第19話 先輩保護猫の説得
グラの周囲では、黒灰色の魔力が嵐のように渦巻いていた。
風ではない。長い年月、首輪と鎖に閉じ込められていた憎悪が、魔力となって吹き荒れている。
平原の草は黒く枯れ、地面には幾筋もの亀裂が走っていた。
その中心に、グラがいる。
山と見間違えるほど巨大な身体。赤く光る目。首には古代の拘束具が食い込み、太い鎖が切れたまま何本も引きずられている。
王国軍は、その正面へ陣を敷いていた。
「第三射、放て!」
指揮官の命令とともに、魔術師たちが杖を掲げる。
炎。氷。雷。
無数の魔法が空を覆い、グラへ降り注いだ。
巨大な身体が光に包まれる。だが、傷一つ付かない。
攻撃の魔力が黒灰色の霧へ吸い込まれ、逆にグラの身体へ流れ込んでいく。
赤い目がさらに強く輝いた。
咆哮。衝撃波が軍の前列を襲う。
騎士たちが盾ごと吹き飛ばされた。
「攻撃を止めてください!」
エレノアは軍陣へ向かって叫んだ。
声は魔力の嵐に消される。
バルドが前へ出た。
「撃つな!」
低い声が、不思議なほど遠くまで届いた。
指揮官が振り返る。
「民間人は下がれ!」
「攻撃するほど、あれは強くなる」
「黙れ! 災厄級魔獣を前に、攻撃以外に何がある!」
「話を聞く」
指揮官は一瞬、言葉を失った。
「化け物と話すだと?」
「守護獣です」
エレノアは前へ進んだ。
外套の内側から、公爵家の印章と古文書を取り出す。
「エレノア・アルヴェインです」
「反逆容疑者が、なぜここにいる」
「その発表はヴァレント侯爵による虚偽です。銀剣の黎明の証言もあります」
軍陣の後方には、負傷したレオンたちがいた。
ディーンが一歩前へ出る。
「封印を開いたのは俺たちだ」
兵士たちがざわめく。
「侯爵の命令だった。アルヴェイン家は関係ない」
レオンは俯いたまま何も言わなかった。
エレノアは古文書を掲げる。
「グラは古代王国の守護獣でした。アルヴェイン家は、彼を操る家系ではありません。人と魔獣の間で、その声を聞く役目を担っていました」
「そんな古文書が何の証明になる」
「少なくとも、今の攻撃が逆効果であることは、目の前で証明されています」
再びグラが咆哮する。
軍の結界が大きく揺れた。魔術師たちの一部が膝をつく。
「このまま続ければ、軍が先に壊滅します」
指揮官はグラを見る。次に、倒れた兵士たちを見る。
「どれほど止めればいい」
「私たちが戻るまでです」
「戻らなかった場合は」
「そのときは、あなたの判断へ従います」
指揮官は歯を食いしばった。
やがて、腕を上げる。
「全隊、攻撃停止!」
魔術師たちの杖が下がる。
平原に、グラの唸り声だけが残った。
◇
「ここから先は俺が行く」
バルドが言った。
エレノアはすぐに首を横へ振る。
「昨日の話をもう忘れたのですか」
「忘れていない。だが、拘束具へ触れる必要がある」
「声を受け取る人間も必要です」
ミケが二人の前へ出る。ライとルーも続く。
三匹とも、グラから目を逸らさない。
「全員で行くということか」
ミケの尾が上がった。
「そうですね」
エレノアは外套を押さえ、歩き始めた。
グラへ近づくほど、魔力の風は強くなる。
呼吸が苦しい。胸の奥へ、巨大な感情が流れ込んでくる。
痛い。暗い。許さない。近づくな。人間。
エレノアの脚が止まりかける。
バルドが隣へ立つ。
「無理なら戻れ」
「戻りません」
声を出すだけで胸が痛んだ。
グラの感情は、ライから受け取る小さな波とは違う。
海そのものが身体へ流れ込んでくるようだった。
それでも、歩く。
グラの前脚だけで、万物堂より大きい。
近づいてくる小さな人間たちを見下ろし、赤い目が細くなる。
黒灰色の霧が集まる。
バルドが前へ出た。
「少し触る」
グラへ届く声で言う。
返事はない。
巨大な前脚の先へ手を置く。
《万物修繕・再構成》。
バルドの意識が、グラの身体へ触れた。
壊れている。
首輪の内側から伸びた無数の針。神経と魔力核へ食い込む支配術式。命令へ逆らうたび、全身へ痛みを流す回路。
傷ついた骨。裂けた魔力経路。何千年も再生と破壊を繰り返した身体。
直せる箇所は見えた。
だが、力が届かない。
