↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
19/20

第19話 先輩保護猫の説得

 グラの周囲では、黒灰色の魔力が嵐のように渦巻いていた。

 風ではない。長い年月、首輪と鎖に閉じ込められていた憎悪が、魔力となって吹き荒れている。

 平原の草は黒く枯れ、地面には幾筋もの亀裂が走っていた。

 その中心に、グラがいる。

 山と見間違えるほど巨大な身体。赤く光る目。首には古代の拘束具が食い込み、太い鎖が切れたまま何本も引きずられている。

 王国軍は、その正面へ陣を敷いていた。

「第三射、放て!」

 指揮官の命令とともに、魔術師たちが杖を掲げる。

 炎。氷。雷。

 無数の魔法が空を覆い、グラへ降り注いだ。

 巨大な身体が光に包まれる。だが、傷一つ付かない。

 攻撃の魔力が黒灰色の霧へ吸い込まれ、逆にグラの身体へ流れ込んでいく。

 赤い目がさらに強く輝いた。

 咆哮。衝撃波が軍の前列を襲う。

 騎士たちが盾ごと吹き飛ばされた。

「攻撃を止めてください!」

 エレノアは軍陣へ向かって叫んだ。

 声は魔力の嵐に消される。

 バルドが前へ出た。

「撃つな!」

 低い声が、不思議なほど遠くまで届いた。

 指揮官が振り返る。

「民間人は下がれ!」

「攻撃するほど、あれは強くなる」

「黙れ! 災厄級魔獣を前に、攻撃以外に何がある!」

「話を聞く」

 指揮官は一瞬、言葉を失った。

「化け物と話すだと?」

「守護獣です」

 エレノアは前へ進んだ。

 外套の内側から、公爵家の印章と古文書を取り出す。

「エレノア・アルヴェインです」

「反逆容疑者が、なぜここにいる」

「その発表はヴァレント侯爵による虚偽です。銀剣の黎明の証言もあります」

 軍陣の後方には、負傷したレオンたちがいた。

 ディーンが一歩前へ出る。

「封印を開いたのは俺たちだ」

 兵士たちがざわめく。

「侯爵の命令だった。アルヴェイン家は関係ない」

 レオンは俯いたまま何も言わなかった。

 エレノアは古文書を掲げる。

「グラは古代王国の守護獣でした。アルヴェイン家は、彼を操る家系ではありません。人と魔獣の間で、その声を聞く役目を担っていました」

「そんな古文書が何の証明になる」

「少なくとも、今の攻撃が逆効果であることは、目の前で証明されています」

 再びグラが咆哮する。

 軍の結界が大きく揺れた。魔術師たちの一部が膝をつく。

「このまま続ければ、軍が先に壊滅します」

 指揮官はグラを見る。次に、倒れた兵士たちを見る。

「どれほど止めればいい」

「私たちが戻るまでです」

「戻らなかった場合は」

「そのときは、あなたの判断へ従います」

 指揮官は歯を食いしばった。

 やがて、腕を上げる。

「全隊、攻撃停止!」

 魔術師たちの杖が下がる。

 平原に、グラの唸り声だけが残った。

     ◇

「ここから先は俺が行く」

 バルドが言った。

 エレノアはすぐに首を横へ振る。

「昨日の話をもう忘れたのですか」

「忘れていない。だが、拘束具へ触れる必要がある」

「声を受け取る人間も必要です」

 ミケが二人の前へ出る。ライとルーも続く。

 三匹とも、グラから目を逸らさない。

「全員で行くということか」

 ミケの尾が上がった。

「そうですね」

 エレノアは外套を押さえ、歩き始めた。

 グラへ近づくほど、魔力の風は強くなる。

 呼吸が苦しい。胸の奥へ、巨大な感情が流れ込んでくる。

 痛い。暗い。許さない。近づくな。人間。

 エレノアの脚が止まりかける。

 バルドが隣へ立つ。

「無理なら戻れ」

「戻りません」

 声を出すだけで胸が痛んだ。

 グラの感情は、ライから受け取る小さな波とは違う。

 海そのものが身体へ流れ込んでくるようだった。

 それでも、歩く。

 グラの前脚だけで、万物堂より大きい。

 近づいてくる小さな人間たちを見下ろし、赤い目が細くなる。

 黒灰色の霧が集まる。

 バルドが前へ出た。

「少し触る」

 グラへ届く声で言う。

 返事はない。

 巨大な前脚の先へ手を置く。

 《万物修繕・再構成》。

 バルドの意識が、グラの身体へ触れた。

 壊れている。

 首輪の内側から伸びた無数の針。神経と魔力核へ食い込む支配術式。命令へ逆らうたび、全身へ痛みを流す回路。

 傷ついた骨。裂けた魔力経路。何千年も再生と破壊を繰り返した身体。

 直せる箇所は見えた。

