第17話 世界の終わりが店へ逃げ込んできた
リュネールの警鐘は、夜が明けても鳴り続けていた。
北部山岳地帯で目覚めた巨大魔獣が、こちらへ向かっている。
その報せは、夜のうちに街全体へ広がった。
通りには荷車が並び、住民たちが衣類や食料を積み込んでいる。
子どもを抱く者。家畜を引く者。倉庫から商品を運び出す商人。何を持ち、何を捨てるか決められず、家と荷車を何度も往復する老人。
街の門には人が殺到していた。
「西門は閉鎖する!」
衛兵隊長の声が響く。
「北側の街道は使うな! 地割れが起きている!」
「南門へ行けって言っただろう!」
「馬車を押し込むな!」
「うちの母親がまだ家にいるんだ!」
怒鳴り声と泣き声が入り交じる。誰もが逃げようとしている。
だが、グラがどこまで追ってくるのか分からない。
王国軍の避難命令にも、明確な避難先は書かれていなかった。
ただ、進行方向から離れろとあるだけだ。
「このまま門へ集める方が危険です」
エレノアが通りを見た。
「一度、住民を分けましょう」
万物堂の前には、すでに多くの人が集まっていた。
店が安全だという噂を信じた者たちだ。
災厄級魔獣が三匹いる。建物には強力な結界がある。店主なら、壊れた物を何でも直せる。
だから、ここなら助かる。
その期待を向けられるたび、バルドの胸は重くなった。
「万物堂へ全員は入れられない」
バルドは言った。
「だから、避難の中継地点にします」
エレノアは店内の机を移動させている。
「怪我人、幼い子ども、高齢者を一時的に店へ入れる。それ以外の人には、使える避難路を案内します」
「避難路が残っていればな」
「作るのでしょう」
エレノアは当然のように言った。
バルドは答えなかった。
万物堂の結界は強い。扉も窓も、普通の攻撃では壊れない。だが、グラは山ほどの大きさになっているという。
前脚が一度振り下ろされれば、建物一つの強度など意味を持たない。
守れるのは、せいぜい余波からだ。
直接狙われれば耐えられない。
「水と保存食を分けてください」
エレノアが住民へ指示を出す。
「持ち運べない荷物は置いてください。避難に必要なのは、命をつなぐ物だけです」
「家財を捨てろっていうのか」
男が食ってかかる。
「捨てろとは言っていません。今、運ぶ物を選んでください」
「戻れなかったらどうする」
エレノアは一瞬言葉を止めた。
「戻れるようにするため、今は生き残る準備をしてください」
男は何も言えず、積み上げていた家具から手を離した。
バルドは店の柱へ触れた。
結界の状態を読む。
先日の襲撃で受けた歪みは修繕してある。それでも、街全体を覆うことはできない。
万物堂だけを要塞にしても、住民を守ることにはならなかった。
◇
三匹の猫たちは、朝から落ち着かなかった。
ミケは北側の窓辺から動かない。背中の毛を逆立て、三本の尾へ黒炎をまとっている。
グラから流れてくる憎悪へ反応しているのだろう。だが、その怒りはグラだけへ向けられているのではなかった。
人間に母を殺された記憶。傷つけられ、追われた記憶。
グラの感情が、ミケ自身の過去まで引きずり出している。
「ミケ」
バルドが呼ぶ。
金色の目が向く。
「ここはまだ安全だ」
黒炎は消えなかった。
安全だという言葉を信じていない。
ライはカウンターの下で身体を丸めている。
普段の休憩ではない。四肢を縮め、耳を伏せ、全身へ小さな雷を走らせていた。
グラを縛っていた術式。痛みで命令へ従わせる仕組み。研究施設でライの身体へ刻まれたものと同じ気配が、遠くから届いている。
エレノアが近づいても、ライは顔を上げない。
「大丈夫です」
触れずに声をかける。
ライの恐怖が、エレノアにも流れ込んでいるらしい。
彼女の顔色も悪かった。
ルーは姿を消していた。
店内にはいる。気配はある。だが、どこにいるかは分からない。
音がするたび、別の場所へ短距離転移している。
追われた記憶。首輪。矢。逃げても位置を知らされる恐怖。
グラの怒りは、三匹にとって他人のものではなかった。
「戦わせるべきではありません」
