第1話 四十を過ぎた冒険者はいらない
「バルド。お前には、今日限りでパーティを抜けてもらう」
王都冒険者ギルド本部、三階の会議室。
長机の向こう側に座ったレオン・ガルディアは、できる限り感情を排した声でそう告げた。
窓から差し込む午後の日差しが、彼の銀色の胸当てを白く光らせている。
レオンは三十一歳。
金髪に青い瞳を持つ、絵に描いたような英雄だった。
腰には、魔竜の牙から鍛えた聖剣が下がっている。
その刃を研ぎ、柄の緩みを直し、内部に刻まれた魔力回路を毎晩調整してきたのは、バルドだった。
「今日限りか」
バルドは聞き返した。
それ以上の言葉は、すぐには出てこなかった。
驚かなかったわけではない。ただ、驚きより先に、レオンの聖剣の鞘がわずかに歪んでいることに気づいてしまった。
鞘口の金具が片側だけ浮いている。
あのまま剣を抜き続ければ、刃の根元へ不要な負荷がかかる。次の遠征までには直した方がいい。
そこまで考えてから、バルドは自分がもう直す立場ではないことを思い出した。
「ああ」
レオンはうなずいた。
「急な話なのは分かっている。だが、銀剣の黎明も次の段階へ進まなければならない」
会議室には、バルドとレオン以外に三人いた。
魔術師のセシリア。
斥候のディーン。
神官戦士のマルク。
十年以上、同じ焚き火を囲んできた仲間たちだ。
誰もバルドを見ていなかった。
セシリアは机の上の杖を見つめている。杖頭にはめ込まれた青晶石には、先週バルドが修復したばかりの魔力安定術式が刻まれていた。
ディーンは腕を組み、壁へ視線を逃がしている。
彼の軽鎧は、元は三種類の別々の防具だった。バルドが解体し、彼の動きに合わせて組み直したものだ。
マルクは祈るように両手を組んでいた。その左手の小指は、五年前に魔獣に食いちぎられた。バルドがその場で接合しなければ、今も欠けたままだっただろう。
「次の段階というのは?」
バルドが尋ねると、レオンは用意していた言葉を口にした。
「若い人材を中心に、より機動力の高い編成へ変える」
「なるほど」
「お前も四十三だ。前衛として動き続けるには、そろそろ厳しい年齢だろう」
「最近は、前衛に出ることは少なかったが」
「だからだ」
レオンの声がわずかに強くなった。
「今のお前は、武器の整備や補給、負傷者の治療が中心だ。もちろん、その仕事には感謝している。だが、装備の整備なら専門の職人を雇える。治療も、専属の治癒術師を入れればいい」
バルドは机に置かれた一枚の紙を見た。
新編成案。
そこには若い剣士、治癒術師、魔道具技師の名前が並んでいる。
三人でバルド一人分の役割を分担するらしい。
合理的といえば、合理的だった。
「侯爵家からも、若い英雄を前面に出してほしいと言われている」
レオンは続けた。
「俺たちは冒険者であると同時に、王国を代表する存在だ。見栄えも無視できない」
「つまり、俺は見栄えが悪いのか」
バルドがそう言うと、ディーンがわずかに顔を上げた。
レオンの表情が硬くなる。
「そういう言い方をするな。俺は、お前のこれまでを否定しているわけじゃない」
「そうか」
「これは追放ではない。名誉ある引退だ」
会議室の奥に座っていたギルド長オルセンが、そこで初めて口を開いた。
五十代半ばの、恰幅のよい男だった。
柔和な笑みを浮かべているが、その目は笑っていない。
「バルド君。君の功績は、ギルドも高く評価している。今後も銀剣の黎明の歴史の中に、君の名は残る」
オルセンは書類を一枚、バルドの前へ滑らせた。
功労者引退確認書。
その下には、精算額が記されている。
長年の貢献に対する報奨金。
