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第20話 世界最強の聖域

 古代怨猫神グラが小さくなったあとも、誰もしばらく動かなかった。

 山ほどあった身体は縮んだ。

 だが、普通の猫になったわけではない。

 立ち上がれば、背中はバルドの胸ほどまである。

 太い前脚。暗い灰色の長毛。首には拘束具の痕が深く残り、九本の尾が地面へ広がっている。

 猫というより、大型の虎に近かった。

 そのグラが、平原の中央で干し肉を噛んでいる。

 王国軍は遠巻きに見守っていた。

 兵士たちは武器を構えたままだが、誰も近づこうとはしない。

「もう一枚食べるか」

 バルドが干し肉を出す。

 グラは赤い目を細めた。

「少ない」

「保存食だからな」

「我をこれで満たせると思うな」

「思っていない」

 グラは肉を奪い取るように口へ入れた。

 三匹の猫も近くにいる。

 ミケはグラの前で胸を張り、自分が連れてきたとでも言いたげだった。

 ライは巨大な前脚の匂いを嗅いでは離れる。

 ルーは九本の尾の間へ姿を消し、別の場所から顔を出している。

「店へ戻ったら、もう少し作る」

 バルドが言う。

「肉を煮て、柔らかくする」

「味は」

「塩は使わない」

「ならば肉の味が薄い」

「身体にはその方がいい」

「我は古き神ぞ」

「首輪を外したばかりだ。消化のいい物からだな」

 グラの尾が不満そうに地面を打った。

 大地がわずかに揺れる。

 周囲の兵士が一斉に身構えた。

「尾は静かに」

「我へ命令するか」

「店の近くで地面を割られると困る」

 グラは鼻を鳴らした。

 それでも、二度目は地面を打たなかった。

     ◇

 万物堂へ戻ると、バルドはすぐ厨房へ入った。

「休んでください」

 エレノアが追いかけてくる。

「グラの食事を作る」

「数刻前まで、災厄級最高位の魔獣と向き合っていた人の発言ではありません」

「腹が減っている」

「あなたもでしょう」

「俺はあとでいい」

「それを禁止したはずです」

 エレノアはバルドの前へ回り込んだ。

「先に食べてください」

「肉を火に掛けてからでも」

「先です」

 バルドはエレノアを見た。譲る気はないらしい。

「分かった」

 厨房の隅でパンとスープを食べる。

 その間、グラは店の外で待っていた。

 中へ入れないのではない。入ろうとすると、九本の尾と大きな身体が入口につかえた。

「扉を広げる」

 食事を終えたバルドが入口へ触れる。

「また増築ですか」

「改修だ」

「帳簿上は同じです」

 壁と柱が動く。扉が倍ほどの幅へ広がった。

 グラは身体を低くし、ゆっくり店内へ入る。

 暖炉の前へ行き、伏せた。

 それだけで、暖炉と客席二つが完全に隠れた。

「そこは通路です」

 エレノアが言う。

「暖かい」

 グラは動かない。

「お気持ちは分かりますが、店員が通れません」

「我が避ける必要はない」

「あります」

 ミケがグラの背中へ飛び乗った。

 長い毛へ前脚を埋め、その場で丸くなる。

 ライも少し迷ってから横へ座った。

 ルーは姿を消し、グラの尾の中へ潜り込んだ。

「全員で占拠しないでください」

 誰も動かない。

 バルドは厨房から大鍋を運んだ。鶏肉と根菜を柔らかく煮たものだ。

 グラの前へ置く。

 普段の猫用皿では足りないため、洗い桶ほどの器を使っている。

「食べていい」

 グラは匂いを嗅いだ。

「毒は」

「入っていない」

「眠らせる薬は」

「入っていない」

「命令へ従わせる術式は」

「料理には入れられない」

「人間は入れる」

「俺は入れない」

 グラはしばらくバルドを見た。

 やがて、慎重に肉を一口食べる。

 噛む。飲み込む。

 次は少し大きな一口。

 その次は、器へ顔を近づけたまま食べ始めた。

「お気に召したようですね」

 エレノアが言う。

「悪くはない」

 器の中身は、急速に減っていく。

 バルドは首輪の痕を確認するため、グラの横へしゃがんだ。

「触るぞ」

 赤い目が向く。