 だが、力が届かない。

 グラの身体が、バルドを拒絶している。人間の魔力を異物として押し返す。

 バルドの腕が弾かれた。

 衝撃で身体が後方へ飛ぶ。

 エレノアとライが駆け寄る。

「バルドさん!」

「大丈夫だ」

 腕は痺れていた。皮膚には黒い亀裂のような痕が浮かんでいる。

「修繕できませんか」

「構造は読める」

 バルドは立ち上がった。

「だが、グラが人間を受け入れていない」

 赤い目が二人を見下ろす。

 感情が、さらに強く流れ込む。

 人間は奪う。人間は縛る。人間は眠らせる。必要になれば起こす。役に立たなくなれば、また捨てる。

 エレノアは胸を押さえた。

「グラは、私たちの言葉を信じていません」

「当然だな」

 バルドはもう一度近づこうとしなかった。

 ここで無理に力を流せば、また同じになる。

 人間の都合で身体を変える。グラの意思を無視して、救ったことにする。

 セレスのときとは違う。

 今回は、能力が使えないからではない。使ってはいけない。

 バルドは一歩後ろへ下がった。

「待つ」

 エレノアが彼を見る。

「グラが決めるまでですか」

「ああ」

     ◇

 ミケが前へ出た。

 黒い身体が、グラと比べれば点のように小さい。

 三本の尾が炎をまとい、ゆっくり広がる。黒炎が身体全体を包んだ。

 その輪郭が大きくなる。

 人間の背丈を超え、馬を超え、家屋ほどの大きさになる。

 それでも、グラの前では仔猫に近い。

 ミケは赤い目を見上げた。低い鳴き声を発する。人間の耳には、獣の唸りにしか聞こえない。だが、エレノアの胸には意味が流れ込んできた。

 我も人間を憎んだ。母を殺された。子であった我を、素材として追った。

 グラの感情が返る。

 ならば、なぜ人間といる。

 ミケの黒炎が揺れる。

 許したわけではない。忘れたわけでもない。

 グラが牙を見せる。

 ならば退け。人間の街を潰す。縛った者をすべて消す。

 ミケは動かなかった。

 許せとは言わん。だが、お前が暴れれば、お前を縛った者ではなく、何も知らぬ者が死ぬ。

 人間は同じだ。

 グラの憎悪が広がる。

 王。兵士。術師。密猟者。命令に従った者。見て見ぬふりをした者。

 誰も止めなかった。すべて同じ。

 ミケの尾から炎が強く上がる。

 我も、そう思っていた。

 今も、多くは信用していない。

 グラが頭を下げ、ミケへ顔を近づける。

 巨大な息が吹きつけ、黒炎が揺れた。

 ならばなぜ守る。

 ミケはバルドを一度だけ見た。

 あれは、我が触れるまで待った。

 グラの赤い目が、バルドへ向く。

 バルドは動かない。手も伸ばさない。ただ、そこに立っている。

     ◇

 ライがミケの横へ進んだ。

 小さな身体は震えていた。

 グラの首輪から漂う拘束術式の気配。痛みで命令へ従わせる回路。研究施設の記憶が戻っている。

 それでも、一歩ずつ前へ出る。

 耳先の雷が光る。

 ライの感情が、グラへ流れた。

 自分も兵器にされた。命令へ逆らうと、身体が痛んだ。力を出せば、もっと痛んだ。

 壊れれば、失敗作と呼ばれた。

 グラの視線がライへ移る。

 小さな身体の内側に残る人工術式を感じ取ったのかもしれない。

 怒りの中に、わずかな同情が混じる。

 ライはバルドを見る。

 この人間は、力を奪わなかった。

 雷を消さなかった。

 怖いとき、触らなかった。待っていた。

 グラの感情が揺れる。

 待つ?人間が?

 ライは耳を伏せた。

 長かった。

 少し不満が混じる。

 バルドが遠くから言った。

「聞こえているぞ」

 ライは無視した。

 エレノアの口元がわずかに緩む。

     ◇

 次に、ルーが姿を現した。

 白銀の身体には、まだ薄い傷跡が残っている。

 首輪が食い込んでいた首元。魔法の矢に貫かれた脇腹。

 ルーはグラの前まで来ると、一度姿を消した。

 グラの赤い目が細くなる。

 白銀の姿は、少し離れた場所へ現れた。

 逃げられる。どこへでも隠れられる。だが、ルーは再び三匹の横へ戻る。

 捕らえられた。追われた。

 魔力核を壊さないように傷つけられた。生き物ではなく、材料として見られた。

 グラの霧が大きく渦巻く。

 同じだ。人間は、魔獣の力だけを欲しがる。

 ルーはバルドへ視線を向ける。

 逃げても、戻る場所があった。

 グラの感情に、初めて理解できないものが混じった。

 戻る?自分から?

