第2話 猫をいじめるな
森へ入ると、焼けた土の匂いがした。焦げた木と、獣の血の匂いが夜気に混じっている。
古い鉱山道には、馬の蹄跡と大勢の足跡が残っていた。その脇には、魔獣捕獲用の結界杭を打ち込んだ跡もある。
低い鳴き声が響いた。
続いて、青白い光が森の奥で弾ける。
バルドは枝を払い、岩場へ走り込んだ。
中央に、黒猫がいた。
普通の猫よりはるかに大きい。頭はバルドの腰ほどまであり、黒い毛は泥と血で固まっている。脇腹には銀の矢が刺さり、左後脚は不自然な角度へ曲がっていた。
見えている尾は一本。しかし身体を覆う黒炎の中に、残る二本の尾が揺らめいている。
黒猫を囲んでいるのは、十数人の騎士と魔獣ハンターだった。
地面に打ち込まれた結界杭が、すべての逃げ道を塞いでいる。
「次に炎を使ったら、一斉に撃て!」
騎士団長が命じた。
黒猫が唸り、黒炎が膨らむ。
騎士たちは一歩下がった。
誰もが恐れている。だが、追い詰められているのは黒猫の方だった。立っているだけで身体が震えている。
「待て」
バルドは岩場へ踏み込んだ。
「何者だ!」
団長が槍を向ける。
「ここは封鎖中だ。下がれ!」
「何をした」
「災厄級魔獣の討伐だ。見れば分かるだろう」
バルドは黒猫を見た。
金色の瞳が、恐怖と怒りをたたえてこちらを睨んでいる。
「この猫が街を襲ったのか」
「猫などと呼ぶな」
団長の声が強くなる。
「三つ尾の黒炎災厄獣だ。過去には一体で砦を焼いた記録もある。成長すれば、都市一つが消える」
「今夜、何をした」
団長は答えなかった。
代わりに、猟団の徽章を付けた男が言った。
「家畜小屋から鶏を一羽奪った」
「他には?」
「それだけで十分だろう」
バルドは黒猫の痩せた腹を見た。
「腹が減っていたんだな」
黒猫が牙をむいた。
「危険種を放置して、人が死んでからでは遅い」
団長の言葉に嘘はなかった。
彼は本気で街を守ろうとしている。
だが、黒猫の脇腹に刺さった矢と、ハンターの弓は同じ造りだった。足元の結界杭にも血が付いている。
「先に攻撃したのは、お前たちか」
「危険種を見つければ先制する。それが仕事だ」
ハンターは悪びれずに答えた。
「逃げようとする相手を囲んでか」
「弱っている今が好機なんだ」
黒猫が動いた。
バルドへ向けて黒炎を吐く。
騎士たちが叫んだ。
バルドは避けなかった。
炎が外套を包む。
だが、布は焦げることすらなく、表面を流れた炎だけが空気へ消えた。
火竜の巣へ入るため、かつて耐熱構造へ組み直した外套だった。
「まだ炎を出せるなら、少し安心した」
黒猫は耳を伏せた。
「だが、無理をするな」
「何を言っている」
団長が呻く。
「それは災厄だぞ」
「腹が減って、怪我をして、怖がっている。今はそれで十分だ」
バルドは黒猫へ近づこうとした。
団長の槍が胸の前へ突き出される。
「これ以上進めば、討伐妨害と見なす」
「もう妨害している」
「我々には領主の許可がある」
「その許可に、逃げる相手を囲んで殺せと書いてあるのか」
「同じことだ」
「俺には違って見える」
団長の顔が険しくなる。
「名を名乗れ」
「バルド・グレイン」
岩場にざわめきが走った。
「銀剣の黎明の《不壊》……」
ハンターの一人が呟く。
「元だ。今日から修理屋をしている」
団長は槍を下げなかった。
「S級冒険者でも、領主の命令を無視する権利はない」
「そうだな」
「なら下がれ」
「断る」
「なぜだ」
バルドは黒猫を指した。
「猫をいじめるな」
一瞬、誰も言葉を返せなかった。
「我々は街を守っている!」
「分かっている」
「なら、なぜ邪魔をする!」
「守るためなら、何をしてもいいわけではない」
団長が槍を突き出した。
バルドは穂先をつかむ。
魔力を流すと、穂先を固定していた金具が外れ、柄が三つの部品へ分かれた。
団長の手には短い棒だけが残る。
「何をした」
「分解した」
左右の騎士が剣を抜く。
バルドは一人目の剣を避け、柄へ触れた。
刃、鍔、柄が地面へ落ちる。
盾を構えた騎士には、その縁へ指を当てる。鉄板が木枠から外れ、騎士の視界を塞いだ。
背後から来た槍も、石突を軽く叩くだけで節ごとに分かれる。
バルドは誰も殴らなかった。ただ、武器と防具だけを壊していく。
正確には、元の部品へ戻していた。
「武器を置け」
バルドは言った。
「直す手間が増える」
「宣伝している場合か!」
団長が怒鳴った。
その隙に、ハンターが黒猫へ捕獲網を投げた。
雷の術式を編み込んだ網だ。
バルドは黒猫の前へ出て、両手で受け止めた。
青白い電撃が身体を走る。
「そいつを売れば金貨千枚だ!」
ハンターが叫ぶ。
「毛皮、牙、爪、魔力核。全部が最高級品だ!」
「街を守るためではなかったのか」
「殺せば街も安全になる!」
