↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/20

第3話 直せないもの

 朝になっても、黒猫は棚の下から出てこなかった。

 バルドが目を覚ましたとき、暖炉の火はほとんど消えかけていた。

 椅子に座ったまま眠ったせいで、首と肩が固まっている。立ち上がって軽く身体を伸ばし、それから棚の方を見た。

 暗い隙間の奥に、金色の目が二つある。

「おはよう」

 返事はない。黒猫は身体を丸めたまま、バルドの動きを見ていた。

 昨夜置いた毛布は、棚の入口まで引き込まれている。

 使ったらしい。それだけで十分だった。

 バルドは厨房へ向かい、鍋に残っていた煮込みを温めた。

 自分の分を椀によそい、黒猫には味の付いていない肉を細かく裂く。干し肉よりは胃に優しい。

 皿を昨日と同じ場所へ置いた。

 水皿も入れ替える。

 黒猫は動かない。

「腹が減ったら食べればいい」

 バルドはそれ以上勧めなかった。

 自分の朝食を済ませ、店の準備を始める。

 昨日直した建物には、まだ手を入れる場所が多い。

 客席に使う机は脚の長さが揃っていない。厨房の棚は扉が外れている。作業場には、前の持ち主が残した工具が錆びたまま積まれていた。

 バルドは一つずつ確認していく。

 壊れた椅子へ手を置く。木材の内部にある亀裂と、接合部の緩みが頭へ流れ込む。

 魔力を通すと、脚が正しい位置へ戻り、抜けかけていた釘が締まった。

 ただし、傷や汚れまでは消さない。

 長く使われた跡は、壊れているわけではない。

 何でも新品へ戻せばよいというものでもなかった。

 作業を続けているうちに、背後で小さな音がした。

 バルドは振り向かない。

 棚の下から黒猫が顔を出している。

 肉の匂いを嗅ぎ、周囲を警戒しながら皿へ近づいた。

 左後脚はほとんど地面へ着けていない。昨夜より動きが悪い。

 黒猫は肉を一切れ食べた。

 その直後、バルドへ鋭い視線を向ける。

「見ていない」

 そう言いながら、バルドは椅子の修理を続けた。

 肉を食べる音が再びする。昨日より速度は遅い。

 数切れ食べたところで、黒猫は皿から離れた。

 水には口を付けない。

 棚の下へ戻ろうとするが、途中で身体が傾いた。前脚をつき、どうにか倒れるのをこらえる。

 バルドは立ち上がらなかった。

 助けようと動けば、また警戒させる。

「水は飲んだ方がいい」

 黒猫は低く唸った。

「そう言われて飲むくらいなら、苦労はしないか」

 バルドは水皿を手に取った。

 黒猫の視線が彼の手を追う。

 皿を棚の入口から少し離れた位置へ移し、そこへ一度自分の指を入れる。

 毒も薬も入っていないと示すためだった。

 それから元の場所へ戻す。

「好きにしろ」

 黒猫はしばらく水を見ていた。だが、結局口を付けずに棚の下へ戻った。

 バルドは眉を寄せた。

 喉が渇いていないわけではない。飲みたくても飲めない可能性がある。

 矢傷や骨折だけではない。身体の中で魔力が乱れている。それが喉や内臓に影響しているのかもしれない。

 治療は早い方がいい。しかし、触れなければ《万物修繕》は使えない。

「困ったな」

 バルドは呟いた。

 棚の奥で、黒猫の耳が動いた。

     ◇

 昼前になると、店の前に人影が現れた。

 扉から顔を覗かせたのは、昨日この建物を案内した役人だった。

「バルドさん。ご無事でしたか」

「ああ」

「昨夜、森の方で騎士団が災厄級魔獣と遭遇したと聞きまして」

 役人は店へ一歩入り、すぐに止まった。

 棚の下から、金色の目がこちらを見ている。

「……あれは?」

「猫だ」

「私が聞いた話では、都市を滅ぼす黒炎災厄獣が逃げたと」

「同じものだろうな」

 役人の顔から血の気が引いた。

「なぜ店内にいるのですか」

「自分で入ってきた」

「そういう問題でしょうか」

「今のところ、人を襲う様子はない」

 黒猫が役人へ向けて唸る。

 役人は扉の外へ半歩戻った。

「襲う様子がないという判断を、今の音を聞いた上でなさっているのですか」

「怖がっているだけだ」

「私の方が怖いのですが」

「それも分かる」

 役人は帰りたそうだったが、手に持っていた書類を差し出した。

「騎士団からの通達です。魔獣による被害が出た場合、保護した者が責任を負う、と」

「昨日、団長からも聞いた」

「署名が必要です」

 バルドは書類を読んだ。

 黒炎災厄獣を街へ入れたこと。万物堂の敷地内で管理すること。人命および財産へ被害が出た場合、責任を負うこと。

