにした。
木片へ文字を刻む。
猫がいます。
そこまで書いて、手を止めた。
普通の猫ではない。だが、災厄級魔獣がいますと書けば、誰も近寄らない。
少し考えてから、その下へ続けた。
嫌がることはしないでください。
「これでいいか」
振り向くと、ミケは眠っていた。
「お前のことなんだが」
尾の先だけが一度動いた。
分かっているらしい。
◇
最初の客が来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
扉を開けたのは、小柄な老女だった。灰色の髪を頭の後ろでまとめ、両手で古い鍋を抱えている。
「ここが新しい修理屋かい」
「ああ。まだ正式には開けていないが」
「看板が出ているなら、開いているのと同じだよ」
老女は遠慮なく店内へ入った。
ミケは梁の上から、その姿を見下ろしている。
老女はまだ気づいていない。
「マルタというんだ。パン屋の裏で一人暮らしをしている」
「バルドだ」
「知っているよ。昨日、役所のラドが大騒ぎしていたからね。崩れかけた店を一晩で直した変わり者が来たって」
「一晩はかかっていない」
「そこを訂正するのかい」
マルタは鍋を作業台へ置いた。
底に大きな穴が空いている。長年使われ、金属全体も薄くなっていた。
「直るかね」
「見てみよう」
バルドが鍋へ触れる。
銅と鉄を重ねた古い造り。底は何度も火へかけられ、薄く削れている。取っ手の留め具も緩んでいた。
「穴だけ塞ぐと、別の場所がすぐに破れる」
「買い替えろということかい」
「いや。底全体を組み直す」
魔力を流す。
薄くなった金属が均等に広がり、穴が閉じる。不足する厚みは、変形していた縁の部分から少しずつ移した。
取っ手の留め具も締め直す。表面の煤や細かな傷は残した。
それはこの鍋が使われてきた記録で、欠陥ではない。
「できた」
鍋を返す。
マルタは底を指で叩いた。澄んだ金属音がする。
「新品みたいじゃないか」
「新品ではない。まだ、この鍋だ」
「そうかい」
マルタは鍋の側面に残った小さな傷を撫でた。
「これは、亡くなった亭主と店を始めたときに買った鍋でね。穴が空いても捨てられなかった」
「なら、直せてよかった」
「いくらだい」
「銅貨一枚」
マルタの顔が険しくなる。
「馬鹿を言うんじゃないよ」
「高いか」
「逆だよ。こんな仕事を銅貨一枚で受けていたら、ひと月で潰れる」
バルドは少し考えた。
王都の職人工房なら、銀貨一枚以上は取るだろう。ただ、作業にはほとんど時間がかかっていない。
「銅貨三枚」
「まだ安い」
「では五枚」
「銀貨一枚置いていくよ」
「多すぎる」
「開店祝い込みだ。受け取りな」
マルタは銀貨を作業台へ置いた。
そのとき、梁の上で板が軋んだ。
マルタが顔を上げる。
ミケと目が合った。
二人とも動かなかった。
「……ずいぶん大きな猫だね」
「昨日までは、もっと大きかった」
「それは聞かなかったことにするよ」
ミケが梁から作業台へ飛び降りる。
マルタは一歩下がった。
ミケは老女ではなく、彼女が持っている布袋を見ている。
「何が入っている」
「干し魚だよ。パン屋に届ける途中だったんだが」
ミケの鼻が動く。
「欲しいらしい」
「災厄級魔獣でも、魚は食べるのかい」
「猫だからな」
マルタは布袋から、小さな干し魚を一つ取り出した。
ミケへ差し出そうとする。
「手からはやめた方がいい」
バルドが言う。
「そこへ置いて、少し離れてくれ」
マルタは言われたとおり、魚を作業台へ置いた。
ミケはすぐには食べない。
マルタを見ている。
老女も動かずに待った。
しばらくして、ミケが魚へ近づく。
匂いを嗅ぎ、一口で食べた。
マルタの肩から力が抜ける。
「本当に猫だねえ」
ミケはもう一匹ないかという顔で布袋を見た。
「一匹だけだよ。塩気が強いからね」
マルタが袋を閉じる。
ミケは不満そうに尾を振った。
「言葉が分かるのかい」