バルドは網へ魔力を流した。金属線がほどけ、雷の術式が消える。
「お前たちは街を守っているんじゃない」
糸の束を地面へ落とす。
「値札を囲んでいるだけだ」
ハンターたちが矢をつがえた。狙いはバルドではない。黒猫だ。
バルドが外套を広げる。放たれた矢が、すべて布へ弾かれた。
「いい加減にしろ」
怒鳴ったわけではない。それでも、岩場の空気が重くなった。
長年、災厄級魔獣を相手に仲間を守ってきた者の圧力だった。
「次にこの猫を狙ったら、武器だけでは済ませない」
騎士もハンターも動かなかった。
団長は折れた槍の柄を握りしめていたが、やがて手を下ろした。
「撤収する」
「団長!」
「騎士団は撤収する」
不満を見せるハンターを無視し、団長はバルドへ向き直った。
「その魔獣が街で人を襲えば、責任はお前に取ってもらう」
「ああ」
「災厄級だという事実は変わらない」
「分かっている」
「分かっていて、連れていくのか」
バルドは黒猫を見た。
「決めるのは、この猫だ」
騎士団が去る。
ハンターたちも、護衛なしで残る勇気はなかった。
静かになった途端、黒猫の身体が揺れた。
前脚が崩れかける。それでも倒れまいとしている。
「もう誰もいない」
バルドが言う。
黒猫は牙をむいた。
「分かっている。近づかない」
背負い袋から干し肉を取り出し、小さく裂いて地面へ置く。
黒猫は動かない。
「毒は入っていない」
返事はない。
「信じろとも言わない」
バルドは少し離れた岩へ座り、黒猫へ背を向けた。
風が木々を揺らす。黒猫の荒い呼吸。それだけが聞こえる。
しばらくして、砂利が小さく動いた。
肉の匂いを嗅ぐ音。次に、噛む音がした。
バルドは振り向かない。
もう一片を後ろへ投げる。
それも、やがて食べる音がした。
バルドは立ち上がった。
「俺は帰る」
黒猫の呼吸が止まる。
「街の外れに店がある。火も食べ物もある」
背負い袋を担ぐ。
「来るならついてくればいい。来ないなら、それでもいい」
歩き出した。岩場を離れ、森の道へ戻る。
背後から音はしない。それでも歩調は速めなかった。
やがて、枝の折れる音がした。続いて、石を踏む小さな音。
一定の距離を保ち、黒猫がついてきている。
バルドは振り向かなかった。
森を半分ほど抜けたところで、背後から重い音がした。
黒猫が倒れている。駆け寄ろうとすると、黒猫は頭を上げ、牙をむいた。
まだ触れられることを拒んでいる。
「抱えた方が早いんだが」
低い唸り声が返る。
「嫌か」
さらに唸る。
「分かった。触らない」
バルドは外套を脱ぎ、地面へ広げた。
「これに乗れるか。引いていく」
黒猫は外套とバルドを交互に見る。
疑っている。当然だった。
矢を射られ、罠で足を砕かれたばかりなのだ。
「急がなくていい」
バルドはその場へ座った。
しばらくして、黒猫が前脚を外套へ乗せた。
もう片方。
傷ついた身体を引きずり、ようやく上へ乗る。
バルドは外套の端を持ち、ゆっくり引いた。
土の上を布が滑る。
黒猫は最初こそ身体を固くしていたが、バルドが振り返らず、一定の速度で進むうちに少しずつ力を抜いた。
やがて万物堂の灯りが見えた。
窓の向こうで、暖炉の火が揺れている。
店の前で黒猫は外套から降りた。
開いた扉の前に立ち、店内を見る。
知らない場所。人間の匂い。逃げ道は一つ。
黒猫は敷居を越えない。
バルドは先に中へ入った。
扉は開けたままにする。
鍋から味の薄い肉を取り出し、水で洗って皿へ置く。
水も用意した。
「俺はここにいる」
黒猫は外から見ている。
「入るかどうかは、好きにすればいい」
バルドは黒猫から離れ、壊れた木椀を直し始めた。
木目がつながっていく。
小さな足音がした。黒猫の前脚が敷居を越える。
一度引っ込む。それから、もう一度。
頭。身体。傷ついた後脚。最後に尾。
黒猫は自分の意思で店へ入った。
すぐには奥へ来ない。入口のそばで、いつでも逃げられる姿勢を保っている。
バルドは見ないふりをして、木椀を直し続けた。
黒猫が肉の皿へ近づく。
最初は周囲を警戒しながら、やがて夢中で食べ始めた。
皿が空になる。水には口を付けない。
店内を見回し、棚の下にある暗い隙間へ身体を滑り込ませた。
金色の目だけが、暗闇からバルドを見ている。
「そこがいいなら、そこを使えばいい」
バルドは少し離れた場所へ古い毛布を置いた。
「名前は、まだいらないな」
黒猫の耳が動いた。
今夜は二階へ上がらず、一階の椅子で眠ることにする。
見張られていると思わせないよう、暖炉へ背を向けた。
「おやすみ」
返事はない。
しばらくして、棚の下から小さな音がした。
黒猫が、置かれた毛布の匂いを嗅いでいる。
バルドは目を閉じた。
人間を信じない黒猫と、もう仲間を持たない男。
二つの影はまだ離れたまま、同じ火のそばで夜を迎えた。