グラの身体が、バルドを拒絶している。人間の魔力を異物として押し返す。
バルドの腕が弾かれた。
衝撃で身体が後方へ飛ぶ。
エレノアとライが駆け寄る。
「バルドさん!」
「大丈夫だ」
腕は痺れていた。皮膚には黒い亀裂のような痕が浮かんでいる。
「修繕できませんか」
「構造は読める」
バルドは立ち上がった。
「だが、グラが人間を受け入れていない」
赤い目が二人を見下ろす。
感情が、さらに強く流れ込む。
人間は奪う。人間は縛る。人間は眠らせる。必要になれば起こす。役に立たなくなれば、また捨てる。
エレノアは胸を押さえた。
「グラは、私たちの言葉を信じていません」
「当然だな」
バルドはもう一度近づこうとしなかった。
ここで無理に力を流せば、また同じになる。
人間の都合で身体を変える。グラの意思を無視して、救ったことにする。
セレスのときとは違う。
今回は、能力が使えないからではない。使ってはいけない。
バルドは一歩後ろへ下がった。
「待つ」
エレノアが彼を見る。
「グラが決めるまでですか」
「ああ」
◇
ミケが前へ出た。
黒い身体が、グラと比べれば点のように小さい。
三本の尾が炎をまとい、ゆっくり広がる。黒炎が身体全体を包んだ。
その輪郭が大きくなる。
人間の背丈を超え、馬を超え、家屋ほどの大きさになる。
それでも、グラの前では仔猫に近い。
ミケは赤い目を見上げた。低い鳴き声を発する。人間の耳には、獣の唸りにしか聞こえない。だが、エレノアの胸には意味が流れ込んできた。
我も人間を憎んだ。母を殺された。子であった我を、素材として追った。
グラの感情が返る。
ならば、なぜ人間といる。
ミケの黒炎が揺れる。
許したわけではない。忘れたわけでもない。
グラが牙を見せる。
ならば退け。人間の街を潰す。縛った者をすべて消す。
ミケは動かなかった。
許せとは言わん。だが、お前が暴れれば、お前を縛った者ではなく、何も知らぬ者が死ぬ。
人間は同じだ。
グラの憎悪が広がる。
王。兵士。術師。密猟者。命令に従った者。見て見ぬふりをした者。
誰も止めなかった。すべて同じ。
ミケの尾から炎が強く上がる。
我も、そう思っていた。
今も、多くは信用していない。
グラが頭を下げ、ミケへ顔を近づける。
巨大な息が吹きつけ、黒炎が揺れた。
ならばなぜ守る。
ミケはバルドを一度だけ見た。
あれは、我が触れるまで待った。
グラの赤い目が、バルドへ向く。
バルドは動かない。手も伸ばさない。ただ、そこに立っている。
◇
ライがミケの横へ進んだ。
小さな身体は震えていた。
グラの首輪から漂う拘束術式の気配。痛みで命令へ従わせる回路。研究施設の記憶が戻っている。
それでも、一歩ずつ前へ出る。
耳先の雷が光る。
ライの感情が、グラへ流れた。
自分も兵器にされた。命令へ逆らうと、身体が痛んだ。力を出せば、もっと痛んだ。
壊れれば、失敗作と呼ばれた。
グラの視線がライへ移る。
小さな身体の内側に残る人工術式を感じ取ったのかもしれない。
怒りの中に、わずかな同情が混じる。
ライはバルドを見る。
この人間は、力を奪わなかった。
雷を消さなかった。
怖いとき、触らなかった。待っていた。
グラの感情が揺れる。
待つ?人間が?
ライは耳を伏せた。
長かった。
少し不満が混じる。
バルドが遠くから言った。
「聞こえているぞ」
ライは無視した。
エレノアの口元がわずかに緩む。
◇
次に、ルーが姿を現した。
白銀の身体には、まだ薄い傷跡が残っている。
首輪が食い込んでいた首元。魔法の矢に貫かれた脇腹。
ルーはグラの前まで来ると、一度姿を消した。
グラの赤い目が細くなる。
白銀の姿は、少し離れた場所へ現れた。
逃げられる。どこへでも隠れられる。だが、ルーは再び三匹の横へ戻る。
捕らえられた。追われた。
魔力核を壊さないように傷つけられた。生き物ではなく、材料として見られた。
グラの霧が大きく渦巻く。
同じだ。人間は、魔獣の力だけを欲しがる。
ルーはバルドへ視線を向ける。
逃げても、戻る場所があった。
グラの感情に、初めて理解できないものが混じった。
戻る?自分から?