エレノアが言った。
「ああ」
「グラを恐れているだけではありません。自分の傷まで刺激されています」
「分かっている」
バルドはミケたちを見た。
グラが街へ来れば力の差など考えずに、この三匹も立ち向かおうとするだろう。
万物堂を。エレノアを。バルドを守るために。
それだけは避けなければならない。
◇
昼前。
北門から、四人の冒険者が街へ入ってきた。
最初に見つけた衛兵が騒ぎ、万物堂まで連れてきた。
銀剣の黎明だった。以前とは見る影もない。
レオンの外套は裂け、額から血が流れている。セシリアの杖は半ばで折れていた。マルクの盾は中央が大きくへこみ、左腕を吊っている。ディーンは片脚を引きずっていた。
全員、泥と灰にまみれている。
「バルドはいるか」
レオンが店へ入るなり言った。
「治療が先です」
エレノアが答える。
「そんな場合じゃない」
「その状態で立っている方が問題です」
「バルド!」
レオンは彼女を無視して店内へ声を張った。
バルドは負傷者用に空けた客席から立ち上がった。
「何があった」
「見れば分かるだろう」
「傷のことではない」
レオンは一瞬黙った。
それから、縋るように言った。
「お前なら何とかできるだろう」
謝罪ではなかった。説明でもなかった。以前と同じ。
壊れたから直せ。困ったから助けろ。バルドなら何とかする。
レオンの中では、今もそれが当然なのだ。
「座れ」
バルドは短く言った。
「時間がない」
「治療する。座れ」
レオンは何か言い返そうとしたが、足元が揺れた。
マルクが支え、そのまま椅子へ座らせる。
「俺たちが封印を解いた」
ディーンが言った。
店内にいた住民たちが振り返った。
「何だって?」
鍛冶職人が声を上げる。
「山の化け物を起こしたのは、お前たちなのか」
「侯爵の依頼だった」
レオンが反論する。
「俺たちは遺物を回収するはずだった。あれが魔獣だとは知らされていなかった」
「鍵を回したのは誰です」
エレノアが尋ねた。
レオンは答えない。
「誰が封印装置へ触れたのですか」
「侯爵の術師が遠隔で作動させた」
「最初に鍵を差し込んだのは?」
沈黙。
ディーンがレオンを見る。
「レオンだ」
住民たちの間から怒声が上がった。
「ふざけるな!」
「そのせいで街を捨てろっていうのか!」
「何が英雄だ!」
「今すぐ出ていけ!」
レオンは立ち上がろうとした。
「俺たちも騙された!」
「騙されたら、何をしても許されるのか!」
「侯爵が安全だと言ったんだ!」
「だから開けたのか!」
声が重なる。
バルドはレオンの肩を押し、椅子へ戻した。
「今は責任追及をしている場合ではない」
鍛冶職人が睨む。
「こいつらが原因だぞ」
「分かっている」
「なら、治す必要なんて」
「負傷者だ」
バルドはレオンの額へ手を置いた。
「責任を取らせるなら、生きていなければならない」
エレノアが住民たちの前へ立つ。
「バルドさんの判断を支持します」
「ですが、レオン・ガルディア」
彼女はレオンを見る。
「治療を受けたあと、すべて証言していただきます」
「証言?」
「侯爵から受けた依頼。渡された鍵。通信していた術師。遺跡で何が起きたか」
「今それを話して何になる」
「侯爵はすでに、グラの暴走をアルヴェイン家の陰謀だと発表しています」
レオンの顔が変わった。
「そんなはずは」
「あなた方は、陰謀を止めるために遺跡へ向かい、消息を絶ったことになっています」
「俺たちを死んだことにしたのか」
「使い捨てにされたのです」
店内が静まる。
レオンは、自分へ向けられる視線を見回した。
尊敬ではない。期待でもない。怒り。軽蔑。そして、災厄を招いた人間を見る目。
銀剣の黎明の名を口にすれば、人々が道を空けた。子どもたちは英雄だと目を輝かせた。今は誰も、彼を英雄として見ていない。
「俺は……」
言葉が続かない。
バルドは治療を進めた。
額の傷を塞ぐ。折れかけた肋骨を固定する。魔力疲労は休ませるしかない。
「ディーンから話を聞きます」
エレノアが言った。
「あなたも、逃げずに話してください」
レオンは俯いたまま、小さく頷いた。
