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第16話 封印は檻だった

 封印装置へ鍵を差し込んだ瞬間、レオンは自分の選択を後悔した。

 遺跡の最深部。円形の広間を囲む壁から、太い鎖が何本も伸びている。

 鎖の先には、二階建ての建物ほどもある巨大な猫が伏せていた。

 灰色の毛は長い年月で石のように固まり、身体の輪郭さえ岩山と見分けがつかない。

 首には黒い金属で作られた巨大な輪。

 侯爵の使者が言っていた、服従の首輪。

 災厄級魔獣さえ従わせる古代遺物。

 だが、実物を前にすると、首輪には見えなかった。

 刑具だった。

 輪の内側から無数の針が伸び、巨大猫の首へ深く食い込んでいる。鎖には赤黒い術式が刻まれ、一定の間隔で脈打っていた。

 光るたび、巨大な身体がかすかに痙攣する。

「眠っているんじゃない」

 セシリアが震える声で言った。

「痛みで意識を押さえ込まれている」

 レオンは封印装置から手を離した。

「侯爵は、従わせる装置だと言った」

「嘘だったんだ」

 ディーンが吐き捨てる。

「従わせているんじゃない。抵抗する力がなくなるまで苦しめ続けている」

 広間の中央には、人間の頭ほどの水晶が浮かんでいた。

 ヴァレント侯爵の術師と通信するための魔道具だ。

 水晶の中に、ローブ姿の男が映っている。

『鍵を最後まで回してください』

 術師の声が響く。

『封印の解除には、すべての固定具を外す必要があります』

「聞いていた話と違う」

 レオンは水晶を睨んだ。

『何がでしょう』

「これは服従の首輪ではない」

『古代人の術式は複雑です。拘束と服従は、同じ構造の一部にすぎません』

「この魔獣は生きている」

『当然です。死体では魔力核を利用できません』

 その言葉に、マルクが顔をしかめた。

「利用?」

『封印解除後、こちらから新しい支配術式を送ります。対象を制御できれば、王国は災厄級最高位の戦力を得る』

「最初から、そのためだったのか」

 ディーンが言う。

『あなた方の任務は遺物の回収です。余計な判断は不要です』

「封印を解けば、こいつが目覚める」

『だからこそ、支配術式が必要なのです』

「もし失敗したら?」

 セシリアが尋ねた。

 水晶の中の術師は答えなかった。

 沈黙が答えだった。

 レオンは鍵を見る。

 半分まで回っている。戻せば、封印を維持できるかもしれない。

「逆へ回す」

 レオンが鍵を握り直した。

『やめてください』

 術師の声が変わった。

『ここまで解除した封印を戻せば、術式が崩壊します』

「なら、最初から説明すべきだった」

『レオン・ガルディア。侯爵閣下の命令です』

「俺は侯爵の兵士じゃない」

『支援を受けておきながら、今さら何を』

 レオンの手が止まる。

 装備。名声。銀剣の黎明という名前。

 侯爵から与えられたものは多い。だが、それでここまで来た。

 自分の仲間を危険へ巻き込み、正体も分からない封印を解いた。

「レオン」

 ディーンが近づく。

「鍵を抜け」

 レオンは頷きかけた。

 その瞬間、水晶から赤い光が放たれた。

 光は封印装置へ入り、鍵を強制的に回す。

「何をした!」

『任務を継続します』

 鍵が最後まで回った。

 広間の鎖が一斉に鳴る。

 巨大猫の首輪へ刻まれた術式が、次々と消えていった。

 痛みを与える光が止まる。鎖が緩む。

 ほんの一瞬、静寂が訪れた。

 巨大猫の瞼が開いた。

     ◇

 赤い目だった。

 怒りに染まったのではない。長い間、怒り以外を失った目。

 巨大猫は息を吸った。

 それだけで広間の空気が引き寄せられ、レオンたちの身体が前へ引かれる。

「退け!」

 マルクが盾を床へ突き立てる。

 巨大な頭が持ち上がった。首輪の針が肉を裂き、黒い血が流れる。

 猫は声を上げなかった。ただ、赤い瞳で人間たちを見た。

 恐怖が遅れて押し寄せる。

 レオンの脚が動かなかった。

 万物堂でミケたちに威圧されたときとも違う。

 あの三匹は、力を抑えていた。目の前の存在には、抑える理由がない。

『支配術式を開始します』

 水晶から、赤黒い鎖が伸びた。

 巨大猫の額と首輪へ絡みつく。

 命令の文字が空中へ浮かぶ。

 伏せろ。従え。敵を討て。

 痛みへ反応し、命令に従わせる術式。

 巨大猫の赤い目が、水晶へ向いた。

 空気が軋む。水晶から伸びた鎖が止まった。

『出力を上げろ!』