 グラは拒まなかった。

 指で首元の毛を分ける。

 傷は閉じている。だが、長い間針を刺されていた皮膚は固く、魔力の流れも完全には戻っていない。

「痛むか」

「痛みなどない」

 バルドが顎の下へ手を移す。傷の周囲を確かめるため、毛を軽く撫でる。

 グラの目が細くなった。

 喉の奥から、低い振動が聞こえる。

 店内の食器が小さく震えた。

「喉が鳴っています」

 エレノアが言う。

「鳴っておらぬ」

「鳴っています」

「これは威嚇だ」

「食器が一定の間隔で震えています」

「古き神の魔力である」

 バルドは顎の下をもう一度撫でた。

 振動が少し大きくなる。

 グラは威厳を保とうと赤い目を開いたが、身体は暖炉の前へ深く沈んでいた。

「気持ちいいらしい」

「違う」

 ミケがグラの背中からバルドの膝へ移った。

「我の場所を取るな」

 グラが言う。

「そこはミケの場所らしい」

「我の方が大きい」

「大きさで決まらないそうだ」

 ミケは当然という顔で丸くなった。

     ◇

 グラの暴走が止まってから、王国は急速に動いた。

 ヴァレント侯爵が発表した声明には、多くの矛盾があった。

 エレノアが保管していたアルヴェイン家の古文書。

 ライの身体に残る人工術式。

 ルーへ装着されていた追跡首輪。

 侯爵家の捕獲者が所持していた命令書。

 研究施設から持ち出された識別板。

 さらに、銀剣の黎明が古代遺跡で見たものを証言した。

 ディーンとマルクは、侯爵から渡された地図と鍵、遠隔通信を行っていた術師について、知る限りをすべて話した。

 セシリアも、白銀幻猫へ強力な魔法を放ったことを認めた。

 レオンは最初、侯爵に騙されたと繰り返した。

 だが、鍵を差し込んだのが自分であることまでは否定できなかった。

 侯爵領の研究施設が王国軍によって捜索されると、決定的な資料が見つかった。

 魔獣の軍事転用計画。

 アルヴェイン公爵家へ禁制品を持ち込んだ私兵の記録。

 偽造された密書の原本。

 グラの封印を解除したあと、エレノアの血を支配術式へ組み込む実験計画。

 さらに、グラの暴走をアルヴェイン家の陰謀として処理するための声明案まで残されていた。

 セドリック・ヴァレント侯爵は、王都へ入る直前に拘束された。

 私兵を使って抵抗することはなかった。自分が殺されれば、支持者によって英雄化される。そう考えたのかもしれない。

 王国は彼を処刑せず、公開法廷で裁くことを決めた。

 魔獣を兵器化したこと。公爵へ冤罪を着せたこと。古代守護獣の封印を意図的に破壊したこと。

 その責任を、王国の記録へ残すためだった。

     ◇

 銀剣の黎明は、冒険者資格を無期限停止された。

 侯爵の命令を受けたとはいえ、危険性を確認せず封印を解除した。

 白銀幻猫を捕獲する際にも、過剰な攻撃を行っている。

 正式な処分が決まるまで、依頼を受けることはできない。

 レオンが万物堂を訪れたのは、処分の通告を受けた翌日だった。

 一人だった。

 外套に銀剣の黎明の紋章はない。腰にも剣を下げていなかった。

「話がある」

 レオンは店の入口で言った。

「注文ではないのですね」

 エレノアが確認する。

「違う」

「では、閉店後にしてください」

「すぐ終わる」

「他のお客様がいます」

 レオンは店内を見る。

 視線が自分へ集まっていることに気づき、口を閉じた。

 閉店まで、外の長椅子で待った。

 夕方。バルドは店先へ出た。

 レオンは俯いたまま座っている。

「ディーンたちは?」

「証言のため王都に残った」

「お前は」

「俺の証言も終わった」

 レオンは両手を見た。

「資格を失った」

「停止だ」

「同じだ」

「違う。期限が決まっていないだけだ」

「戻れると思うか」

「俺に聞くことではない」

 レオンは乾いた笑いを漏らした。

「昔から、お前はそうだったな」

「何がだ」

「答えを知っているくせに、言わない」

「知らないからだ」

 沈黙が落ちる。

 通りの向こうでは、避難していた住民が荷物を運び戻している。

 崩れた壁。割れた道路。壊れた荷車。

