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第18話 救えなかった猫

「また、一人で全部を背負うおつもりですか」

 エレノアは扉の前から動かなかった。

 バルドは窓際に立ったまま、工具袋へ手を添えている。

 外では、避難する住民たちの足音が続いていた。

 荷車の車輪。子どもの泣き声。衛兵の指示。

 その奥から、一定の間隔で地鳴りが響く。

 グラが近づいている。

「背負うつもりはない」

 バルドは言った。

「状態を見てくるだけだ」

「山ほどの大きさの魔獣へ、一人で近づいて?」

「人数が増えれば危険も増える」

「だから、私たちを閉じ込めたのですか」

「ミケたちは、グラの影響を受けている」

 ミケは怒りに引きずられている。ライは拘束術式の気配に怯えている。ルーは何度も姿を消している。

 グラの近くへ連れていけば、冷静でいられる保証はない。

「君も同じだ」

 バルドは続けた。

「グラの感情を受け取れば、意識を保てないかもしれない」

「それを決めるのは、あなたですか」

「危険だと分かっている」

「危険であることと、選択する権利がないことは同じではありません」

 エレノアの声は静かだった。だからこそ、逃げる場所がなかった。

「本人たちに選ばせず、守るという名目で閉じ込めるのですか」

 バルドの手が止まる。

「グラを封印した古代人も、同じことを言ったのではありませんか」

「同じではない」

「何が違うのです」

「俺は苦しめるつもりはない」

「古代人も最初から苦しめるつもりではなかったかもしれません」

 守るため。人間を危険から遠ざけるため。魔獣自身を鎮めるため。

 そう言って首輪をつけた。鎖で縛った。

 声を聞かず、選ばせず、正しい判断をしたと思い込んだ。

「私は、あなたがグラと同じことをされているとは言っていません」

 エレノアは言った。

「ですが、相手の意思を聞かずに決める点は同じです」

 バルドは窓の外へ目を向けた。

 正しいと思っていた。

ミケたちを危険へ連れていかない。エレノアを街に残す。自分だけが近づく。

 自分が失敗しても、失うものは一人で済む。

 その考えが、急に古い鎖のように思えた。

「なぜ、そこまで一人で行こうとするのですか」

 エレノアが尋ねた。

「能力があるから、だけではありませんね」

 バルドは答えなかった。

「ミケを助けたときも、ライを治したときも、ルーを救ったときも、あなたは限界まで一人で抱えました」

「必要だった」

「必要以上にです」

 バルドの脳裏に、白い洞窟が浮かんだ。

 血の匂い。崩れる岩。腕の中で冷えていった身体。

「八年前」

 言葉が、喉の奥から出た。

 エレノアは黙って待った。

「一匹の猫を救えなかった」

     ◇

 セレスは、災厄級魔獣として討伐指定されていた。

 白と薄茶の長い毛。大きな耳。二本の尾。

 成獣でも、ミケより少し大きい程度だった。

 報告書には、人間を襲う凶暴な猫型魔獣と書かれていた。

 旅人三人を殺害。採掘場を破壊。周辺の魔力を奪い、洞窟へ蓄積している。

 放置すれば、近隣の村へ被害が出る。

 ギルドから出された依頼は、討伐だった。

 魔力核は可能な限り無傷で回収すること。

「最初から、核が目的だったのですか」

 エレノアが尋ねた。

「ああ」

 当時のバルドは、銀剣の黎明へ加わる前だった。

 レオンたちと組み始めてはいたが、まだパーティ名もなく、全員が若かった。

 実績を求めていた。

 S級へ上がるためには、大型魔獣の討伐記録が必要だった。

 洞窟へ入る前、バルドは周辺を調べた。

 破壊された採掘場に、人間の遺体はなかった。

 血痕も少ない。壊されたのは、採掘用の魔道具と檻だけだった。

「檻?」

「あの土地では、魔獣の子を捕らえて売る密猟者がいた」

 採掘場を装っていたが、実際には魔獣の幼体を集める施設だった。

 セレスが人間を襲ったのは、そこから子を取り戻すためだった。

 洞窟の奥には、三匹の仔猫がいた。

 一匹は動かなかった。二匹は傷を負っていた。

 セレスはその前へ立ち、人間を近づけなかった。

「バルドさんは、討伐へ反対したのですね」

「ああ」

 ギルドへ戻り、依頼内容を調べ直すべきだと主張した。