 三匹は、人間が善良だとは伝えなかった。

 すべての人間を信じろとも言わない。

 ただ、一つの場所がある。

 追いかけない。

 無理に触らない。力を奪わない。逃げ道を塞がない。

 その場所を、自分たちは選んだ。

 グラの怒りは消えない。だが、黒灰色の霧の流れがわずかに弱くなった。

 ミケが胸を張る。

 飯は悪くない。

 ライが続ける。

 暖かい。

 ルーは白い尾を上げる。

 棚が多い。

 ミケの尾が不満そうに動く。

 ただし、店主の膝は我のものだ。

 ライがミケを見る。ルーも見る。

 グラの赤い目が、三匹の間をゆっくり動いた。

 憎悪の中に、初めて困惑が生まれた。

 店主の膝。

 何の話だ。

 ミケは当然のように答える。

 重要な話だ。

 黒灰色の霧が、一瞬だけ止まった。

 グラが理解できずにいる。

 それだけで、エレノアの胸を押し潰していた怒りが少し弱まった。

「今です」

 エレノアは前へ出た。

     ◇

 グラの視線がエレノアへ向く。

 人間。アルヴェインの血。感情が鋭く突き刺さる。

 お前たちは聞かなかった。

 止めなかった。

 去った。

「はい」

 エレノアは否定しなかった。

「私の祖先は、あなたを守れませんでした」

 バルドが後ろにいる。手を伸ばせば支えられる距離。だが、彼は動かない。

 エレノアが自分で話すのを待っている。

「聞き手でありながら、あなたを兵器として使う王国を止められなかった」

 胸へ痛みが流れ込む。

 戦場。炎。人間の命令。傷ついた幼い魔獣。休みたいと伝えても、次の敵を示された。

 エレノアの目から涙が落ちる。

「あなたへ許してほしいとは言いません」

 グラの耳がわずかに動く。

「人間を許す必要もありません」

 赤い目がエレノアを見つめる。

「あなたを支配しません」

 エレノアは公爵家の印章を外し、地面へ置いた。

「命令もしません」

 次に、古文書を置く。

「ただ、別の終わりを選べます」

 グラの感情が揺れる。

 別の終わり。

「このまま街を壊し、人間を殺し続けることもできます」

 エレノアの声は震えていた。

「ですが、その先で、あなたの痛みが消えるとは思えません」

 許せというのか。

「いいえ」

 忘れろというのか。

「いいえ」

 眠れというのか。

「眠りたいのであれば、今度はあなたが目を覚ますまで誰も起こさない場所があります」

 グラの赤い目が三匹へ向く。

 飯。暖かさ。棚。膝。

 意味の分からないものばかりだ。だが、三匹はそこへ自分で戻った。

 グラの身体から、少しずつ力が抜けていく。

 前脚が地面へ沈む。頭が低くなる。

 憎悪が消えたわけではない。ただ、すべてを壊し続ける意思が揺らいだ。

 首輪の術式が明滅する。

 バルドがそれを見た。

「触ってもいいか」

 グラへ尋ねる。

 命令ではない。勝手に手を伸ばさない。

 長い沈黙。

 巨大な頭が、ほんのわずかに下がった。

 拒絶の魔力が弱まる。

 バルドが近づく。

 前脚へ手を置いた。

 今度は弾かれなかった。

     ◇

 《万物修繕・再構成》が、グラの身体へ届く。

 何千年も食い込んだ首輪。神経へつながる針。痛みを命令へ変える術式。巨大化した身体へ森の魔力を流し続ける回路。

 バルドは、グラ自身の力には触れなかった。

 記憶も変えない。怒りも消さない。人間を憎む理由も、そのまま残す。

「直すのは、君ではない」

 バルドは言った。

「壊れているのは、これだ」

 首輪へ手を添える。

 修繕ではなく、分解。

 本来一つではなかった金属と術式を、別々の構造へ戻していく。

 古代の針が首から抜ける。黒い金属が砂のように崩れる。鎖が一本ずつ地面へ落ちる。

 グラの身体から黒灰色の霧が溢れた。

 だが、今度は周囲を侵食しない。

 長く溜め込まれていた魔力が、空へ還っていく。

 山ほどあった身体が縮み始める。

 尾根より低くなる。城ほど。家ほど。

 やがて、大型の馬ほどの大きさになった。

 暗い灰色の長い毛。古い傷跡。首輪のあった場所には、深い痕が残っている。

 尾は九本。

 グラは地面へ座った。

 赤い目から怒りは消えていない。だが、魔力の嵐は止まっていた。

 王国軍から、安堵の声が上がる。

 バルドは振り返らない。

 腰の袋から、干し肉を取り出した。

「食べるか」

 エレノアは一瞬、緊張した。

 長い対話の直後に、あまりにも普通の差し出し方だった。

 グラは肉を見る。

 次にバルドを見る。

「我は、人間を許してはいない」

 今度は、エレノアを通さずとも意味が分かった。

 低い声が、直接胸へ響いた。

 バルドは干し肉を持ったまま答える。

「それでいい」

 グラはしばらく動かなかった。

 ミケが肉を見ている。

 ライも鼻を動かす。

 ルーは少しだけ近づいた。

「これはグラの分だ」

 バルドが言う。

 ミケの尾が不満そうに揺れる。

 グラは三匹を見る。

 それから、差し出された肉へ顔を近づけた。

 一口。慎重に噛む。

 飲み込む。

 赤い目がわずかに細くなる。

 飯は悪くなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。