 街には修繕を待つものが多い。

「俺は」

 レオンがようやく口を開いた。

「お前がいなければ、何者でもなかったのか」

 声には、以前の怒りがなかった。

 英雄として扱われなくなった男の、空白だけがあった。

 バルドはすぐには答えなかった。

「銀剣の黎明が成功したのは、俺一人の力ではない」

「だが、お前がいなくなって崩れた」

「崩れないように支えすぎた」

「それなら、俺には何が残る」

「それを決めるのは、これからのお前だ」

 レオンが顔を上げる。

「許すということか」

「違う」

 バルドははっきり答えた。

「セレスのことも、ルーのことも、グラのことも消えない。銀剣の黎明へ戻るつもりもない」

「なら、俺にやり直せと言うのか」

「それも俺が決めることではない」

 レオンの顔に苦しげな色が浮かぶ。以前なら、それを見て助けようとしただろう。

 方法を示し、装備を整え、次の道を準備した。

 だが、それでは同じだった。

 バルドは手を出さなかった。

「お前が何者になるかは、お前が選べ」

 レオンは長く黙っていた。

 やがて立ち上がる。

「まだ、お前が正しかったとは思えない」

「それでいい」

「いつか、俺の力だけで戻る」

「ああ」

 レオンは街の中央へ歩いていった。

 どこへ向かうのかは、バルドにも分からなかった。

     ◇

 アルヴェイン公爵が釈放されたのは、その数日後だった。

 痩せていた。拘束中に暴力を受けた形跡はなかったが、何か月も日の差さない場所へ閉じ込められていたため、顔色が悪い。

 万物堂へ入ってきた父を見た瞬間、エレノアは公爵令嬢でも店員でもなくなった。

「お父様」

 駆け寄り、抱きつく。

 父も娘の背へ腕を回した。

「無事だったか」

「はい」

「本当に?」

「逃げる途中は、無事とは言えませんでした」

「そうか」

 それ以上は聞かず、父はしばらく娘を抱いていた。

 ライがカウンターの下から様子を見ている。ミケはバルドの膝。ルーは棚の上。グラは暖炉の前を塞いでいる。

 公爵は四匹を順番に見た。

「報告では聞いていたが」

「全員、万物堂に残っています」

「この大きなものもか」

「グラです」

「古代の守護獣が、暖炉の前で寝ているのか」

「暖かい場所を好むようです」

「聞こえているぞ」

 グラが片目を開く。

 公爵は姿勢を正した。

「失礼した」

 エレノアは少し笑った。

 その日の夜、父娘は二階で長く話した。

 アルヴェイン家の名誉は回復した。凍結されていた領地と資産も返還される。

 公爵は、娘へ屋敷へ戻ってほしいと頼んだ。

「お前が継ぐべき仕事がある」

「分かっています」

「今度こそ、聞き手としての役割を王国に認めさせなければならない」

「そのためにも、私はここへ残ります」

 父は目を瞬いた。

「侯爵は拘束された。もう隠れる必要はない」

「隠れるためではありません」

 エレノアは窓の外を見た。

 万物堂の猫用通路。暖炉の明かり。下から聞こえるグラの大きな喉の音。

「私は逃げてここへ来ました」

 ライを連れ、追手から逃げ、倒れた。

 万物堂へ残ったのも、最初は行く場所がなかったからだ。

「ですが、今は自分の意思でここに残ります」

「公爵家を捨てるのか」

「いいえ」

 エレノアは首を横へ振った。

「公爵家と万物堂をつなぎます」

 魔獣の被害を防ぐ。傷ついた魔獣を保護する。人間の街で暮らせない個体には、安全な場所を用意する。

 ただし、閉じ込めない。従わせない。

 残るか、去るかを本人が選べる場所にする。

「それが、これからのアルヴェイン家の仕事です」

「前例はない」

「作ります」

「貴族社会は簡単には認めない」

「帳簿と規則を整えれば、制度にできます」

「それだけでは動かない」

「公爵家の力も使います」

 父は娘を見つめた。

「強くなったな」

「店員として働いていますから」

「関係があるのか」

「毎日、災厄級魔獣四匹と店主一人を管理しています」

「店主も管理対象なのか」

「最も手が掛かります」

 階下からバルドのくしゃみが聞こえた。

