第3話 直せないもの
朝になっても、黒猫は棚の下から出てこなかった。
バルドが目を覚ましたとき、暖炉の火はほとんど消えかけていた。
椅子に座ったまま眠ったせいで、首と肩が固まっている。立ち上がって軽く身体を伸ばし、それから棚の方を見た。
暗い隙間の奥に、金色の目が二つある。
「おはよう」
返事はない。黒猫は身体を丸めたまま、バルドの動きを見ていた。
昨夜置いた毛布は、棚の入口まで引き込まれている。
使ったらしい。それだけで十分だった。
バルドは厨房へ向かい、鍋に残っていた煮込みを温めた。
自分の分を椀によそい、黒猫には味の付いていない肉を細かく裂く。干し肉よりは胃に優しい。
皿を昨日と同じ場所へ置いた。
水皿も入れ替える。
黒猫は動かない。
「腹が減ったら食べればいい」
バルドはそれ以上勧めなかった。
自分の朝食を済ませ、店の準備を始める。
昨日直した建物には、まだ手を入れる場所が多い。
客席に使う机は脚の長さが揃っていない。厨房の棚は扉が外れている。作業場には、前の持ち主が残した工具が錆びたまま積まれていた。
バルドは一つずつ確認していく。
壊れた椅子へ手を置く。木材の内部にある亀裂と、接合部の緩みが頭へ流れ込む。
魔力を通すと、脚が正しい位置へ戻り、抜けかけていた釘が締まった。
ただし、傷や汚れまでは消さない。
長く使われた跡は、壊れているわけではない。
何でも新品へ戻せばよいというものでもなかった。
作業を続けているうちに、背後で小さな音がした。
バルドは振り向かない。
棚の下から黒猫が顔を出している。
肉の匂いを嗅ぎ、周囲を警戒しながら皿へ近づいた。
左後脚はほとんど地面へ着けていない。昨夜より動きが悪い。
黒猫は肉を一切れ食べた。
その直後、バルドへ鋭い視線を向ける。
「見ていない」
そう言いながら、バルドは椅子の修理を続けた。
肉を食べる音が再びする。昨日より速度は遅い。
数切れ食べたところで、黒猫は皿から離れた。
水には口を付けない。
棚の下へ戻ろうとするが、途中で身体が傾いた。前脚をつき、どうにか倒れるのをこらえる。
バルドは立ち上がらなかった。
助けようと動けば、また警戒させる。
「水は飲んだ方がいい」
黒猫は低く唸った。
「そう言われて飲むくらいなら、苦労はしないか」
バルドは水皿を手に取った。
黒猫の視線が彼の手を追う。
皿を棚の入口から少し離れた位置へ移し、そこへ一度自分の指を入れる。
毒も薬も入っていないと示すためだった。
それから元の場所へ戻す。
「好きにしろ」
黒猫はしばらく水を見ていた。だが、結局口を付けずに棚の下へ戻った。
バルドは眉を寄せた。
喉が渇いていないわけではない。飲みたくても飲めない可能性がある。
矢傷や骨折だけではない。身体の中で魔力が乱れている。それが喉や内臓に影響しているのかもしれない。
治療は早い方がいい。しかし、触れなければ《万物修繕》は使えない。
「困ったな」
バルドは呟いた。
棚の奥で、黒猫の耳が動いた。
◇
昼前になると、店の前に人影が現れた。
扉から顔を覗かせたのは、昨日この建物を案内した役人だった。
「バルドさん。ご無事でしたか」
「ああ」
「昨夜、森の方で騎士団が災厄級魔獣と遭遇したと聞きまして」
役人は店へ一歩入り、すぐに止まった。
棚の下から、金色の目がこちらを見ている。
「……あれは?」
「猫だ」
「私が聞いた話では、都市を滅ぼす黒炎災厄獣が逃げたと」
「同じものだろうな」
役人の顔から血の気が引いた。
「なぜ店内にいるのですか」
「自分で入ってきた」
「そういう問題でしょうか」
「今のところ、人を襲う様子はない」
黒猫が役人へ向けて唸る。
役人は扉の外へ半歩戻った。
「襲う様子がないという判断を、今の音を聞いた上でなさっているのですか」
「怖がっているだけだ」
「私の方が怖いのですが」
「それも分かる」
役人は帰りたそうだったが、手に持っていた書類を差し出した。
「騎士団からの通達です。魔獣による被害が出た場合、保護した者が責任を負う、と」
「昨日、団長からも聞いた」
「署名が必要です」
バルドは書類を読んだ。
黒炎災厄獣を街へ入れたこと。万物堂の敷地内で管理すること。人命および財産へ被害が出た場合、責任を負うこと。