そこから、過去の遠征費、装備費、施設利用料、治療薬代、共同倉庫の維持費が差し引かれていた。
最終的に残った金額は、王都で数か月暮らせるかどうかという程度だった。
さらに、その一部は現金ではない。
「リュネールの建物?」
バルドは添付された権利書を手に取った。
「王国北西部の辺境都市だ」
オルセンが説明する。
「かつて鉱山で栄えた街だが、今は空き家が多い。ギルドが債権整理の際に取得した物件が一つあってね。住居にも工房にも使える」
「状態は?」
「多少、手を入れる必要がある」
その言い方で、おおよその状態は想像できた。
多少で済むなら、こんな形で押しつけたりはしない。
「バルド」
セシリアがようやく顔を上げた。
「私たちは、あなたを嫌っているわけではないの」
「ああ」
「ただ……」
彼女は続く言葉を見つけられず、口を閉じた。
バルドは助け舟を出さなかった。
彼女が何を言っても、おそらく自分を傷つけるか、彼女自身を傷つけるかのどちらかだった。
ディーンは壁を見たまま言った。
「おっさんだって、前から店を持ちたいって言ってただろ」
「言ったな」
「だったら、ちょうどいいじゃないか。危険な遠征を続けるより、辺境でのんびり修理屋でもやればいい」
声は明るく作られていた。だが、最後までバルドとは目を合わせなかった。
「そうだな」
バルドは答えた。
店を持ちたいと思ったことはある。
壊れた剣や鎧だけではなく、椅子や鍋や時計を直す店。
腹を空かせた客には、温かい食事を出す。
そんな場所を、いつか作れたらいいと考えていた。
ただし、それは仲間に不要と判断された日に始める予定ではなかった。
予定というものは、たいてい予定どおりにはいかない。
「確認書に署名してくれるかね」
オルセンが羽根ペンを差し出す。
バルドは文面を読み直した。
自分の意思による引退。
銀剣の黎明および冒険者ギルドへの異議申し立てを行わない。
過去の遠征で得た権利や所有物について、追加の請求を行わない。
最後の一文で、手が止まった。
「銀剣の黎明の過去の功績は、すべて現在の構成員に帰属する」
バルドは読み上げた。
「形式上の処理だ」
オルセンが言った。
「討伐記録や依頼実績を、個人単位に分割することは難しい。君の名前が消えるわけではない」
「だが、報奨金や権利は残った者に渡る」
「パーティとは、そういうものだ」
バルドはレオンを見た。
レオンは視線を逸らさなかった。
そこには迷いもあった。
だが、署名を止めるほどの迷いではない。
「分かった」
バルドは署名した。
セシリアが小さく息を呑んだ。
「バルド、本当にいいの?」
「ここで揉めれば、俺が残れるのか?」
セシリアは答えなかった。
「なら、いい」
羽根ペンを置く。
胸の中に何もないわけではなかった。
十六年。
短い時間ではない。
眠らずに武器を直した夜もあった。吹雪の中で仲間を背負ったこともある。
魔力切れで動けないセシリアを守りながら、夜明けまで魔獣と戦ったこともある。
レオンがまだ駆け出しだった頃、その剣を何度も受け止め、立ち方から教えた。
それらが今日、紙一枚で過去になった。
だが、怒鳴ったところで直るものではない。
そもそもこれは、壊れた物なのか。それとも、最初からこういう形だったものを、自分が見間違えていただけなのか。
「荷物はまとめてある」
レオンが言った。
部屋の隅に、バルドの工具箱と背負い袋が置かれていた。
驚くほど少ない。
「ずいぶん早いな」
「今日のうちに話を終わらせる予定だった」
「そうか」
バルドは立ち上がり、工具箱を持った。長年使ってきた鉄製の箱だ。
角は潰れ、取っ手は三度交換している。