三匹は、人間が善良だとは伝えなかった。
すべての人間を信じろとも言わない。
ただ、一つの場所がある。
追いかけない。
無理に触らない。力を奪わない。逃げ道を塞がない。
その場所を、自分たちは選んだ。
グラの怒りは消えない。だが、黒灰色の霧の流れがわずかに弱くなった。
ミケが胸を張る。
飯は悪くない。
ライが続ける。
暖かい。
ルーは白い尾を上げる。
棚が多い。
ミケの尾が不満そうに動く。
ただし、店主の膝は我のものだ。
ライがミケを見る。ルーも見る。
グラの赤い目が、三匹の間をゆっくり動いた。
憎悪の中に、初めて困惑が生まれた。
店主の膝。
何の話だ。
ミケは当然のように答える。
重要な話だ。
黒灰色の霧が、一瞬だけ止まった。
グラが理解できずにいる。
それだけで、エレノアの胸を押し潰していた怒りが少し弱まった。
「今です」
エレノアは前へ出た。
◇
グラの視線がエレノアへ向く。
人間。アルヴェインの血。感情が鋭く突き刺さる。
お前たちは聞かなかった。
止めなかった。
去った。
「はい」
エレノアは否定しなかった。
「私の祖先は、あなたを守れませんでした」
バルドが後ろにいる。手を伸ばせば支えられる距離。だが、彼は動かない。
エレノアが自分で話すのを待っている。
「聞き手でありながら、あなたを兵器として使う王国を止められなかった」
胸へ痛みが流れ込む。
戦場。炎。人間の命令。傷ついた幼い魔獣。休みたいと伝えても、次の敵を示された。
エレノアの目から涙が落ちる。
「あなたへ許してほしいとは言いません」
グラの耳がわずかに動く。
「人間を許す必要もありません」
赤い目がエレノアを見つめる。
「あなたを支配しません」
エレノアは公爵家の印章を外し、地面へ置いた。
「命令もしません」
次に、古文書を置く。
「ただ、別の終わりを選べます」
グラの感情が揺れる。
別の終わり。
「このまま街を壊し、人間を殺し続けることもできます」
エレノアの声は震えていた。
「ですが、その先で、あなたの痛みが消えるとは思えません」
許せというのか。
「いいえ」
忘れろというのか。
「いいえ」
眠れというのか。
「眠りたいのであれば、今度はあなたが目を覚ますまで誰も起こさない場所があります」
グラの赤い目が三匹へ向く。
飯。暖かさ。棚。膝。
意味の分からないものばかりだ。だが、三匹はそこへ自分で戻った。
グラの身体から、少しずつ力が抜けていく。
前脚が地面へ沈む。頭が低くなる。
憎悪が消えたわけではない。ただ、すべてを壊し続ける意思が揺らいだ。
首輪の術式が明滅する。
バルドがそれを見た。
「触ってもいいか」
グラへ尋ねる。
命令ではない。勝手に手を伸ばさない。
長い沈黙。
巨大な頭が、ほんのわずかに下がった。
拒絶の魔力が弱まる。
バルドが近づく。
前脚へ手を置いた。
今度は弾かれなかった。
◇
《万物修繕・再構成》が、グラの身体へ届く。
何千年も食い込んだ首輪。神経へつながる針。痛みを命令へ変える術式。巨大化した身体へ森の魔力を流し続ける回路。
バルドは、グラ自身の力には触れなかった。
記憶も変えない。怒りも消さない。人間を憎む理由も、そのまま残す。
「直すのは、君ではない」
バルドは言った。
「壊れているのは、これだ」
首輪へ手を添える。
修繕ではなく、分解。
本来一つではなかった金属と術式を、別々の構造へ戻していく。
古代の針が首から抜ける。黒い金属が砂のように崩れる。鎖が一本ずつ地面へ落ちる。
グラの身体から黒灰色の霧が溢れた。
だが、今度は周囲を侵食しない。
長く溜め込まれていた魔力が、空へ還っていく。
山ほどあった身体が縮み始める。
尾根より低くなる。城ほど。家ほど。
やがて、大型の馬ほどの大きさになった。
暗い灰色の長い毛。古い傷跡。首輪のあった場所には、深い痕が残っている。
尾は九本。
グラは地面へ座った。
赤い目から怒りは消えていない。だが、魔力の嵐は止まっていた。
王国軍から、安堵の声が上がる。
バルドは振り返らない。
腰の袋から、干し肉を取り出した。
「食べるか」
エレノアは一瞬、緊張した。
長い対話の直後に、あまりにも普通の差し出し方だった。
グラは肉を見る。
次にバルドを見る。
「我は、人間を許してはいない」
今度は、エレノアを通さずとも意味が分かった。
低い声が、直接胸へ響いた。
バルドは干し肉を持ったまま答える。
「それでいい」
グラはしばらく動かなかった。
ミケが肉を見ている。
ライも鼻を動かす。
ルーは少しだけ近づいた。
「これはグラの分だ」
バルドが言う。
ミケの尾が不満そうに揺れる。
グラは三匹を見る。
それから、差し出された肉へ顔を近づけた。
一口。慎重に噛む。
飲み込む。
赤い目がわずかに細くなる。
飯は悪くなかった。