「かなり分かっていると思う」
「じゃあ、愛想も覚えさせな」
「俺より難しい注文だ」
マルタは笑った。
鍋を抱え、店を出る。
「明日、何人か連れてくるよ」
「修理する物があるのか」
「猫を見たい連中さ」
扉が閉まる。
バルドは銀貨を見た。
「客が一人来た」
ミケは魚が消えた作業台を舐めている。
「もう少し喜んでもいいんじゃないか」
ミケは返事の代わりに、前脚で銀貨を床へ落とした。
◇
午後になると、四人の男が店へ入ってきた。
客には見えなかった。全員が革鎧を着け、剣や弓を持っている。
先頭に立つ痩せた男には見覚えがあった。
昨夜、岩場でミケの毛皮や魔力核の値段を叫んでいたハンターだ。
「営業中か」
男が店内を見回す。
「武器を置くならな」
バルドは作業台から顔を上げた。
「修理を頼みに来たわけじゃない」
「なら帰れ」
男は笑った。
他の三人が店内へ広がる。
ミケは梁の上にいる。四人を見下ろしているが、まだ黒炎は出していない。
「隠しているかと思ったが、本当にいたな」
ハンターが言う。
「小さくなっている。昨日の傷が残っているんだろう」
「元気だ」
「虚勢を張るな。災厄級が本来の力を出せるなら、そんな姿で人間の店にいるはずがない」
男は腰の捕獲具へ手を伸ばした。
「弱らせて従わせたのか?」
「従わせていない」
「なら、誰の所有物でもないわけだ」
バルドは椅子から立った。
「生き物に、所有物という言葉を使うな」
「魔獣だぞ」
「それでもだ」
ハンターは鼻で笑った。
「昨日は騎士団がいたから引いただけだ。ここは街の外れ。お前一人なら話は早い」
「昨日、何を見ていた」
「武器を壊すだけの小細工だろう」
男が合図を出す。
二人が扉を閉め、もう一人が窓の前へ立った。
「黒炎の皇獣を引き渡せ。お前には金貨十枚払う」
「断る」
「二十枚」
「帰れ」
「交渉が下手な男だな」
ハンターの一人が、壁際の椅子を蹴った。
椅子が倒れる。
バルドの表情がわずかに変わった。
「それは直したばかりだ」
「また直せばいいだろう」
男が捕獲網を取り出した。
昨日の物より小さいが、編み込まれた金属線には魔力が流れている。
梁の上で、ミケの三本の尾が現れた。
黒炎が揺れる。
「やはり力を隠していたか!」
ハンターたちは後退しながらも、目には欲がある。
怖い。それでも、目の前にある金貨千枚分の素材を諦められない。
「ミケ」
バルドが呼ぶ。
ミケが彼を見る。
「店を燃やすな」
黒炎が一瞬だけ強くなる。
「昨日、直したばかりなんだ」
ミケは不満そうに耳を伏せた。
先頭のハンターが笑う。
「魔獣に話しかけて、止まると思っているのか」
「止まっている」
実際、黒炎はそれ以上広がっていない。
ミケはバルドの言葉を理解している。男たちはその意味を理解しなかった。
「捕らえろ!」
捕獲網が投げられる。
ミケは梁から飛び降りた。
網を黒炎で焼くことはしない。空中で身体を捻り、網を避ける。
作業台へ着地。釘と道具が跳ねる。
一人が剣を抜き、ミケへ踏み込んだ。
「ミケ」
バルドがもう一度呼ぶ。
ミケの前脚が上がる。
「殺さなくていい」
ミケは一瞬、動きを止めた。
剣を持つ男が近づく。
今度は、バルドではなくミケが選ぶ番だった。
三本の尾を持つ真の姿へ戻れば、この四人を焼き尽くせる。それをせずに済ませる理由など、ミケにはない。
人間は母を殺した。罠で足を砕いた。昨日も今日も、身体を切り分けて売ろうとしている。
それでもバルドは、殺すなとは言わなかった。
殺さなくていい、と言った。
選択をミケへ残した。
ミケは上げていた前脚を振った。
剣を持った男の頬へ、肉球が触れる。
軽く見えた。
次の瞬間、男の身体が真横へ飛んだ。
「え?」
壁には当たらない。
開いた扉から外へ飛び出し、通りの反対側に積まれていた麻袋へ突っ込んだ。
残る三人が固まる。
ミケは作業台の上へ戻り、前脚を舐め始めた。
「今のは……」