 遠隔通信の向こうで、術師たちの声が重なる。

 鎖の光が強くなる。

 巨大猫の首輪が赤く焼けた。

 その瞬間、猫が初めて鳴いた。

 低い。広間ではなく、山全体が唸ったような声。

 赤黒い鎖が逆流する。

『何だ、これは――』

 水晶の中の術師が悲鳴を上げた。

 命令術式が巨大猫へ入るのではない。

 猫の中に蓄積していた痛みと憎悪が、術式を通って術師側へ流れ込んでいる。

 水晶の中で、男の身体へ黒い亀裂が走った。

『切断しろ! 通信を切れ!』

 遅かった。

 水晶が黒く染まる。

 映っていた術師の姿が霧の中へ引き込まれ、消えた。

 次の瞬間、水晶そのものが砕け散った。

「走れ!」

 ディーンの声で、レオンの脚が動いた。

 巨大猫が前脚を持ち上げる。

 鎖が張る。壁へ固定されていた金具が、石ごと引き抜かれた。

 前脚が床へ落ちる。

 広間が割れた。

 レオンたちは崩れる床を飛び越え、通路へ走る。

 背後で石壁が砕ける。天井から巨大な破片が落ちてきた。

 マルクが盾で受け止める。

「先へ行け!」

「一緒に来い!」

 ディーンが腕を引く。

 盾がひしゃげる直前、マルクは身体を滑り込ませた。

 四人は狭い通路へ逃げ込む。

 その後ろから、巨大な尾が壁を突き破った。

 何本あるのか分からない。

 暗い灰色の尾が岩を砕き、遺跡全体を揺らす。

「出口まで走れ!」

 レオンは叫んだ。

 自分が開けた。自分が目覚めさせた。

 その事実から逃げるように、走り続けた。

     ◇

 古代遺跡の山が崩れた。

 内部から膨大な魔力が噴き上がり、岩盤を押し上げる。

 森にいた鳥や獣が、一斉に逃げ出した。

 地面へ亀裂が走る。木々が根ごと倒れる。崩れた山の中から、巨大な猫が姿を現した。

 古代怨猫神グラ。

 かつて、北部一帯の守護獣として崇められた存在。

 封印された頃より、身体は弱っている。骨は痩せ、毛は汚れ、首には鎖と針が残っていた。

 それでも、人間の城ほどの大きさがある。

 グラは森へ前脚を下ろした。

 木々が倒れる。

 地面から魔力が吸い上げられ、灰色の光となって身体へ入った。

 痩せた胴体が膨らむ。傷ついた毛が伸びる。

 一歩進むたび、森の魔力が奪われていく。

 木々は枯れ、川の水が濁った。

 グラの身体はさらに大きくなった。

 やがて、山の尾根と並ぶほどに。

 身体から黒灰色の霧が溢れる。

 霧に触れた動物は、恐怖に駆られて逃げた。古い魔獣たちは地面へ伏し、動かなくなった。人間の街道には深い亀裂が入り、橋が崩れた。

 グラが咆哮する。

 空気の壁が山を越え、数十里先の窓を揺らした。

 北部監視塔の魔力計器は、すべて限界値を超えた。

 王国軍へ緊急報告が送られる。

 災厄級最高位。推定被害範囲、北部三領。

 進行方向にある街と村へ、即時避難命令。

 その中には、リュネールも含まれていた。

     ◇

 万物堂では、エレノアが母の古文書を広げていた。

 地の底から響いた鳴き声のあと、三匹の猫は眠ろうとしなかった。

 ミケは北側の窓辺。ライは耳先へ雷をまとい、落ち着きなく床を歩いている。ルーは何度も姿を消しては現れた。

 三匹から流れ込む感情は、それぞれ違った。

 ミケは怒っている。ライは恐れている。ルーは逃げ道を探している。

 そして、その奥に、三匹とも同じ感覚を抱えていた。

 知っている。会ったことはない。それでも、グラという存在を本能で知っている。

「ここです」

 エレノアは古文書の一節を指した。

 バルドが隣へ立つ。

「読めるか」

「古語ですが、母の注釈があります」

 エレノアは文章を追った。

 大地の爪、灰の尾、夜を食らう者。

 人は彼をグラと呼んだ。

 グラは北の山を守り、冬の魔獣を退け、洪水を鎮めた。

「守護獣だったのか」

「はい」

 古代王国はグラの力を頼った。

 災害から人を守らせた。

 敵国が攻めてくれば、戦場へ送った。

 魔獣の群れが現れれば、一匹で討たせた。

 最初のうち、アルヴェイン家の祖先がグラとの間に立っていた。

 疲れたときは休ませる。怒りを感じれば、人間側へ伝える。戦いたくないときは、王へ拒否を告げる。

 アルヴェイン家は操る者ではない。

 聞き手。

 グラが壊れる前に、止める役目だった。

 だが、戦争が長引いた。

 王国は勝利を求めた。

 グラが疲れていても戦わせた。負傷しても休ませなかった。

 聞き手の言葉は邪魔だとされた。