 管理という表現が気になった。

 バルドは黒猫を飼っているつもりはない。閉じ込めるつもりもない。

「この猫が自分から出ていった場合は?」

「捕獲または討伐対象へ戻ります」

「それでは、ここにいろと命令しなければならないのか」

「災厄級魔獣を自由に歩かせるよりは」

 役人の言葉はもっともだった。

 街の人間にとっては、昨日まで森にいた災厄が、突然隣家で暮らし始めたようなものだ。

怖がるなという方が無理だろう。

 バルドは署名した。

「被害は出させない」

「本当にお願いします」

 役人は書類を抱え、急いで立ち去った。

 黒猫はその背中を見送っている。

「評判はよくないらしい」

 黒猫が尾を一度動かした。

「俺も昨日、仕事を辞めたばかりだからな。似たようなものか」

 黒猫が理解しているかは分からない。

 バルドは作業へ戻った。

     ◇

 夕方になっても、黒猫は水を飲まなかった。

 呼吸も次第に浅くなっている。棚の下で丸くなっているが、眠れてはいない。

 身体の周囲に黒炎が浮かんでは消える。

 魔力を抑えられなくなっている。矢傷から流れる血も止まっていない。

 バルドは棚から少し離れた床へ座った。

「聞いているか」

 黒猫の目が動く。

「このままだと、今夜を越えられないかもしれない」

 低い唸り声。

「脅しているわけじゃない」

 バルドは両手を膝へ置いた。

 武器を持っていないことが見えるようにする。

「治すには触らなければならない。嫌なのは分かっている」

 黒猫の耳が伏せられる。

「だから、今すぐ触るつもりはない」

 バルドはそのまま待った。

 黒猫がどう反応するか。

 何も変わらない。ただ、呼吸だけが少しずつ速くなっていく。

 やがて、黒猫の前脚が震えた。頭が床へ落ちる。黒炎が急激に膨らんだ。

 棚の木材が焦げる。

 バルドは立ち上がった。

「触るぞ」

 黒猫が牙をむこうとする。だが、もう身体が動かない。

 バルドは棚の前へ膝をつき、ゆっくり腕を伸ばした。

 右手を、黒猫の肩へ置く。

 その瞬間、世界が変わった。

 骨。血管。筋肉。魔力回路。身体を構成するすべてが、バルドの意識へ流れ込む。

 脇腹の矢は、ただ刺さっているだけではない。鏃に魔力を乱す毒が塗られている。

 左後脚の骨は二か所で砕けていた。

 結界杭へぶつかった際、神経まで傷つけている。

 内臓も弱っている。

 さらに深い場所。黒猫の胸の奥にある魔力核へ、古い傷が残っていた。

 今回のものではない。何年も前から積み重なっている。

 人為的な損傷。捕獲術式。拘束具。炎を無理に引き出された痕跡。

 構造を読み取るだけでは終わらない。

 生き物を修繕するとき、その傷に付随した感覚の一部がバルドへ流れ込む。

 矢が肉へ入った痛み。罠で骨を砕かれた痛み。森を走り続けた疲労。焼けるような喉の渇き。

 そして、恐怖。

 人間の匂い。網。怒鳴り声。鉄の檻。

 小さな黒猫を抱いていた、さらに大きな黒い獣。

 母親だ。

 剣を持った人間たち。振り下ろされる刃。

 黒猫を逃がすために、母猫が炎の中へ戻っていく。

 次に見えたときには、毛皮と牙に分けられていた。

「……そうか」

 バルドの声が掠れた。

 別の光景が重なる。

 八年前。

 崩れた洞窟。腕の中で冷たくなっていく灰色の魔獣。首には黒く焼けた拘束具。

 目には、もう何も残っていなかった。

「昔も、こうして……」

 言葉が止まる。

 セレス。

 救えなかった猫型魔獣の名前だった。

 バルドはあのときも《万物修繕》を使った。

 骨も、内臓も、魔力核も、どこを直せばよいか分かっていた。

 だが、能力は発動しなかった。

 生き物の修繕には、相手の意思が必要になる。

 強いものでなくていい。意識していなくてもいい。

 どこかに、生きたいという力が残っていなければならない。

 セレスには、それが残っていなかった。

 子を奪われ、傷つけられ、何度も人間に利用され、もう生きることを望んでいなかった。

 壊れた身体は直せる。だが、生きる理由までは作れない。

 バルドの手が止まった。

 黒猫の身体は熱い。呼吸は弱くなっている。

 この猫にも、生きる意思がなければ治せない。

「どうしたい」

 バルドは尋ねた。

 声に出しても、答えが返るとは思っていない。

「俺が決めることじゃない」

 黒猫の意識は薄れている。金色の目も閉じかけていた。