管理という表現が気になった。
バルドは黒猫を飼っているつもりはない。閉じ込めるつもりもない。
「この猫が自分から出ていった場合は?」
「捕獲または討伐対象へ戻ります」
「それでは、ここにいろと命令しなければならないのか」
「災厄級魔獣を自由に歩かせるよりは」
役人の言葉はもっともだった。
街の人間にとっては、昨日まで森にいた災厄が、突然隣家で暮らし始めたようなものだ。
怖がるなという方が無理だろう。
バルドは署名した。
「被害は出させない」
「本当にお願いします」
役人は書類を抱え、急いで立ち去った。
黒猫はその背中を見送っている。
「評判はよくないらしい」
黒猫が尾を一度動かした。
「俺も昨日、仕事を辞めたばかりだからな。似たようなものか」
黒猫が理解しているかは分からない。
バルドは作業へ戻った。
◇
夕方になっても、黒猫は水を飲まなかった。
呼吸も次第に浅くなっている。棚の下で丸くなっているが、眠れてはいない。
身体の周囲に黒炎が浮かんでは消える。
魔力を抑えられなくなっている。矢傷から流れる血も止まっていない。
バルドは棚から少し離れた床へ座った。
「聞いているか」
黒猫の目が動く。
「このままだと、今夜を越えられないかもしれない」
低い唸り声。
「脅しているわけじゃない」
バルドは両手を膝へ置いた。
武器を持っていないことが見えるようにする。
「治すには触らなければならない。嫌なのは分かっている」
黒猫の耳が伏せられる。
「だから、今すぐ触るつもりはない」
バルドはそのまま待った。
黒猫がどう反応するか。
何も変わらない。ただ、呼吸だけが少しずつ速くなっていく。
やがて、黒猫の前脚が震えた。頭が床へ落ちる。黒炎が急激に膨らんだ。
棚の木材が焦げる。
バルドは立ち上がった。
「触るぞ」
黒猫が牙をむこうとする。だが、もう身体が動かない。
バルドは棚の前へ膝をつき、ゆっくり腕を伸ばした。
右手を、黒猫の肩へ置く。
その瞬間、世界が変わった。
骨。血管。筋肉。魔力回路。身体を構成するすべてが、バルドの意識へ流れ込む。
脇腹の矢は、ただ刺さっているだけではない。鏃に魔力を乱す毒が塗られている。
左後脚の骨は二か所で砕けていた。
結界杭へぶつかった際、神経まで傷つけている。
内臓も弱っている。
さらに深い場所。黒猫の胸の奥にある魔力核へ、古い傷が残っていた。
今回のものではない。何年も前から積み重なっている。
人為的な損傷。捕獲術式。拘束具。炎を無理に引き出された痕跡。
構造を読み取るだけでは終わらない。
生き物を修繕するとき、その傷に付随した感覚の一部がバルドへ流れ込む。
矢が肉へ入った痛み。罠で骨を砕かれた痛み。森を走り続けた疲労。焼けるような喉の渇き。
そして、恐怖。
人間の匂い。網。怒鳴り声。鉄の檻。
小さな黒猫を抱いていた、さらに大きな黒い獣。
母親だ。
剣を持った人間たち。振り下ろされる刃。
黒猫を逃がすために、母猫が炎の中へ戻っていく。
次に見えたときには、毛皮と牙に分けられていた。
「……そうか」
バルドの声が掠れた。
別の光景が重なる。
八年前。
崩れた洞窟。腕の中で冷たくなっていく灰色の魔獣。首には黒く焼けた拘束具。
目には、もう何も残っていなかった。
「昔も、こうして……」
言葉が止まる。
セレス。
救えなかった猫型魔獣の名前だった。
バルドはあのときも《万物修繕》を使った。
骨も、内臓も、魔力核も、どこを直せばよいか分かっていた。
だが、能力は発動しなかった。
生き物の修繕には、相手の意思が必要になる。
強いものでなくていい。意識していなくてもいい。
どこかに、生きたいという力が残っていなければならない。
セレスには、それが残っていなかった。
子を奪われ、傷つけられ、何度も人間に利用され、もう生きることを望んでいなかった。
壊れた身体は直せる。だが、生きる理由までは作れない。
バルドの手が止まった。
黒猫の身体は熱い。呼吸は弱くなっている。
この猫にも、生きる意思がなければ治せない。
「どうしたい」
バルドは尋ねた。
声に出しても、答えが返るとは思っていない。
「俺が決めることじゃない」