中には金槌、やすり、針金、魔力測定針、細工用の小刀。
そして、一番底に、黒く焼けた首輪の破片が入っている。
八年前から、一度も捨てられずにいるものだった。
「バルド」
レオンが呼び止めた。
「これまで助かった」
「ああ」
「だが、時代が変わったんだ」
バルドは少し考えた。
「そうかもしれないな」
それだけ言って、会議室を出た。
扉が閉まる直前、金属の裂けるような、小さな音がした。
バルドは足を止めた。
音の方向は、レオンの腰。
聖剣の内部で、刃に細い亀裂が入った音だった。
毎日、魔力を流して調整していたため保たれていたが、剣そのものは長年の戦闘で疲弊している。
次に全力で振れば、折れる可能性がある。
バルドは振り返りかけた。
だが、やめた。
もう、自分が直すべき剣ではない。
階段を下り、ギルドの正面玄関を出た。
春の日差しが、王都の石畳を照らしていた。
冒険者たちが行き交っている。
依頼の成功を祝う者。これから初めての遠征へ向かう若者。怪我を抱えて戻ってきた者。
誰もバルドを見ない。
昨日までS級パーティの一員だった男が、今日から何者でもなくなったことを知る者はいなかった。
バルドは権利書を開いた。
辺境都市リュネール。
王都から乗合馬車で四日。
その後、山道を半日。
「遠いな」
呟いてから、少し笑った。
今まではもっと遠い場所へ行っていた。
火竜の山。
底なし沼。
死者の森。
それらに比べれば、馬車が通る場所など近所みたいなものだった。
◇
四日後。
リュネールへ向かう乗合馬車の窓から、バルドは傾きかけた夕日を眺めていた。
道の両側には、灰色の岩山と針葉樹の森が続いている。
同乗していた商人は、リュネールへ向かう理由を聞くと、気の毒そうな顔をした。
「今から店を始めるんですか、あそこで?」
「ああ」
「鉱山が閉じてから、人が減る一方ですよ。冒険者も商人も、みんな南へ移った。商売になるかどうか」
「壊れた物が一つもない街なら、商売にならないかもしれないな」
「そんな街はありませんよ」
「なら、何とかなる」
商人はしばらくバルドを見た後、変わった人だと言って笑った。
日が沈む頃、馬車はリュネールへ到着した。
高い城壁はあるが、門の上には古い亀裂が走っている。
通りには閉じた店が多い。鉱山で使われていたらしい大型の荷車が、車輪を外された状態で路地へ放置されていた。
それでも、街が死んでいるわけではない。
パン屋からは焼きたての匂いがする。井戸端では女たちが話している。子どもが木の棒を剣に見立てて走り回っていた。
ギルドの出張所で権利書を見せると、痩せた役人が案内役を引き受けた。
「先に申し上げておきますが」
役人は歩きながら何度も額の汗を拭いた。
「建物の状態について、当方では責任を負いかねます」
「雨漏りか?」
「します」
「床が抜けている?」
「一部」
「壁は?」
「場所によっては」
「屋根は?」
「半分ほど」
役人は次第に声を小さくした。
「なるほど」
「怒らないのですか」
「見てから決める」
街の中心から外れ、森に近い場所まで来た。
役人が立ち止まる。
「こちらです」
バルドは建物を見上げた。
二階建てだった。
おそらく過去には酒場か宿屋だったのだろう。
横幅は十分にある。ただし、建物全体が右へ傾いている。
屋根には大きな穴。窓ガラスはすべて割れ、扉は蝶番から外れて壁へ立てかけられている。
看板は朽ちて、何の店だったのかも読めない。
二階の窓から鳥が飛び出した。
「多少、手を入れる必要があると聞いた」
バルドが言うと、役人は視線を逸らした。
「ギルド本部の表現では、そうなっております」
「嘘ではないな」