 セレスは村を襲っていない。人間を無差別に殺してもいない。仔猫を守っているだけだ。だが、レオンは依頼を実行すると決めた。

『ここまで来て戻れば、臆病者だと思われる』

 若いレオンはそう言った。

『危険な魔獣なのは事実だ。子を守っているなら、なおさら近づく者を襲う』

 セシリアは、魔力核を回収すれば研究へ役立つと言った。

 マルクは迷ったが、依頼を拒否すればギルドから処分を受けると考えた。

 ディーンは最後まで反対した。

 だが、パーティを離れることまではしなかった。

「あなたは?」

「俺も残った」

 バルドは言った。

「反対はした。だが、止めなかった」

「戦闘には参加したのですか」

「ああ」

 レオンたちは、仔猫を守るセレスを洞窟の奥から引き離そうとした。

 剣と魔法で追い込む。

 バルドは攻撃を防ぎ、崩れた足場を直し、仲間の傷を治した。

 セレスを殺すためではない。誰も死なせないためだと思っていた。

 だが、結果として戦いを続けられる状態にした。

「自分が支えなければ、仲間が死ぬと思った」

 バルドは言う。

「だから、間違った戦いでも支えた」

 洞窟の中で魔法が暴発した。

 天井へ亀裂が入り、大きな落盤が起きた。

 仔猫たちのいる場所へ岩が落ちる。

 バルドは能力を使った。崩れる岩盤をつなぎ直し、空間を支える。

 レオンたちを逃がす。生きていた二匹の仔猫も、岩の隙間から外へ運び出した。

 だが、セレスは間に合わなかった。

 落ちた岩から仔猫をかばい、腹と背中を潰されていた。

「それでも、生きていた」

 バルドは両手を見た。

「だから直そうとした」

     ◇

 セレスの身体へ触れた瞬間、構造はすべて見えた。

 砕けた骨。裂けた内臓。潰れた肺。傷ついた魔力核。

 重傷ではあったが、修繕できない状態ではなかった。

 バルドは魔力を流した。

 何も起きなかった。

 もう一度。さらに強く。

 それでも、能力は発動しなかった。

「なぜ……」

 エレノアが呟く。

「生き物の修繕には、本人の意志が必要だ」

 完全な同意ではない。意識がなくても、生きたいという方向が残っていれば能力は届く。身体が生きようとしていれば、つなぎ直せる。

 セレスには、それがなかった。

 密猟者に子を奪われた。取り戻すために人間を襲った。

 一匹はすでに殺されていた。残りの二匹も傷つけられていた。

 最後には、助けようとした子と引き離された。

 セレスは、バルドの手を拒まなかった。牙をむきもしなかった。

 ただ、目を閉じた。

「仔猫は助かったと伝えましたか」

「言った」

 聞こえていたかは分からない。

 二匹は生きている。治療できる。だから、あなたも生きてほしい。

 何度も言った。

 セレスは一度だけ目を開いた。

 洞窟の出口へ顔を向けた。

 仔猫の鳴き声が聞こえていたのかもしれない。

 それでも、生きようとはしなかった。

「人間のところへ残すくらいなら、もう会わない方がいいと思ったのかもしれない」

 バルドの声が掠れる。

「あるいは、俺たちがまた奪うと思ったのか」

 セレスの身体から力が抜けた。魔力核の光が消えた。

 バルドの腕の中で死んだ。

 直せる傷だった。だが、直すことを望まれなかった。

「俺がもっと早く止めていれば」

 バルドは言った。

「洞窟へ入る前に依頼を拒んでいれば。仲間を置いてでも、セレスの側へ立っていれば。落盤が起きる前に全員を止められていれば」

 八年間、同じことを考え続けた。

 もっと早く。もっと強く。もっと多く。

 全部を一人で処理できていれば、誰も死ななかった。

「それで、銀剣の黎明へ残ったのですか」

「ああ」

 離れれば、自分が逃げたことになると思った。

 次は失敗しない。今度こそ全員を守る。

 武器が壊れる前に直す。傷つく前に防ぐ。失敗する前に準備する。

 何もかも自分で見ていれば、セレスのようなことは二度と起きない。

「でも、俺が残ったことで、皆は自分で備えなくなった」

 レオンの聖剣。セシリアの杖。荷物。野営。判断。

 バルドが何とかすることが前提になった。そして、バルド自身もそれを望んでいた。

 必要とされ続けていれば、あの日の選択が間違いではなかったと思えるから。

「俺は、セレスを救えなかった罪から逃げるために、仲間を支えていたのかもしれない」

 エレノアはすぐには答えなかった。

 簡単に否定されるより、その沈黙の方がありがたかった。