「まだ生きたいか」

 黒猫の前脚が動いた。爪がバルドの袖に引っかかる。

 偶然かもしれない。苦しさで身体が痙攣しただけかもしれない。それでも、バルドの能力は反応した。

 黒猫の身体の奥に、細い光が見える。

 消えかけている。だが、残っている。

「分かった」

 バルドは黒猫の身体へ両手を当てた。

「直す」

 魔力を流す。

 最初に、矢を分解する。

 鏃と軸が崩れ、身体を傷つけない細かな粒子となって外へ排出される。

 毒を読み取り、無害な成分へ組み替える。

 砕けた骨を正しい位置へ戻す。筋肉と神経をつなぐ。傷ついた内臓を修復する。

 黒猫が受けた痛みが、バルドの身体へ流れ込んだ。

 脇腹に矢が刺さる感覚。脚の骨が砕ける感覚。

 バルドの腕が震える。

 額から汗が落ちた。それでも手を離さない。

 最後に、魔力核へ触れる。

 黒炎を生み出す巨大な力。だが内部には、何本ものひびが入っている。

 これを完全に元へ戻すには時間がかかる。

 今は暴走を止め、生きられる状態まで整える。

「無理に強くならなくていい」

 バルドは言った。

「今は、生きていればいい」

 魔力核の流れが整う。

 その瞬間、黒猫の身体から黒炎が噴き上がった。

 バルドは腕で顔を守る。

 棚と壁が炎に包まれる。しかし、燃えてはいない。

 熱を持たない黒い炎。

 黒猫の身体が光の中で大きくなる。

 棚を押し上げ、天井へ届くほどの巨体へ変わっていく。一本だった尾が三本へ分かれる。

 傷つき、泥に汚れていた毛並みは、夜そのもののような深い黒へ戻った。

 胸元と前脚の先だけが白い。

 金色の目が開く。そこにいるのは、騎士団が恐れていた災厄級魔獣だった。

 三つ尾の黒炎災厄獣。黒炎の皇獣。

 万物堂の天井が、巨大な頭で押し上げられる。

「少し大きいな」

 バルドは座ったまま言った。

 黒猫が彼を見下ろす。黒炎が三本の尾を包んでいる。

 本気になれば、店どころか街の一角を焼けるだろう。

 バルドは逃げなかった。武器も取らない。

「身体の調子はどうだ」

 黒猫は答えない。

 一歩、バルドへ近づく。

 床が軋む。大きな前脚が、バルドのすぐそばへ置かれる。

 金色の瞳が細くなる。

 次の瞬間、黒猫の身体が縮み始めた。

 天井近くまであった巨体が、大型犬ほどになり、さらに普通の猫より少し大きい程度まで小さくなる。

 三本の尾も一本に重なり、黒炎が消えた。

 黒猫は床へ降りる。

 バルドの前で一度立ち止まった。

 それから、彼の膝へ飛び乗った。

「重いな」

 昨日まで大型犬ほどの姿だった名残なのか、見た目よりずっしりしている。

 黒猫は前脚でバルドの腹を踏み、身体の位置を整えた。

 そして丸くなる。

 低い音が響いた。

 唸り声ではない。喉を鳴らしている。

 バルドはしばらく動けなかった。

 膝の上の温かさ。規則正しい振動。黒い毛の感触。

 八年前には届かなかった場所へ、今度は手が届いた。

 目の奥が熱くなる。

 バルドは顔をそむけた。

「煙が目に入ったな」

 暖炉は離れた場所にある。

 黒猫が片目を開け、彼を見る。

「何だ」

 黒猫は再び目を閉じた。

 バルドは恐る恐る、その頭へ手を近づける。

 途中で止める。

 黒猫が嫌がるかもしれない。

 手を引こうとしたとき、黒猫の方から頭を持ち上げ、指先へ額を押しつけた。

 バルドはゆっくり毛を撫でた。

 ひどく滑らかだった。傷んでいた毛並みも、魔力の回復とともに本来の状態へ戻っている。

 胸元と四本の足先だけ、白い毛が生えている。

「黒猫だが、少し白いな」

 黒猫の耳が動く。

「三本の尾もある」

 バルドは考えた。

「ミケでいいか」

 黒猫が目を開けた。不満そうな顔に見える。

「嫌か?」

 黒猫は膝から降りなかった。

「なら、ミケだ」

 ミケは喉を鳴らし続けている。

 バルドは壊れた棚と焦げた床を見た。

 店を開く前から、また修理する場所が増えた。

 それでも悪い気はしなかった。

 窓の外では朝から降り始めた小雨が、静かに屋根を叩いている。

 万物堂の中には、男が一人。そして、世界を滅ぼせる猫が一匹。

 まだ店の客は一人もいない。

 それでもバルドには、この場所が昨日までより少しだけ店らしくなったように思えた。

 その頃、街の門では、黒炎の皇獣を探す魔獣ハンターたちが、万物堂の場所を聞き出していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。