「そう言っていただけると助かります」
バルドは建物へ近づいた。
柱へ手を触れる。
目を閉じる。
固有技能《万物修繕・再構成》。
触れた物の構造が、頭の中へ流れ込む。
腐った梁。錆びた釘。雨水を吸った壁材。地盤沈下で歪んだ基礎。
詰まった煙突。壊れた竈。崩れかけた階段。
確かに、ひどい。だが、完全に失われたものは少ない。
柱の芯は残っている。基礎石も使える。
床板の三分の一は再利用可能。
裏手の倉庫には、補修用の木材まで積まれていた。
持ち主が直そうとして、途中で諦めたのだろう。
「十分だ」
バルドは言った。
「え?」
「壊れているだけなら、直せる」
柱へ魔力を流す。
建物全体が低く震えた。
役人が悲鳴を上げて後退する。
腐食した釘が壁から抜け、空中で錆だけを落として戻っていく。
歪んだ梁が軋みながら正しい位置へ移動する。
崩れた壁の石材が積み直され、割れた箇所がつながる。
倉庫の木材が浮かび上がり、失われた床と屋根へ組み込まれる。
散らばっていたガラス片が窓枠へ集まり、透明な一枚へ戻った。
完全に元どおりではない。使える物は使い、足りない部分は別の素材で補う。かつての姿を再現するのではなく、これから使える形へ直す。
やがて震動が止まった。
傾いていた建物はまっすぐ立っている。
屋根の穴は塞がり、扉も元の位置へ戻っていた。
古さは残っている。新築のように華美ではない。だが、雨風を防ぎ、人が暮らし、客を迎えられる建物になった。
役人は口を開けたまま動かなかった。
「これが、S級冒険者の魔法……」
「修理だ」
「今のが?」
「少し大がかりだが」
「少しの範囲がおかしい」
役人は呆然と呟いた。
バルドは建物の中へ入った。
一階には広い客室がある。奥に厨房。その横には作業場に使えそうな小部屋。
二階には寝室が四つ。
一人で使うには広すぎる。だが、狭いよりはいい。
バルドは古い板を一枚見つけ、店先へ運んだ。
修繕の力は使わない。小刀で表面を削り、炭で文字の下書きをする。
それからゆっくり、文字を彫った。
修理・軽食。
少し考え、その下に店名を入れる。
万物堂。
何でも直すなどと書けば、大げさに見えるかもしれない。だが、名乗るだけなら自由だった。
看板を入口へ掛ける。
気づけば、夜になっていた。
役人はとっくに帰っている。
バルドは厨房に残っていた古い鍋を直し、干し肉と豆を煮た。
一人分にしては多く作りすぎた。
冒険者時代の癖だった。
鍋を囲む人間が四人から五人いることを、身体がまだ覚えている。
「明日も食べればいい」
誰に言うでもなく呟く。
二階の寝室へ工具箱を運んだ。
底にある黒い首輪の破片が、移動の振動でかすかな音を立てた。
バルドは箱を開けなかった。
窓の外を見る。
王都と違い、夜空には無数の星が見えた。
追放された。仲間を失った。明日からは、依頼も命令もない。
それなのに胸にあるのは、悲しみよりも安堵だった。
これからは、自分が何を直すかを自分で決められる。
剣でなくてもいい。鍋でも、椅子でも、壊れた玩具でもいい。
直した物を受け取った相手が、少しでも楽になるなら、それでいい。
バルドは寝台へ横になった。
その直後だった。
遠くで、爆発音がした。窓ガラスが小さく震える。
続いて、森の方角から獣の声が響いた。
低く、掠れた鳴き声。
助けを求めているようには聞こえなかった。
もう誰にも助けを求めまいと、痛みを噛み殺している声だった。
バルドは起き上がった。
外套を羽織り、工具箱から手袋を取り出す。
壁へ立てかけていた古い大剣には手を伸ばさなかった。
「今行く」
返事があるはずもない声へそう告げ、バルドは夜の森へ向かった。