ハンターの一人が震える声で言う。
「猫パンチだ」
バルドが答えた。
「見れば分かる」
「どこが猫の威力だ!」
もう一人が弓を構えようとする。
ミケが顔を上げた。金色の瞳が細くなる。
黒炎は出ていない。ただ、災厄級魔獣の威圧が店内を満たした。
男たちの膝が折れる。弓が床へ落ちる。
呼吸すら難しくなったように、全員が喉を押さえた。
ミケは一歩だけ前へ出る。
三人は悲鳴を上げ、扉へ殺到した。
外で麻袋に埋もれていた仲間を引きずり、転がるように逃げていく。
静かになった店内で、ミケは前脚の毛づくろいを再開した。
バルドは倒れた椅子を起こす。
脚に少し傷が付いていた。
「加減したんだな」
ミケの耳が動く。
「助かった。店が壊れずに済んだ」
ミケは当然だという顔をしている。ただし、作業台には前脚の形のへこみが残っていた。
「これは直す」
バルドが触れようとすると、ミケがへこみの上へ座った。
「隠しても分かる」
ミケは動かない。
店の外が騒がしくなってきた。
先ほどの男が飛んだところを、通りの人々が見ていたらしい。
遠巻きに住民が集まっている。その中にマルタもいた。
「今の男、店から飛んできたけど」
「ミケが殴った」
「死んだのかい」
「麻袋があったから、骨も折れていない」
「そこまで計算したのかい」
バルドはミケを見る。
「どうだろうな」
ミケは顔を背けた。
住民たちは恐る恐る店内を覗く。
誰も入ってこない。梁の上に戻ったミケを見て、ひそひそと話している。
「災厄級なんだろう」
「人を吹き飛ばしたぞ」
「でも、殺さなかった」
「あのハンターたちが先に剣を抜いたらしい」
恐怖は消えていない。だが、昨日までとは少し違う。
ミケが何も考えず人間を襲う怪物ではないことを、彼らは見た。
バルドは入口へ出た。
「この猫は、嫌なことをされれば怒る」
住民たちへ言う。
「だが、自分の力を加減できる。人間の言葉も理解している」
「本当に安全なのか」
男の一人が尋ねた。
「絶対に安全な生き物はいない」
バルドは答えた。
「人間も同じだ。ただ、嫌がることをせず、逃げ道を塞がなければ、今のところ問題はない」
住民たちは顔を見合わせた。
マルタが一歩前へ出る。
「明日、鍋を受け取りに来るついでに、また魚を持ってくるよ」
梁の上で、ミケの耳が動いた。
「塩気の少ないやつにしてくれ」
「注文が多い猫だね」
「俺ではなく、ミケが」
マルタは笑った。
その笑いにつられるように、張り詰めていた空気が少し緩む。
住民たちはすぐには店へ入らなかった。それでも、逃げもしなかった。
遠くからミケを眺め、やがて一人ずつ帰っていく。
バルドは入口の横に掛けた板を見た。
猫がいます。
嫌がることはしないでください。
そこへ、もう一行追加する。
許可なく武器を抜かないでください。
「これでいい」
ミケが梁から降り、看板を見上げる。
前脚で板の下端へ触れた。
「落とすなよ」
ミケは板を揺らしただけで、今度は落とさなかった。
バルドは店内へ戻り、床へ散らばった釘を拾う。
ミケがその横へ来た。
一本の釘を前脚で押さえている。
「それも返してくれ」
ミケは釘を見た。バルドを見る。
それから、棚の下へ釘を弾き飛ばした。
「後で拾う」
ミケは満足したように尾を立て、窓辺へ向かった。
万物堂の最初の修理客が来た。最初の襲撃者も来た。そして、街の人々は初めて、災厄が誰かを殺さずに怒るところを見た。
店を開く準備は、まだ半分も終わっていない。それでもバルドには、万物堂が少しずつ街の中へ場所を作り始めているように思えた。
窓辺でミケが身体を丸める。黒い毛へ午後の日差しが落ちている。
目を閉じる直前、ミケは通りの向こうへ視線を向けた。
そこには、先ほど逃げたハンターたちとは別の男が立っていた。
上等な外套。胸元には、王都冒険者ギルドの徽章。
男は万物堂とミケをしばらく観察し、何も言わずに立ち去った。