◇
午後から、バルドは街を回った。
まず、古い地下水路。
リュネールの下には、何十年も使われていない排水路が通っている。
土砂で埋まり、崩落している場所も多い。
南門へ続く区画まで通れば、避難路として使える。
バルドは石壁へ両手を置いた。
構造を読む。
崩れた天井。詰まった土砂。腐食した支柱。長い距離の損傷が、一度に意識へ流れ込む。
「全部を直す必要はありません」
同行したエレノアが言う。
「人が通れる幅だけでいい」
「ああ」
バルドは魔力を流す。
崩れた石が動く。天井の一部がつながり、土砂が壁側へ押し固められる。
完全な水路には戻さない。人が逃げられる形へ直す。
次は旧鉱山坑道。
南の丘へ抜ける坑道だが、十年前の落盤で閉鎖されていた。
入口を塞ぐ岩を再構成し、狭い通路を作る。
空気穴を開ける。崩れやすい場所へ支柱を増やす。
「百人ずつ通してください」
バルドが衛兵へ告げる。
「荷車は無理だ。歩けない人は担架で」
最後に城壁。
グラを止めるためではない。黒灰色の霧や衝撃波が街へ届いた際、少しでも被害を減らすためだ。
ひび割れた石をつなぐ。内側へ衝撃を逃がす構造へ変える。古い見張り塔を避難誘導の目印として補強する。
街全体を一つの盾へ作り替えていく。
戦うためではない。逃げる時間を作るために。
夕方には、バルドの顔から血の気が失われていた。
「休んでください」
エレノアが水筒を差し出す。
「あと一か所」
「その言葉は禁止したはずです」
「南門の橋が弱い」
「坑道があります」
「全員が地下を通れるとは限らない」
バルドは橋へ向かう。
足取りが重い。
街一つの構造を読み続けたことで、頭の奥が焼けるように痛んでいた。
それでも止まれない。住民の避難が終わるまでは。
橋の補強が終わった頃には、立っているのも難しくなっていた。
エレノアが肩を貸す。
「これで避難路は三つです」
南門。
地下水路。
旧鉱山坑道。
「十分です」
「グラが来るまでに、全員が出られればな」
「出します」
エレノアは断言した。
「それは私と衛兵隊の仕事です」
◇
夜。
避難の第一陣が街を出た。
高齢者と子ども。怪我人。荷物を運べない者。
衛兵が先導し、南の平原へ向かう。
万物堂には、まだ多くの人が残っていた。
銀剣の黎明も治療を受け、二階の部屋で休んでいる。
三匹の猫は、バルドから離れなかった。
ミケは入口。ライは階段。ルーは姿を消しながら、何度もバルドの近くへ現れる。
「少し寝る」
バルドはエレノアへ言った。
「必ずです」
「ああ」
二階へ上がる。
部屋へ入り、扉を閉める。だが、寝台には向かわなかった。
外套を取る。工具袋を腰へ下げる。
グラはリュネールへ向かっている。
目的がエレノアなら、街を離れても追ってくるかもしれない。
軍が攻撃すれば、被害はさらに広がる。
誰かが近づき、状態を読まなければならない。
グラの首輪。鎖。身体へ刻まれた支配術式。
直せる可能性がある。
ミケたちを連れていくわけにはいかない。
グラの憎悪へ触れれば、三匹まで傷つく。
エレノアも同じだ。
聞き手だからこそ、近づけば感情に飲み込まれる危険がある。
自分一人で行くべきだ。
バルドは窓を開けた。
外へ出ようとする。
窓枠が動かなかった。
「……直したはずだが」
「私が内側から固定しました」
背後から声がした。振り返る。
部屋の扉が開いている。
エレノアが立っていた。
「いつから」
「あなたが『少し寝る』と言った時点で疑っていました」
「避難誘導は」
「衛兵隊長へ任せています」
「俺は様子を見に行くだけだ」
「工具袋を持って?」
バルドは黙る。
階段の下では、ミケの低い鳴き声がした。ライの雷も聞こえる。白銀の尾が、扉の陰からわずかに見えた。
「三匹を店へ閉じ込めましたね」
「危険だからだ」
「私にも何も言わずに?」
「君は街の避難を」
「また、一人で全部を背負うおつもりですか」
エレノアは扉の前から動かなかった。
バルドは答えられない。
遠くで、地鳴りがした。
グラが、また一歩近づいていた。