「あなたが救えなかったのではありません」

 やがて、エレノアが言った。

「セレスから、生きたいと思える場所を奪った人々がいたのです」

 バルドは目を閉じた。

「だが、俺もその中にいた」

「はい」

 エレノアは否定しなかった。

「あなたは命令に反対しました。ですが、従った。戦いを続けられるよう仲間を支えた。その後もギルドとパーティに残った」

「ああ」

「その責任は消えません」

 胸へ、鈍い痛みが落ちる。だが、責められたとは感じなかった。

「だからといって、セレスの死をすべて自分一人の責任にすることも、正しくありません」

「何が違う」

「一人で全部を背負えば、他の人間は自分の責任と向き合わずに済みます」

 レオンがそうだった。ギルドも。密猟者も。セレスを危険な魔獣と記録した者も。

 バルドが自分だけを責めれば、彼らの責任まで引き受けることになる。

「今も同じです」

 エレノアは言った。

「あなたが一人でグラへ向かい、傷つき、倒れれば、私たちは選ばなくて済みます」

「それで君たちが生きるなら」

「またです」

 声が鋭くなる。

「また、私たちから選択を奪うのですか」

 バルドは何も言えなかった。

「私たちは、守られるだけの物ではありません」

 エレノアは胸へ手を置く。

「怖いです。グラの感情へ近づけば、耐えられないかもしれない。それでも、私は聞き手として行きます」

 階下から、木の砕ける音がした。

 二人が振り返る。

「何の音ですか」

 続いて、雷が弾ける。低い猫の唸り声。

 白い光が扉の隙間を横切った。

 バルドは部屋を出た。

     ◇

 一階へ下りると、猫用小部屋の扉が開いていた。

 扉そのものは壊れていない。蝶番も錠も無事だ。

 ただ、壁の一部だけが細く切り離されている。

「そこは結界を弱くした場所だ」

 バルドは呟いた。

 火災などが起きた際、内側から脱出できるように作った非常口。

 普段は壁と同じに見える。

 ミケが見抜いたらしい。

 三匹が店内に並んでいた。

 ミケ。ライ。ルー。

 ミケはバルドの前まで歩いてくる。

 何も言わず、前脚で脛を叩いた。

 爪は出していない。だが、痛い。

「閉じ込めたことへ怒っているのか」

 もう一度叩かれた。

「そうらしいですね」

 エレノアが言う。

 ライはバルドの隣へ座った。身体は小さく震えている。グラの拘束術式を恐れている。

 それでも、隠れなかった。

 ルーは姿を消していない。逃げられる。誰にも見つからず、遠くへ転移できる。それでも白銀の姿を見せ、ミケの横へ立った。

 三匹とも怖い。傷を刺激されている。

 それでも、自分の意思でここへ出てきた。

「行きたいのか」

 ミケの三本の尾が上がる。ライの耳先へ雷が灯る。ルーの身体が淡く揺らぐ。

 バルドは、止めろと言いかけた。

 危険だ。連れていけない。店に残れ。

 その言葉を飲み込む。

 代わりに、初めて頼んだ。

「一緒に来てくれるか」

 ミケが先に入口へ向かった。ライが続く。ルーは一度姿を消し、扉の前へ現れる。

「返事は決まっていたようですね」

 エレノアが外套を羽織る。

「君にも、まだ残れと言えるか」

「言われても行きます」

「そうだろうな」

 バルドは工具袋を持ち直した。

 一人で背負わない。

 それが正しいのかは、まだ分からない。

 誰かを危険へ巻き込む恐怖も消えない。だが、彼らの選択を奪わない。

 今できるのは、それだけだった。

     ◇

 万物堂を出ると、街の外は薄い朝焼けに包まれていた。

 避難はほぼ終わっている。

 通りには衛兵と、最後の荷物を運ぶ住民だけが残っていた。

 南門の外へ出る。

 遠くの地平に、山のような影が見えた。

 グラ。

 一歩進むたび、地面が揺れる。

 黒灰色の霧が足元へ広がり、朝の光を飲み込んでいた。

 グラが顔を上げる。

 赤い目が、こちらを見たように思えた。

 咆哮。空気が震え、平原の草が一斉に伏せる。

 ライが身体を低くする。ルーの輪郭が薄くなる。それでも、二匹は戻らなかった。

 ミケが三本の尾を広げる。黒炎をまとい、一歩前へ出た。

 小さな黒猫が、山ほどの化け猫へ向かって歩き始める。

 バルドたちも、その後に続いた。



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