 アルヴェイン家は宮廷から遠ざけられ、別の術師たちが支配具を作った。

 首輪。鎖。痛みで命令へ従わせる術式。

「グラは反乱を起こしたのではありません」

 エレノアの声が震える。

「限界だったのです」

 グラは最後の戦場で命令を拒んだ。

 人間の軍へ牙を向けたと記録された。

 だが、母の注釈には別のことが書かれていた。

 グラが攻撃したのは、前線へ送られた幼い魔獣たちを守るため。

 王国はそれを反逆と呼んだ。

 守護獣を危険な災厄と定め、地下へ封印した。

 眠らせたのではない。意識が戻るたびに痛みを与え、何千年も目覚めさせなかった。

「封印ではありません」

 エレノアは羊皮紙を握った。

「檻です」

 バルドは黙っていた。

 エレノアの胸へ、遠くから感情が流れ込んでくる。

 あまりにも大きく、まともに受け止めれば意識を失いそうだった。

 痛い。

 暗い。

 なぜ。

 休みたい。

 許さない。

 言葉ではない。

 長い年月で形を失った叫び。

 エレノアは机へ手をついた。

「大丈夫か」

 バルドが肩を支える。

「聞こえます」

「グラの声が?」

「声というより、感情です」

 胸が裂けるほどの怒り。その奥に、疲労がある。

 怒りよりも深い場所で、ただ眠りたいと願っている。

「アルヴェイン家は、グラを操るためにいたのではありません」

 エレノアは言った。

「休ませるためにいたのです」

 その役目を果たせなかった。

 祖先が拒絶されたとしても、結果としてグラは封じられた。

 家に伝わる名誉も領地も、その失敗の上に残ったものかもしれない。

「私の家が、見捨てたのです」

「君がしたことではない」

「ですが、役目は残っています」

 エレノアは顔を上げた。

「グラは、人間の言葉を聞かないかもしれません」

「当然だろうな」

「それでも、聞き手が必要です」

 バルドは古文書を見る。

「グラを止められると思うか」

「分かりません」

 エレノアは正直に答えた。

「ただ、軍隊を向ければ、また同じことになります」

 外から鐘が鳴った。街の警鐘。

 扉が強く叩かれる。

 衛兵隊長が息を切らして入ってきた。

「王国軍から避難命令だ」

「グラのことですか」

「山ほどの魔獣が北部を移動している。進路上の街は、すべて放棄しろと」

「進行方向は?」

 隊長は地図を机へ置いた。

 北部山岳地帯から南東。線の先にはリュネールがある。

「この街へ向かっている」

 ミケ、ライ、ルーが同時に顔を上げた。

     ◇

 王都へ向かう馬車の中で、ヴァレント侯爵は報告書を読んでいた。

 遺跡は崩壊。

 銀剣の黎明の安否は不明。

 グラへの支配術式は失敗。

 北部一帯に甚大な被害。

「予定とは違いますね」

 同行する秘書が言った。

「想定の範囲だ」

 侯爵は窓の外を見た。

 馬車は王都へ続く街道を走っている。自分の領地からは、すでに重要な資料と研究員を移動させていた。

「王国軍はグラを止められますか」

「難しいだろう」

「では、なぜ王都へ」

「責任を負う者を決めるためだ」

 侯爵は新しい声明文を開く。

 古代怨猫神の封印を、アルヴェイン家の残党が破壊。

 公爵令嬢エレノア・アルヴェインが、魔獣を操り王国への反乱を企てた。

 ヴァレント侯爵家は事態の鎮圧に協力。

 銀剣の黎明はアルヴェイン家の陰謀を阻止するため遺跡へ派遣され、消息を絶った。

「証拠はありません」

 秘書が言う。

「証拠は、あとから整える」

「公爵令嬢はリュネールにいます」

「だから都合がいい」

 侯爵は声明へ署名した。

「グラはリュネールへ向かっている。街が消えれば、反論する者も消える」

「進路を予測していたのですか」

「古代の記録を読めば分かる」

 侯爵は薄く笑った。

「グラは、聞き手を探している」

 アルヴェイン家の血。最後の聞き手。

 グラはそれを求めて移動している。

 その途中で街がいくつ潰れようと、侯爵にとって問題ではない。

「声明を王都へ送れ」

 秘書は紙を受け取った。

 同じ頃、北部の森では、山ほどの影が歩みを止めた。

 グラがゆっくりと頭を上げる。

 赤い目が南東へ向く。

 遠くにいる聞き手の気配を捉えたように。

 巨大な前脚が地面へ下ろされた。

 大地が割れる。

 黒灰色の霧をまとった影は、リュネールへ向かって歩き始めた。



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