 父は小さく笑う。

「分かった」

 完全に理解したわけではない。それでも、娘の選択を止めなかった。

     ◇

 王国は、万物堂周辺を暫定的な魔獣保護区域へ指定した。

 国営施設ではない。軍の管理下にも置かれない。

 運営責任者は、バルド・グレインとエレノア・アルヴェイン。

 魔獣を国家の所有物とはしない。

 保護された魔獣は、危険性を確認した上で、残留または退出を自ら選べる。

 強制的な兵器利用を禁止する。

 接触、治療、移送には、可能な限り本人の意思を確認する。

 ヴァレント侯爵の思想とは、正反対の制度だった。

 王国の役人は、名称をどうするかで揉めた。

 魔獣保護施設。

 災厄級管理区域。

 アルヴェイン特別保護区。

 どれもエレノアが却下した。

「管理や所有を前提とする名称は認めません」

 最終的に、旅人たちが使っていた呼び名が正式文書にも残った。

 万物堂聖域。

 バルドは最後まで大げさだと反対した。

「修理屋だ」

「現在、災厄級最高位を含む四匹が暮らしています」

「猫がいるだけだ」

「その猫が王国軍を退けています」

「今は寝ている」

「起きたときが問題なのです」

 グラが暖炉の前で尾を動かした。

 食器棚が揺れた。

「尾を静かにしてください!」

     ◇

 数週間後。

 万物堂は、開店前から行列ができていた。

 修理を頼む職人。食事を目当てに来た旅人。猫を見たい家族。魔獣との関係に困り、相談へ来た農夫。王都から派遣された研究者もいる。

 ただし、研究目的で触ろうとした者は全員、入口の規則を読まされ、エレノアの面接を受けることになった。

「開店まで、あと半刻です」

 エレノアは帳簿を開いた。

 注文票を並べる。

 その上へ、ライが乗った。

「ライ、そこは寝床ではありません」

 ライは動かない。

「本日の予約が見えません」

 耳先で小さな雷が弾ける。

「抗議しても駄目です」

 窓辺では、客の帽子がひとりでに浮いていた。

 帽子が棚の上へ移動する。

 透明になったルーの仕業だ。

「ルー。お客様の持ち物を移動させないでください」

 帽子が別の棚へ動く。

「戻してください」

 帽子は元の位置ではなく、ミケの頭へ載せられた。

 ミケが目を細める。

 次の瞬間、白銀の尾だけが空中へ現れ、店の奥へ逃げた。

 ミケが追いかけようとする。だが、バルドの膝へ乗っていたため、一度降りる必要がある。

 その隙にルーは姿を消した。

「店内では走らないでください」

 ミケは膝から動かず、黒炎だけを少し出した。

「店内で炎も禁止です」

 暖炉の前では、グラが完全に通路を塞いでいた。

 九本の尾が客席の間まで広がっている。

「グラ。開店しますので、もう少し奥へ」

「ここが最も暖かい」

「給仕が通れません」

「またげ」

「お客様に古代守護獣をまたがせるわけにはいきません」

「ならば客を減らせ」

「店の経営へ口を出さないでください」

 バルドは膝のミケを下ろそうとした。

 ミケは爪を出さず、服へしがみつく。

「降りてくれ」

 動かない。

 ライは注文票の上。

 ルーは姿を消したまま、炭筆を一本ずつ床へ落としている。

 グラは暖炉の前。

 店の外では、開店を待つ客がさらに増えていた。

 エレノアは店内を見渡した。

「店主」

「何だ」

「世界最強の聖域が、開店前から崩壊しています」

 猫たちに囲まれたバルドは、しばらく考えた。

「繁盛しているということかな」

「違います」

 そのとき、店の前へ新しい荷馬車が止まった。

 御者が慌てた様子で降りてくる。

「ここが万物堂ですか!」

 荷台には、古い毛布が積まれていた。

 その奥から、小さな鳴き声が聞こえる。

 ミケが顔を上げる。

 ライが注文票から降りる。

 ルーが帽子を元へ戻し、姿を現す。

 グラも赤い目を開いた。

 バルドは膝の上を空け、立ち上がった。

 万物堂の一日は、今日も壊れたものを迎えるところから始まる。


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