黒猫の意識は薄れている。金色の目も閉じかけていた。
「まだ生きたいか」
黒猫の前脚が動いた。爪がバルドの袖に引っかかる。
偶然かもしれない。苦しさで身体が痙攣しただけかもしれない。それでも、バルドの能力は反応した。
黒猫の身体の奥に、細い光が見える。
消えかけている。だが、残っている。
「分かった」
バルドは黒猫の身体へ両手を当てた。
「直す」
魔力を流す。
最初に、矢を分解する。
鏃と軸が崩れ、身体を傷つけない細かな粒子となって外へ排出される。
毒を読み取り、無害な成分へ組み替える。
砕けた骨を正しい位置へ戻す。筋肉と神経をつなぐ。傷ついた内臓を修復する。
黒猫が受けた痛みが、バルドの身体へ流れ込んだ。
脇腹に矢が刺さる感覚。脚の骨が砕ける感覚。
バルドの腕が震える。
額から汗が落ちた。それでも手を離さない。
最後に、魔力核へ触れる。
黒炎を生み出す巨大な力。だが内部には、何本ものひびが入っている。
これを完全に元へ戻すには時間がかかる。
今は暴走を止め、生きられる状態まで整える。
「無理に強くならなくていい」
バルドは言った。
「今は、生きていればいい」
魔力核の流れが整う。
その瞬間、黒猫の身体から黒炎が噴き上がった。
バルドは腕で顔を守る。
棚と壁が炎に包まれる。しかし、燃えてはいない。
熱を持たない黒い炎。
黒猫の身体が光の中で大きくなる。
棚を押し上げ、天井へ届くほどの巨体へ変わっていく。一本だった尾が三本へ分かれる。
傷つき、泥に汚れていた毛並みは、夜そのもののような深い黒へ戻った。
胸元と前脚の先だけが白い。
金色の目が開く。そこにいるのは、騎士団が恐れていた災厄級魔獣だった。
三つ尾の黒炎災厄獣。黒炎の皇獣。
万物堂の天井が、巨大な頭で押し上げられる。
「少し大きいな」
バルドは座ったまま言った。
黒猫が彼を見下ろす。黒炎が三本の尾を包んでいる。
本気になれば、店どころか街の一角を焼けるだろう。
バルドは逃げなかった。武器も取らない。
「身体の調子はどうだ」
黒猫は答えない。
一歩、バルドへ近づく。
床が軋む。大きな前脚が、バルドのすぐそばへ置かれる。
金色の瞳が細くなる。
次の瞬間、黒猫の身体が縮み始めた。
天井近くまであった巨体が、大型犬ほどになり、さらに普通の猫より少し大きい程度まで小さくなる。
三本の尾も一本に重なり、黒炎が消えた。
黒猫は床へ降りる。
バルドの前で一度立ち止まった。
それから、彼の膝へ飛び乗った。
「重いな」
昨日まで大型犬ほどの姿だった名残なのか、見た目よりずっしりしている。
黒猫は前脚でバルドの腹を踏み、身体の位置を整えた。
そして丸くなる。
低い音が響いた。
唸り声ではない。喉を鳴らしている。
バルドはしばらく動けなかった。
膝の上の温かさ。規則正しい振動。黒い毛の感触。
八年前には届かなかった場所へ、今度は手が届いた。
目の奥が熱くなる。
バルドは顔をそむけた。
「煙が目に入ったな」
暖炉は離れた場所にある。
黒猫が片目を開け、彼を見る。
「何だ」
黒猫は再び目を閉じた。
バルドは恐る恐る、その頭へ手を近づける。
途中で止める。
黒猫が嫌がるかもしれない。
手を引こうとしたとき、黒猫の方から頭を持ち上げ、指先へ額を押しつけた。
バルドはゆっくり毛を撫でた。
ひどく滑らかだった。傷んでいた毛並みも、魔力の回復とともに本来の状態へ戻っている。
胸元と四本の足先だけ、白い毛が生えている。
「黒猫だが、少し白いな」
黒猫の耳が動く。
「三本の尾もある」
バルドは考えた。
「ミケでいいか」
黒猫が目を開けた。不満そうな顔に見える。
「嫌か?」
黒猫は膝から降りなかった。
「なら、ミケだ」
ミケは喉を鳴らし続けている。
バルドは壊れた棚と焦げた床を見た。
店を開く前から、また修理する場所が増えた。
それでも悪い気はしなかった。
窓の外では朝から降り始めた小雨が、静かに屋根を叩いている。
万物堂の中には、男が一人。そして、世界を滅ぼせる猫が一匹。
まだ店の客は一人もいない。
それでもバルドには、この場所が昨日までより少しだけ店らしくなったように思えた。
その頃、街の門では、黒炎の皇獣を探す魔獣ハンターたちが、万物堂の場所を聞き出していた。




